第50話
イタルが微笑む。手がぐっと引かれ、陸の身体は傾いだ。落ちる。海に受け止められた。そう感じた瞬間、陸は波に引き込まれていた。手が、陸を引いていく。深い海の底、闇へと。
「一緒にいこう、陸。ボクは君を独りにしない。君はボクを独りにしなかったから、ボクは君を独りにしたくない」
〝海〟たちの笑い声が聞こえる。魚たちが歓喜している。真っ逆さまに落ちていく先に、白いクジラ。幽霊のようにぼんやりとしている。その周囲に、灯火の群れが見えた。祭りで使う蝋燭に似ている。それが白いクジラによりそって、泳いでいる。
あれは魂だ。海豚の、人の、魚の、海鳥の、人魚の、鮫の、舟の、鯨の。――帰ることも出来ずに、海の一部になってしまったものたち。
あの群れのひとつになるのだと、陸は悟った。その瞬間、白いクジラがぐぱりと口を開いた。歌っている。灯火の群れが、白いクジラの唄に呼応して、ひときわ輝いている。水面が遠い。遠くなっていく。ひとつ、泡を吐いたが苦しみは無かった。むしろ、天貝陸は安堵したのだった。
頭をもたげた白いクジラが、少年を飲み込んだ。冷たくもなく、あたたかでもない、苦痛もなかった。自分を飲み込んだ生き物の鼓動も聞こえない。完璧な一つの無が、少年を包む。
――俺は、〝海〟になるんだ。それが、正しいんだ。
くじらもどきはどこ。白いクジラは大きな身体をくねらせ、闇の中を進んでいく。指先に貝殻が触れた。手を伸ばすと、誰かが握り返してきた。知っている手だと思った。
白いクジラは泳いでいる。白いクジラの内側にいる。白いクジラの目で見ている。
ふと、上を見た。魚が海面で跳ねたらしい。上手く泳げないようで、鈍い色の体をみっともなくくねらせていた。それが奇妙だったのだがやがて力尽きたのか、波に弄ばれて浜辺の方へと流されていった。それが愉快で、白いクジラは笑った。ぷかぷかと、泡が弾ける。きっとあれは、砂浜に打ち上げられて、砂にまみれて、ついには埋もれてしまうだろう。
暫く泳いでいると、海藻が生い茂る森が見えてきた。色とりどりの海藻が海底を覆っている。かくれんぼをするかのように、魚たちの影がちらつくのを見て、思わず笑った。
ワダツミ様だ。
ワダツミ様が帰ってきた。
声がして、視線を動かした。人魚。小さな人魚たちがこちらを見ている。手には灯りを持っていた。火ではない青白い光が、彼らと彼らの周囲を照らしている。
こちらです、ワダツミ様
どうか帰ってきてください 元に戻ってください
人魚たちは白いクジラの皮膚を撫でた。彼が長い旅をしてきて、それから帰ってくるのを待ち望んでいたと言いたげな眼差しと手つきが、己を愛でている。
くじらもどきはどこにいるの
白いクジラの問いに、人魚達は顔を見合わせた。こちらです、あなたをおかしくした悪い人魚は、こちらにいます。どうかその姿を見て、鎮まってください。
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