第45話
「陸?」
いたる浜へ向かう道ばたで出くわした級友の顔を見て、平田は驚いた。殴られたのか、彼の右頬は赤くなっている。なにより、彼の目は呆然としたさまで、冥かった。平田はそれを見て、彼のみに何か良くないことが起きたのだと、直感した。
「どうしたんだ、お前……」
「……なんでもない」
「んなわけあるか、誰に……」
「放っておいてくれよ」
きっぱりと陸が突き放す。しかし平田は、彼の腕を咄嗟に掴んだ。その手に握られている手紙を一瞥したあと、じっと陸を見つめる。
「……ダチだろ」
「親に頼まれたから?」
「オレが、放っておきたくねーから」
平田の言葉に、思わず陸は笑った。笑った拍子に殴られた頬が痛む。少し落ち着いたのか、陸はゆっくりと息を吐いた。道に沿った防波堤にもたれかかると、平田もならった。
「父さんに殴られた」
「なんで」
「母さんを殴ろうとしたから」
陸の告白に、平田は眉を寄せた。そしてふと、平田は友人の母親を思い出した。余所の家族を悪く言う趣味はないが、なんとなく嫌な雰囲気をもっている人間だと、小学生の運動会の時に感じていた。
「反抗期ってやつ? おっせーな」
「はは、いいな。反抗期。そうかも……」
陸が笑ったのを見て、平田は内心安堵した。自分も、親に対してやたらと苛立っていた時があるのを思い出した。母は笑い飛ばして、それでも自分を叱りつけていたし、父は拳骨を振りかぶりながらも、それきりだった。次の日になれば、いつも通りだった。――きっと、陸の家族も違いはあれどそうなるのだろうと、そんな気がした。
「大丈夫だって。謝ったら許してくれるんじゃねーの」
「そうかな……」
「当たり前だろ、親ってそういうもんだろ」
親、と陸は呟いた。どこか無機質な声。ぼんやりと宙を見上げている陸の背中を、平田はぱしん、と叩く。
「お前、まだ神社で寝泊まりしてるんだろ。良かったじゃねえか、夜通し町をふらつかなくてさ……オレ、そろそろ帰らねえと。また学校でな」
「うん……ありがとう、平田くん」
平田がひらりと手を振って立ち去るのを、陸は暫く眺めていた。彼が歩く先に、港町がある。まだ太陽が沈みきっていないが、ぽつぽつと家の灯りが灯りだしていた。あの灯りのひとつに、自分の家だったものがある。
帰ってきた陸は、どこか気落ちしていた。何かを喪った、もしくはその決意をしたような諦観の顔。彼はまた何かを諦めたのだと、イタルは悟った。彼は諦めることが当たり前になりすぎている。半年過ごしただけであるのに、この漂着者にもそれが手に取るようにわかった。
風呂を済ませてさっさと寝てしまった陸の寝顔を、イタルは見ていた。――懐かしい心持ちになる。年下の家族の寝顔。これがずっと守られれば幸せなのだが、とイタルは思った。もうすぐ船に乗る。お国のために。妹は嫌だと言って、母に叱られていた。宥めるのに骨が折れた。私が弟であれば、きっと妹と同じく駄々をこねるだろう。誰だって、知らない場所で、死にたくもないし死なれたくはないのだ。私は海からずっとお前を見守っているよ。そう言って、宥めた。彼女は、泣きじゃくりながら頷いた。――今のは誰の記憶か。
落ち着くこともできずに、イタルは社務所を出て本殿へと向かった。古い神社だ。二百年の歴史があるという。毎日イタルが掃除をしているので、古くも、きれいだった。ここに奉られているものは、幸せだろう。
「カミサマ」
どうか、リクを助けてあげてください。彼はずっと、苦しいのです。五年間、いや、もっともっと前から、彼は苦しいのです。苦しいまま、生きているのだから、もはや自分が苦しいのかさえ、分からなくなってきています。
「ボクはリクをたすけたいんです。彼のこころを、安らかにしてあげたいんです」
クジラの鳴き声がする。ここは陸地であるというのに、不思議だとイタルは思った。目を瞑る。瞑った筈だ。しかし、開いていた。痩せこけた人々が、自分を覗き込んでいる。その手には、刃物が握られていた。
「あ」
その瞬間、イタルは自分が何であるのかを思い出した。波が押し寄せるように、彼にすべての記憶を寄越したのである。
たとえば、自分が白いクジラであること、たとえば、自分が青年であったこと、たとえば、ただの魚だったこと、貝だったこと、船であったこと、冬に流れ着いたクジラであったこと。
それらを抱く、〝海〟であったこと。
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