第35話

「アカボウクジラですね。少し小柄……五メートルぐらい」

 翌日、打ち上がったクジラを検分しにやってきたのは女性の研究員だった。資料館から連絡を受けた彼女は東京にある研究室から夜通し車に乗って、瀰境町みさかちょうにやってきたのだという。クジラは既に息絶えていて、腹が膨らみ始めている。

「この子を見つけたのは?」

「俺です」

「どうも、峰浦みねうらです。見つけた時のことを教えていただけますか?」

 はきはきとした振る舞いの研究員に、陸は昨日の事を伝えた。見つけたのは昼過ぎ、既に浜辺に漂着していたこと、元気がなく戻る意思もなかったこと。

「なるほど……」

 彼女の出で立ちは陸の思う研究員然とした白衣などではなく、作業着に胴長、ゴム長靴とそれこそ町で暮らす漁師たちの仕事着と変わりない。

「見ますか?」

「え?」

「クジラの解剖。この町の方なので、見慣れてるかもしれませんが……」

「見たこと、ないです……」

「すごいですよ」

 そう言い残して、峰浦はクジラの方へ歩いて行った。どうやらここで見ていてもいいらしい。彼女の他に、もう二人ほどいる。その手には、薙刀のようなものを持っていた。

 峰浦の手にも、刃物がある。慣れた手つきでクジラの腹に刃を入れた。なんの抵抗もなく、すっと刃はクジラの腹を割いていく。するとそこから勢いよく血が噴き出て、峰浦のゴム手袋と胴長を汚した。

「うわ……っ」

 噴き出てきたのは血だけではない。その腹に収まっていたであろう腸が、まるで生き物のように裂け目からあふれ出てきた。血と腸は、砂浜を赤く汚していく。峰浦は出てきたものを小さい刃物で切り分け、回収している。他の二人は、あの薙刀のようなものでクジラの皮膚を、脂肪ごと剥いていた。赤褐色の皮膚が剥がれ、クジラは肉の塊になっていく。

「…………」

 てきぱきとクジラは切り分けられていく。もはや、それが海を泳ぐ生き物とは思えないような姿だった。陸はその様子を呆気にとられながら見つめている。

 その隣で、イタルもじっと彼女たちの行動を凝視していた。ほとんど息を止め、瞬きさえしなかった。青みがかった双眸が、肉塊となったクジラを哀れむような眼差しで見ている。

「イタル?」

 イタルの様子に陸は不審を感じた。彼の手は、関節が白むほど強く握られ震えているのを見たのだ。はっとして彼の顔を見る。いつもの穏やかな表情は失せ、暗い影を落としていた。まるで、己が刃で切り分けられているのをじっと耐えている。陸にはそう見えた。

「なあ、大丈夫か? 気分良くないなら、無理に見ない方がいいだろ……?」

「うん……そうだね、ごめん、先に戻るね」

 言葉少なに、イタルが立ち去る。暫くその姿を眺めていたが、結局陸はクジラの解体が終わるまで眺めていた。


 イタルが熱を出した。正月の疲れと、クジラの一件で体調を崩してしまったのだろう。流行病でないことだけはよかった。

「水、ここに置いてあるからな。なんかあったら言えよ」

「…………」

 顔を赤くし、ぐったりとしたイタルに声をかけ、部屋を出ようとする。しかし袖を引かれ、視線を落とせば、ぼんやりとした顔のイタルがこちらを見ていた。

「やだ、ここにいてよ」

「……しょうがないな……」

 呆れた声で椅子を寄せる。どかりとそこに座ればイタルはほっとしたように、袖を引いていた手を離し目を閉じた。腹の奥で何かが渦巻いて、それが身体を病ませている。ここにいてと同居人に乞うたものの、実は意識を保つことすら難しく、すぐにうつらうつらとしはじめていた。

「おなか……ぐるぐるする……」

 殆ど寝言に近いイタルの訴えに、陸は放り出された彼の手をぐっと握った。そうすれば安心するに違いないと思ったのだ。自分が小さい頃に風邪をひいたときも、誰か親しい人に手を握って欲しかったのを思い出していた。

 手のひらに伝わる陸の熱を感じながら、イタルは意識を眠りに沈めていた。いつものように夢を見る。暗い闇の中で漂う夢。闇の中では魚の群れが泳いでいる、朽ちた船が泳いでいる。顔も分からない人間も漂っている。小さなクジラが横切る。それは腐りかけていた。腹から臓物を溢れさせながら、泳いでいる。イタルが見る夢はいつも悲しみと寂しさがあった。今は、浜辺に取り残されたクジラの嘆きが、歌のように夢の中で響いている。クジラに触れた。クジラは魚になった、クジラは船になった、クジラは顔の無い人間になった、クジラはイタルになった。

 ――クジラは海になった。

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