第51話

 人魚達は口々に言い、白いクジラを導くように泳ぐ。海底に横たわる谷が、彼らの集落らしい。泳いでいくと、岩の壁にぽつぽつと灯りが見える。皆、住み処から出てきて白いクジラの帰還を喜んでいた。中には迎えに来た者と同じように恭しく白い皮膚を撫でて寄り添うように泳ぐ者もいる。

「ご覧くださいワダツミ様、あれは春に生まれた子供たちです」

 人魚の一人がある群れを指さす。小さな子どもの人魚が遠巻きにこちらを見ている。その傍らでは母らしき人魚たちがいた。

 身をくねらせ、白いクジラはその群れに近寄る。きゃあ、と小さな悲鳴をあげて驚く子どもたちが可愛らしく、思わず笑った。母親たちも微笑ましそうに子どもたちを見ているが、どこか緊張した面持ちを隠せていない。白いクジラはそれには気づかず、しばらく子どもたちをからかい、お供の人魚に促されその場を離れた。


「ワダツミ様がいらっしゃれば、この村も穏やかにおれます。我らの先祖、海を彷徨っていたものたちをその御身で救ったのはあなた様なのですから」

 住人の誰もが、白いクジラを慕っている。ワダツミという名前ではなく、別の名前を囁き、嗚咽するものもいた。皮膚に口づけ、額を擦り合わせる者の感覚に、白いクジラは内側で何かが蠢いたのを感じた。それも、すぐにおさまった。

「ああ、あそこに」

 広場らしき場所に辿り着く。中央にくじらが横たわっていると思った。それは、くじらではなく、彼であった。

 くじらもどき。思わず呟き、手を伸ばす。開いた口からはヒトの言葉ではなく、くじらの鳴き声が漏れた。くじらもどきは死んだように横たわり、縄で縛り付けられている。海に引きずり込まれる時に穿たれた銛は、まだ尾ひれに刺さっていた。

「ワダツミ様」

 お供の人魚が慌てて止めるが、その前に白いクジラは彼に近寄っていた。己と同じような白い尾びれは所々が赤く染まっている。いけません、ワダツミ様、おやめください。制止しようとする人魚を尾ひれで振り払う。ギャッ、と彼は声をあげて、動かなくなってしまった。それを見ていた誰かが、小さな悲鳴をあげる。

 くじらもどき、起きて。起きてくれよ。鼻先で彼の肩口をつつく。こんな酷いことをされれば、くじらもどきでさえ死んでしまうのではないかと恐れがよぎった。くじらもどきの瞼が震える。ゆっくりと開かれた双眸から、色素の薄い瞳が現れた。

「――…………」

 くじらもどきの唇が動く。自分の名を呼んでいると思った。しかし、聞き取れない。

「ワダツミ様はおかしくなってしまわれている」

「やはりあの人魚が」

「異様な身体をしている……化け物め、あんなものが我々と同じであるはずがない」

 くじらもどきに寄り添う白いクジラを見て、人魚達は口々に話す。やつを殺せ、と言う者も出てきて、さざ波のように皆それに同調した。

「殺せば、ワダツミ様は元に戻る。八つ裂きにしろ、海の底に捨てて、魚たちの餌にしてやろう」

 皆、銛を持った。石を持った。ほとんど全ての住人が、白いクジラとくじらもどきを取り囲んでいる。彼を逃がさなければ。銛を咥え、引っ張る。貫いているのか、逆刺が引っかかって抜けない。くじらもどきが痛みに呻く。

「りく、どうして」

 くじらもどきが問えば、白いクジラの中で少年はさざ波を立てた。


 もう、とられたくないんだ。


 誰かが投げた銛が、傍に刺さる。ワダツミ様を傷つけるな、と叱りつける声がした。うるさいなあ、と白いクジラは呻く。ようやく友だちに会えたのに、彼を傷つけ、更に殺そうとしてくる彼らが憎い。口を開き、吠える。海中が震え、人魚たちは悲鳴をあげて散り散りになった。勇気のある人魚の一人が、果敢に飛びかかる。それも白いクジラが頭を振れば、ばしん、と突き飛ばされて物言わぬ身体になってしまった。

「だめだ、りく。彼らを傷つけてはいけない」


 どうして。あいつらはお前を殺そうとしているのに。


 白いクジラの声は怒りに満ちていた。その怒りが、歌のように周囲に響く。人魚や魚たちが逃げ惑い、闇に消えていく。視界の端に子供達の群れが見えた。母親が必死に抱え、家へと逃げ去っていく。


「彼らは怯えているだけだ。恐ろしいだけだ。……君が、傷つけるほどではないんだ、りく。君はやさしいから、怒りによって傷つけるなんてして欲しくないんだ、僕は」


 でも、そうしてリクはなにもかもを奪われたんだよ


 白いクジラは憤ってぶかりと泡を出した。くじらもどきは哀しい顔をして身じろぎをし、その力で縄は緩んだ。しかし尾びれに刺さった銛だけは、彼を海の底に縫い付けている。こればかりは白いクジラにも、くじらもどきにも、抜けそうになかった。もどかしげに、くじらもどきの頭上をゆっくりと泳ぐ。あの人魚たちが姿を現せば、これを抜けと命じてやろう。そう思ったが彼らは出てこない。気配だけが、一人と一匹の顛末を見守っているような気がした。

「おいで、……」

 上半身を起き上がらせ、くじらもどきが手招きをした。白いクジラは素直に彼に寄り添う。傷ついた手で、白いクジラを撫でた。

「二百年ぶりだね、――。こんなところにいたのか」

 白いクジラは嬉しげに身震いをした。くじらもどきが笑い、肩を揺らす。そしてやはり哀しげな目で、友に語りかけた。

「二百年の友よ、――、命だったものよ、おねがいだ。その子は、りくは、まだ生きなければならない。たとえ望まれなくとも、生きなければならない。私が君を喪ってしまっても、死ねなかったように、私が誰にも愛されなくとも、生きるほかなかったように。――独りでも」


 いやだ、ボクのだ。これはリクじゃない、もう、海だ。この子は、ボクは望んでいる。


 叫んだのは、イタルだった。それに同調するように皆がざわめく。りくはぼんやりとそれを聞いていた。くじらもどきの言っていることがよく分からなかった。自分は、もともとこの姿ではなかったか。

「りくを返してくれ、友よ」

 己の腹を見た。真っ白なクジラの腹。裂けている。血は出ていない。代わりに全てが垂れ流されていた。魚、ヒト、舟、人魚、海鳥、海豚、鯨、鉄塊。全てが白く、淡く輝いて悲しいと思った。くじらもどきの手が、己の腹を裂いたのだと白いくじらは気がついて、慟哭した。


 いたい、いたい、おなか、やめて


「りく、おいで」

 友人の声が悲しいと思った。痛みに叫ぶ。自分が出した筈の声は、クジラでもあり、イタルでもあり、別のなにかの声でもあった。


 ――、いたいよ、やめて、どうして。どうして、俺は海になれないの、生きなければならないの。


「……そうするほかに、ないんだよ。りく。お前は陸のものだから」

 大きな手のひらに包まれた。あの命だったものの群れから、巨躯の人魚は小さな友人の姿を見つけたのだ。陸はゆっくりと目を開いた。くじらもどき。指から血が流れている。

「……わからないよ、くじらもどき」

 思わず呟けば、泡を吐いた。苦しい。喉を海水が灼いた。



いたる浜に打ち上げられたものを見た瞬間、平田の血の気が失せた。いくつもの海洋生物の骨と、古い船の破片と、硝子の欠片と共に、数日前に行方知れずとなっていた友人の姿があったからだった。

「おい、おい! 陸!」

 平田が見つけた天貝陸は、まるで死人のような冷たさだった。そして、奇妙なことに彼の黒髪は、まるで染められたように、真っ白になっていた。

「陸、死ぬなよ、なあ、陸!」

 大人達が集まってくる。なりふり構わず、平田は陸の名を呼び続けた。

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