第39話
「その、覚えてる?」
岩場の高い場所に座った陸がパンを囓りながら切り出した。
「お前がここを離れる時に連れて行った……人魚」
「ああ……彼はきちんと送り届けたよ。やはり住んでいた場所は無くなってしまっていたけど」
くじらもどきが声を落とせば、そっか、と陸は頷いた。気を取り直し、陸は友人を見上げる。
「そのあと、どこに行ったんだ?」
「南へ。途中で、くじらの群れに出逢ってね。一緒に旅をした。それが二、三年ほど。彼らは途中で別の海流に乗っていったけど、僕は南の海にいたんだ。噂を聞いてね……」
「噂?」
「白いくじらを見たっていう話。これも途中で知り合った人魚が教えてくれた」
「人魚、……」
「僕よりも古い人魚だった。南の海にずっと住んでいるみたいでね。だから……彼女が言うなら本当に僕の友人がいると思ったんだ」
「…………」
くじらもどきの話に、陸は視線を彷徨わせた。冬にやってきた研究員が語った話、そして今くじらもどきが語っている白いクジラの話が、陸の頭の中でぐるぐると泳いでいる。
「その、それで、白いクジラはいたの?」
陸が問えばくじらもどきは静かに首を振った。
「白いくじらはいたよ。でも、彼は僕の友人よりずっと若かった」
くじらもどきの声は落胆を露わにしていた。白いクジラは別の個体だった、という事実に陸は、僅かな安堵を感じた。
「どこにいったのだろうか」
「……あの、さ」
気を落とすなよ、と言いかけて、止めた。どこか落ち着かない陸の様子に、くじらもどきは首を傾げる。しかし催促することはせず、久しぶりに会った友人の言葉を無言で待っている。
「俺もほとんど海を見てたけど……、白いクジラは見なかったし……」
俯く陸の表情は、くじらもどきからは見えなかった。しかし、彼が己に何かを伝えたがっているような気配をこの聡い人魚は感じ取っていた。それでも、くじらもどきはそれを問うことはせず、友人の言葉を待っている。
「……ヘンなヤツは流れ着いたんだ。人間だけど、海から流れ着いてきたんだ。俺が助けたから、一緒に住んでる。ヘンだけど、いいヤツだよ」
「ふふ、ぜひとも秘密にしておいて。ぼくは暫く……ここにいるつもりだから」
くじらもどきが笑って言えば、陸は安堵した。少なくともこの春と夏の間、彼はここにいるつもりだと分かったからだ。小さな安堵の中で、陸はくじらもどきにとめどなく語った。五年間のこと。海の言葉が聞こえなくなったこと。この小さな町と隣町の往復の生活なので、語ることはあまりに少ないと、今さらながら思った。
「冬の終わりぐらいかな、クジラが流れ着いて……」
「……」
「分かったんだけど、ここの海は底のほうでクジラの鳴き声みたいな音を出すんだって。だから、クジラやイルカが呼ばれるんじゃないかな。……くじらもどきは、そんな音、聞いたことある?」
「聞いたよ。だから五年前、ぼくはここに流れ着いたんだと思う。友だちの声だと思って近寄れば、この磯に迷い込んでいた……そうか、あれは違うものだったのか」
くじらもどきが小さなため息を吐く。やはりその顔は疲れていて、陸は彼が気の毒になった。
「……しばらく、休めよ。俺、また来るから……」
「ありがとう、優しい友だち。……そうしよう、長旅で……ぼくは少し疲れた……」
くじらもどきが目を伏せ、物思いに耽り始める。そのすべすべとした肌を、陸はそっと撫でた。五年前には無かった傷が、尾ひれについている。それを見て、陸はこの友人は五年間ずっと諦めきれないまま旅をしていたのだろうと悟った。
学校へ行くために陸が去った後、くじらもどきは朝の陽光を浴びながら、磯で休んでいた。南からここへ渡り泳いだ疲れが、人魚の身を苛んでいた。その中には、もう随分と長い間、友人を探してもなお見つからない事に対する徒労もあった。最早、この世にはいないのだろうか、いや、それならばとうの昔にその骸を見つけている筈だ。あの嵐の夜、荒れた波のせいではぐれてしまった友人。この海だった。嵐が過ぎ去ったあと、何日も探した。それでも、見つからなかった。――諦めようとしても、出来ない。
ざぶんと海に戻る。この海の流れは、他の場所とは違っていた。ひどく複雑なのだ。だからこそ小さな魚は群れを成して流されないように一つの大魚になる。
――陸は、何かを伝えたがっている。そう直感した。しかし、彼自身の欲と、優しさがそれをくじらもどきに伝えることを妨げているように見えた。それが、人間によく見られる葛藤、といったものであることをくじらもどきは理解していた。つまり陸は、大人になりつつあるのだ。
同時に、くじらもどきは驚いていた。たいてい出会った人間の子は、己と再会を約束する。しかしくじらもどきが数年後に海に立ち寄ったとしても、人間の子は大人になり、くじらもどきのことを忘れている。もしくは、大人という生き物特有の、狩人の目でくじらもどきを迎え、捕らえようとした。人間はそういう生き物である。
陸は少し違っていた。子どもの頃にした約束を覚えていたし、己を捕らえようとする欲もなく、ただくじらもどきを待っていた。それだけでくじらもどきは、彼が殊更好ましかった。それと同時に、心配でもあった。彼は、ちゃんと彼の群れ――人間の群れで苦しい思いをしないだろうか。いや、もう充分に苦しんでいるのだろう。
その苦しみはただ身体がクジラのように大きいだけで、群れから放逐されてしまった自分自身が感じる孤独と似たようなものなのかもしれない。二百年、海を彷徨っていてもくじらもどきには帰る群れも、縄張りもない。孤独の中で唯一、白いクジラを探すことだけが心の拠り所であったことは、くじらもどき自身も否定しなかった。
……それももう、潮時なのかもしれない。随分長く旅をした。この旅で出会った、南の海に住む年若い白いクジラには、子どもがいた。古い友人のように孤独でなかったことだけは、くじらもどきを安心させた。同時に、見つからない友人を探すという孤独に、耐えられなくなってきた。
「……」
クジラの鳴き声、に似た音。己を呼んでいる。そう思った。あれに呼ばれれば、陸地に流れ着いてしまうという。たしかに、寂しげだ。あれを哀れに思ったならば、引き寄せられてしまうだろう。深くまで潜る。魚が、闇の中できらきらと鱗を輝かせている。
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