第41話

「先生」

 母の戸惑ったような、申し訳ないような声に小野寺先生ははい、と微笑んだ。

 この子、昔から勉強も運動もおろそかで、今も先生にご迷惑をおかけしていないかと申し訳ない気持ちで私、いっぱいなんですよ。私は昔から、勉強せんと将来困るよってこの子に言ってるんですけどね、中々分かってくれなくて。それで、今の今になって、この子、大学に行きたい言うんです。どう思います? 私はこの子の事をずっと見てきたから、この子がどんな無謀なこと言ってるかも分かりますよ。でも、聞きません。……ねえ、先生。あり得ませんよねえ……。

 切々と語る母の言葉を、小野寺先生は静かに聞いていた。口元には笑みを浮かべ、時折相槌を打っている。陸は、自分の息子がいかに不出来かを語る母の横で、顔を強ばらせていた。――お母さん、と小野寺先生が、切り出す。

「お母さんもお忙しいと思います。ただ……陸君の成績表はご覧になっていますでしょうか」

「……え、いえ、……この子、怒られるのが嫌なんか見せようとしなくて……」

「陸君?」

「貰ったらちゃんとテーブルに置いてます。父さんは見てるし……成績の事、知ってる」

 小野寺先生の問うような眼差しに慌てて陸が反論する。母が嘘つきなや、とぽつりと呟いたのが聞こえた。

「見てくれてると思ってて……」

 見てすらいなかったのか、という失望が陸の表情を曇らせる。勉強が出来ない、という母の言葉の根拠がどこからくるのか腑に落ちもした。小野寺先生は暫く黙っていると、ゆっくりと息を吐き、それからすっと母を見据えた。

「では担任である私から、お母さんに今、お伝えしたほうが良いでしょう。陸君の成績は申し分ありません。ある程度の基準を充分にクリアしています。……勉強が疎かであるという事は、全くあり得ませんよ」

 小野寺がファイルから出したのは、成績表の写しである。

「そ、そうなんですか……? なにかの間違いでは……」

 先ほどまで息子を貶めていた母が、小野寺先生の言葉にしどろもどろになる。まさか、そんな、と未だに信じられないような目を彷徨かせていた。言外に息子の成績も見ていないのかと責められていると感じたのか、母はそわそわと膝の上で指を動かしている。

「大学に進学するか、就職するか、生徒本人の意思が一番に尊重されるべきだと私は考えています。その点も含め、学校側として生徒が望む進路をどのようにサポートするか、という話をさせていただきたいのですが」

 小野寺先生が、陸の方を見る。

「さて、陸君。これは君の将来のことだ。お母さんも言っていたね、ここでしっかりと自分の進路を考えないといけない。勿論、私たちは君の希望に添ったサポートをしたいと思っている。お母さんも、そうですよね? 親としては大事な息子さんの進路、心配なのは充分に理解いたしますよ」

「…………それは、その、……はい」

 いよいよ、母の声は小さくなった。目の端から見える彼女は俯いている。

「君は、どうしたい?」

 聞かせて欲しい。小野寺先生がじっと、陸を見つめる。その瞳には、生徒に抱く期待と、少しの圧がほのめいていた。

「俺は」

 口の中が乾いているのに気づき、陸は喉を動かす。こく、と息を飲んで、口を開いた。

「俺は、大学に進学しようと思っています」

「…………そんなこと、」

「聞きましたね、お母さん」

「…………はい」

「では、その通りにしましょう。大丈夫です、私から見れば陸君はとても……優秀です。一緒に頑張りましょう」

 小野寺先生は満足そうに笑っている。それとは正反対に、母は顔を真っ赤にさせ、愕然としていた。まだ何かを言い返したそうに、唇を震わせている。

 

 帰り道は親子揃って無言だった。母は最早会話を拒否するような雰囲気を纏わせ、ヒールを高らかに鳴らしている。陸も、そちらを見ようとはしなかった。

 天貝家に着いて、母は何も言わずに玄関の扉を開けて家に入った。息子を拒絶するかのようにぴしゃり、と扉が閉まる。

「なんだよ……」

 閉ざされた扉に、陸は思わずそう零した。そして小さく息を吐き、仮住まいの神社へと足を向けたのだった。

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