第42話
「家族のこと、覚えてる?」
海水の冷たさに指先を震わせながら、陸はくじらもどきに聞いた。少し元気を取り戻したのか、くじらもどきの顔色はよかった。さて、と首を傾げれば、薄紅の髪から水が滴る。
「顔も声も、尾びれの色さえ覚えていないよ」
「みんな?」
「ああ、確か、十も満たない群れだった。それの誰も、覚えていない……きっと向こうも覚えていないだろうね。僕を群れから追い出したのだから、道理だろう」
「ごめん」
くじらもどきの言葉にハッと我に返り、陸は謝罪した。しかしくじらもどきは、なんてことはないと言うように、笑った。
「彼らを恨んではいない。恐ろしかったに違いないよ、同じ母から生まれたというのに、僕だけがこんなにも大きくなってしまったのだから、恐れるなと言うほうが酷なのさ」
「でも、でもさ……お前、大きいだけじゃん。くじらもどきは優しいし、良い奴だよ。なんで家族なのに、ちゃんと見ようとしないんだ……」
「些細なきっかけがあれば、目はたちどころに曇ってしまう」
くじらもどきの声は波立つことなく陸に届いた。それが、自分だけが憤っているように思えて、陸は恥じ入るように俯いた。
「なんで、見てくれないんだ……」
「……りく」
くじらもどきの指が陸に触れる。他の生き物のことであるのにこんなにも怒りや失望を露わにする少年の心情を、人魚は慮った。そして、五年ほど前、彼と出会った頃に交わした言葉を思い出し、そうか、と一人、腑に落ちた。
「でもね、りく。それでも誰かは……自分のことを見てくれている筈なんだ。血の繋がったものじゃなくてもいい。それを知っていれば、二百年でも世界を彷徨える」
「……一人でも?」
「僕は、そう思うよ」
くじらもどきは頷いた。二百年もあれば、彼のように全てを赦すことが出来るのだろうか。いや、赦すというよりも、考えるほどのものではないという諦めに似た心境になれるのだろうと陸は考えた。おそらく、人間ではどだい無理な話にも思える。陸は彼を羨ましい、と笑った。
「俺にとって、くじらもどきがそうだよ。だから……俺が人魚だったり、クジラだったりすればよかったのかも。そうしたら、くじらもどきを一人にしなかった」
「…………そうはいかないね、君は人間だから」
やんなっちゃうよな。陸が呟く。地平線を眺める。もう日が落ちかかっていた。
「俺、大学に行くんだ。四年間は町を離れる。……でも俺、くじらもどきに四年間待ってくれなんて、言えない。……だから、もうすぐお別れなんだと思う。嫌だな」
「どうしてお別れだと思うんだい」
「……俺は人魚じゃないし、クジラでもないし、それに、もう子どもじゃなくなるから。くじらもどきは、きっと大人になった俺には会ってくれないだろ。だからこうして、大人になる前に帰ってきてくれた。違う?」
「……聡い子だ、君は」
くじらもどきの言葉に、陸ははにかんだ。そうでもないぜ、と小さく首を振り、そして鼻をすすった。
「白いクジラ、見つけられなかった……ごめんな、くじらもどき」
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