第44話

「……手紙、返事きたかな」

 ふと、春先に出した従兄弟宛の手紙のことを思い出した。もう夏休みも目前である。もし彼の気が向いていたならば、返事があってもおかしくはない。気が進まないものの、手紙は読みたい。誰もいないだろう時間帯に、一度家に帰ることにした。

 ポストには何も入っていない。意を決して、家の鍵を差し込む。

 相変わらず、家は冷え冷えとしていた。自室にもやはり何もない。――鼓動が早くなる。嫌な予感が当たらなければいいのに、そう思いながらゴミ箱を見る。上等な紙で出来た封筒が、そこにあった。

 陸は自分の頬がカッと熱くなるのを自覚した。誰がしたのかと考える余地もなかった。誰かだなんて、決まっている。

 ガタガタ、と玄関戸が鳴る。陸の靴を見たのか、なんで、と忌ま忌ましげな声が聞こえてきた。どすどすと足音あらく、母が居間に入ってきた。

「アンタ、なんでおるんや!」

「……」

 陸をなじる母の声は怒りと共に僅かな喜色を孕んでいた。久しぶりに出来の悪い息子を罵ることが出来ると言いたげに母は陸に詰め寄ろうとして、しかし息子の表情と、手に持つものをみてハッと立ち竦んだ。

「俺宛の手紙を捨てたのって、母さん?」

 冷ややかに問う陸の声に、母は一瞬言葉を失い、そして取り繕うように「せや」と頷いた。

「なんやあかんことでもある?」

「人のものを勝手に捨てるなよ!」

 陸の怒声が居間に響けば、母は息を詰めた。顔を引きつらせ、視線をうろうろと彷徨わせる。唇を震わせ、陸を睨んだ。

「アホちゃうか。たかが手紙ぐらいで……」

「たかが!? 手紙ぐらい!? なんだろうと人のものを勝手に捨てるなって言ってるんだよ、俺は! あんたそんな事も分かんねえのか!?」

 陸が詰め寄れば、母はブツブツと何かを呟きながら後ずさった。怒りに震えながら封筒を掴んでいる彼の手が視界に入ったのか、彼女の顔に恐れがありありと浮かぶ。

「なんや……気が狂ったんとちゃうか……いきなり帰ってきたと思ったら……ほんま……常識のない……」

 母の悪態は強がりからのものではない、本心からだと悟った時、陸は思わず腕を振り上げていた。母親の短い悲鳴が聞こえる。振り上げた手の拳を握る。握れない。思わず振り上げたのは、封筒を持った手だった。陸は、手の力を抜けるのを感じ、だらりとそれをおろした。

「何してるんだ!」

 父の怒鳴り声が耳に届いた瞬間、胸ぐらを掴まれた。頬に衝撃と痛みが走って、よろめく。目の前には苦々しい顔の父が母を庇うようにしてこちらを睨んでいた。

「母さんを殴ろうとしたのか、陸!」

「……」

「お父さん、もう私、こんなん嫌や、また私を殺そうとして! ……今度こそ殺されてまう!」

 母が泣き叫ぶ。お前も黙っていろ、と父が苛立った声で母を咎めれば、いよいよ彼女は半狂乱で泣き叫んだ。

「また……ってなに」

「陸、母さんに暴力をふるうだなんて、最低だぞ。……何があったんだ」

「またって、なんだよ!」

「あんたを産んだ時なぁ! 私、死にかけたんや! 腹の中のものが出かかって、出血多量で! あんたは私を殺して、生まれようとしてきたんや! 殺せんかったから、また殺そうとするんやろ! あんたはそういう――」

「祥子! いい加減にしろ!」

 しん、と沈黙が落ちる。泣きじゃくりながら、母はやはり声を震わせ、息子に呪詛を吐いている。目眩を感じ、陸は一度目を瞑った。母が、息子である自分を憎悪していた理由を告白された衝撃が、陸から思考を奪っていた。

「……だから、母さんはずっと俺が嫌いだった?」

「陸、母さんは本気でそんな――」

「これで本気じゃないって言える? 母さんがこうなって言った事が、本気じゃなくて冗談だって言えるの、父さんは」

「陸、落ち着いて父さんの話を」

「父さんは知ってたんだろ。この人が、俺につらくあたってる理由がこれだって」

「……」

 父は出すべき言葉を持っていないようだった。思わず陸が俯けば、持っていた封筒が、くしゃくしゃになっていることに気がついた。

「……出ていけ、人殺し……」

 絞り出すような女の声を聞いた刹那、陸は居間から、天貝家から飛び出していた。父親の声を聞いた気がしたが、陸にはもう、それに立ち止まる理由が分からなかった。

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