第37話
「ここ、何?」
「街の資料館。神社といたる浜ばかりにいても飽きるだろ」
「ボクはリクと一緒ならなんでも」
春休みになってからのある日、陸はイタルをつれて資料館に来ていた。入館料を払い、中へと入ればいつものようにあのザトウクジラの骨格標本が二人を出迎える。
「…………あれは?」
「大昔に漂着したクジラ。もともと神社に奉納されてたんだって」
「じゃあ、カミサマだ」
イタルがそれを見上げながらぽつりと呟く。春休みだからか、小さな子どもも遊びに来ているらしい。そこかしこではしゃぐ声が聞こえてくる。
「あら、こんにちは」
声をかけてきたのはのはあの研究員、峰浦だった。今日は漁師のような作業着ではなく、動きやすそうなジャージを着ている。
「どうしたんですか、こんなところで」
出会うとは思っていなかった陸が驚いた声をあげれば、峰浦はきょとんとした顔をさせたのち、調査が終わっていませんので、と答えた。
「ここで調査を?」
「はい。この町はストランディングの件数が多いので、この資料館が出来た時に調査が出来る研究室を作ったんですよ。……昔は常駐の研究員がいたんですけど、今はいなくて。だから私たちが呼ばれた時にはここを借りて使っているんです」
ちょっと休憩中で。笑う峰浦の手にはホットのほうじ茶が握られている。しかしそれは随分前に買われたもので、もう温かさを失っているように見えた。会話が途切れ、陸が何を言おうか迷っていると、峰浦は視線を上げた。この資料館の主――ザトウクジラの全身骨格標本を見つめる横顔にはどこか思案の影が落ちていた。
「……クジラに興味が?」
しばらく三人でそれを眺めていたが、切り出したのは峰浦だった。問われた陸はひとつ頷き、人並みには、と付け足した。
「生きて泳いでいるクジラは見たことありません。この町に生まれて、ずっと海を眺めてるけど」
「少し沖合に出てみれば、すぐ会えますよ」
「……船にはまだ乗れなくて」
「ご両親は漁業を?」
「はい。父さんが」
なるほど、と峰浦が相槌をうつ。今度は、陸が彼女に問おうと口を開いた。
「……あなたは知ってるんですか? その……クジラがよく流れ着く理由とか……」
「長年の研究では瀰境町の近海は特殊な音波が発せられていることが判明していて、それがクジラやイルカを誘う、と言われていますね」
「…………」
自分たちの研究は、当たっていた。安堵すると同時に、ちょっとした気落ちも、陸は感じた。自分たちが大発見だと思っていたものが、既に分かりきっていた事だったのだ。
「……なんだか、ちっちゃいなあ。俺」
「彼に比べれば、皆小さいものです」
峰浦がザトウクジラを指させば、確かに、と思わず笑う。そして陸はふと、彼女に聞きたくなった。
「あの、質問してもいいですか?」
「クジラのことならある程度は。もちろん、イルカも」
「その……クジラのことです。白いクジラって、いるんですか?」
沈黙が下りる。問いを口にした途端、妙な事を聞いてしまった、と後悔がよぎった。顔に熱が集まるのを自覚しながら、陸は俯く。向けられた視線に対して、言い訳をしなければと、ふと思った。
「いや、その、気になっただけなんです。すみません……」
「有名なのはモカ・ディックですね。十九世紀前期に実在した白いマッコウクジラです。〝白鯨〟のモチーフといえばわかりやすいでしょうか。他にも白いクジラは何度か目撃されています」
「……今も、いるんですか?」
「いますよ。オーストラリアに」
峰浦の言葉に陸ははっと顔をあげた。本当ですか、と思わず聞き返せば、はい、と彼女は笑う。
「一九九一年、オーストラリアで確認された世界で唯一生存している真っ白なザトウクジラ」
「ザトウクジラ……」
「ミガルーと呼ばれています」
ミガルー。口の中で繰り返した。今もまだ生きている、白いザトウクジラ。くじらもどきは会ったことがあるのだろうか、それは彼の友だちなのだろうか。イタルは二人の話を聞いているのか否か、ぼんやりとクジラを見つめている。まるでそこから目が離せないようだった。
「地元では幸運の象徴と言われているそうですよ」
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