第49話
「思い出したんだ」
驚いた顔で自分を見つめる少年に、イタルは悪戯が成功したような笑みを浮かべていた。
「ボク、海なんだ」
「……海……?」
さっき彼らが話していたでしょ、とイタルが海を指さす。あれほど怒りに満ちた表情をしていた人魚達は、もうこの場にはいない。
「そう、君はくじらもどきに力を貰ったね。海と話すことが出来る力……五年間、君はボクたちとお喋りをした。個を持たない海と――その中でひとつ、君が暮らす陸に興味が出てきた泡が現れた。よく、君と喋っていた〝海〟」
「それが、お前……?」
イタルは頷く。彼が語った言葉は、陸には理解しがたいものだった。形の無いものがこうして人間の姿になって、人間と同じように振る舞うことが出来るのだろうか。
「君たちが知らないだけだよ。あの浜辺に流れ着く人間が、ボクと同じような存在であることを、知らないだけ。きっかけがあれば……」
「きっかけ、って……」
「一年前、君は海で溺れた男の子を助けたでしょ?」
イタルの言葉に頷く。あの時は確かに、〝海〟と話せていた。いや、むしろあれが彼と最後に言葉を交わした日かもしれないと、陸は思い至った。
「あの時、ボクは君を助けるかわりに、君の身体を覚えた。それで、ボクは人間の形になれたんだけど……うっかりしていた。陸にあがるには、何か犠牲が必要なんだ」
「それが……記憶?」
そう、とイタルは頷き、陸のそばにしゃがんだ。青みがかった目が、まじまじと陸の姿を見つめる。
「いいかい、よく聞いてね、リク。ボクは〝海〟であり、半年前に漂着したクジラであり、ヨネ子の兄であり……二百年前にいたる浜に流れ着いて人々に食べられた白いクジラでもある。ボクの中には、この海で沈んだすべてが在る。それを皆は、
「……なんだ、それ。分かんないよ」
陸は首を振る。今目の前にある海と、ついこの間ストランディングした小さなクジラと、海で死んだとされるヨネ子の兄と、二百年前にくじらもどきとはぐれてしまった白いクジラが同一であるなんて荒唐無稽もいいところで、噛み合ってすらいない。しかしイタルの目は嘘や冗談を吐いているとは思えないほど、澄んでいた。
「あいつら、お前がおかしくなったって言ってた」
「彼らにとってはね。きっとボクが海から少し……留守にしてしまっていたから驚いたんだろう。彼らはボクがいないと、どう生きればいいのか分からないから」
「でも、お前がこっちに来ても海はそのままだろ」
「うん。だけど、それに気がつかない者はたくさんいる。怖いんだ、誰だって……縋るものがないと。君だって、そうだろ」
「……くじらもどき、あいつらに連れ去られて……」
ぽつりと呟き途方に暮れる陸をイタルは暫く眺め、切り出した。
「彼に会いに行こうよ。リク、もう苦しまなくていいんだ。たったひとつのわだかまりのために、己が知らない過ちのために、誰かの我が儘のために、苦しまなくていい。海になれば、独りではなくなるんだ。個が溶けて、〝海〟になる。それでようやく君は――安らげる。ボクは、そう思ってる」
「海に? ……お前の一部になるってこと? それって、死ぬってことじゃないのか」
「人間は死ぬのを嫌うね」
イタルはくすくすと笑い、己がやってきたという海原を眺めた。その横顔は、知らない青年の顔に見える。少し凜々しげな横顔。それが、哀しげに眉を寄せたのを見て、陸はひとつ息を吐いた。
「なあ、イタル。お前が言う……海になれば、くじらもどきを助けられるのか?」
「そうだね、助けられるかも。少なくとも、ここでいるよりは……」
「それなら、行くよ。……考えてみたら、もうここにいても息苦しいだけだった」
陸は、望みを口にした。その声は本当に、幼い迷い子のような口ぶりだった。今まで生きてきたところに居続けることに大人になる前に疲れてしまった、子どもの声だった。
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