第38話
港から出る漁船の影が海面のそこかしこに浮かんでいて、それを朝焼けが飲み込んでいく。新聞を配達するバイクのエンジン音は遠い。
立ち入り禁止の札がかかる鎖を掻い潜り、浜におりる。ほのぼのとした明るさの中、陸は浜辺を抜け、茂みへと入った。濡れた土がスニーカーを汚し、葉から滴る水滴が陸の肩を撫でた。波の音が大きくなる、ここはまだ、朝日の光が届かないので、暗い。
暫く歩くと、暗い道がぱっと開けた。ごつごつとした岩と、海。
「ああ、りく。見てごらんよ」
彼は潮だまりを眺めていた。五年前と変わらない、小さな池のようなそこをうっとりとした眼差しで。
「……」
陸は五年ぶりに姿を現した友人の姿をじっと、見つめた。淡い珊瑚色の髪、薄い色素の瞳。自分は背が伸びたはずであるのに、彼の身体はやはりクジラと見間違うほどに偉躯であった。
「なに、してるの」
声の掠れに陸は小さく咳払いをした。高鳴る鼓動がうるさい。少しよろけながら、岩場を歩く。歩きなれている場所だというのに、陸は彼のそばに行くまで、三度躓いた。
潮だまりには、いつものように波から取り残された海の水が溜まっていた。そこに、小さな花びらたちが浮いている。
「きっと美しい魚のうろこだよ。うすべにいろの大きな魚だ。きっとこの近くを泳いでいたんだろうね」
ほら。くじらもどきの指先が、潮だまりに触れた。そのままくるりと指で円を描けば、潮水と共に彼曰く〝魚のうろこ〟が渦と共にくるくると回った。
「やわらかいうろこだ。まるで生まれたてのようだから、赤ん坊なのかもね」
くじらもどきが指に着いた薄紅色の鱗を、友人に見せるように差し出した。陸はそのうろこ、花びらの正体を知っている。それを教えてやるべきか、少し迷った。
「一度、お目にかかりたいものだ」
「……花だよ、それ」
「おや、そうなのかい?」
「桜。見たことない?」
くじらもどきは陸の言葉にぱちりと瞬きをした。この近くに桜の木はあっただろうかと陸は考えたが、思いつかない。
「お前ほどの大きさで、ごつごつとした木だよ。この時期の一週間だけ、花を咲かすんだ。たぶん、どこかで咲いているんだろうな」
「こんなに美しい花を咲かすものがあるだなんて。一度見に行ってみたいな」
陸のように足があれば、見に行けただろうに。くじらもどきが笑う。その顔には、少しの疲れが見えていた。
「くじらもどき」
陸は友人に歩み寄る。手のひらでその身に触れれば、ひんやりとした感触が伝わった。くじらもどきは陸を見下ろし、それからゆっくりと彼の頭を指先で撫でた。木々の朝露のように、海水の雫がシャツに降り注ぐ。
「すっかり大きくなったね」
「……絶対思ってないだろ?」
「思っているさ。五年前の君は、僕の手のひらで包めそうなほど小さかったから」
ただいま、りく。くじらもどきが笑みを向ける。陸は一度、唇を噛んだ。
そして、小さな息を吐いた。
「おかえり、くじらもどき」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます