第32話

 蝋燭がない夜のいたる浜は真っ暗だ。ともすれば海と浜辺の境が分からず、そのまま海に足をつけてしまいそうになる。冬間際、虫の音もないなかで、砂がぎゅ、と踏まれる音と、寄せては引く波の音が二人を包んだ。

「寒いな」

 陸がぽつりと呟く。口の端から白い息が漏れた。適当なところ、波が届くかどうかのところで足を止め、二人は立ち尽くした。

「真っ暗だね」

「夜だからな。ああ、でも……向こう。船の灯り」

 陸が指さす先に、いくつかの小さな光が見えた。暫く黙って、それを眺める。陸は父が去ってからと変わらず、物憂げな顔をさせていたのを見て、イタルは口を開いた。

「リクの、お母さん」

「……俺のこと嫌いなんだよ。なんでか分からないけどさ……。嫌いだから、ランドセルもよくわかんない色にするし、怪我したら怒るし、良いことをしても信じない。そのくせ、母さんの姉の子どもはめちゃくちゃ好きなんだ。もしかすると母さんは、なおちゃんを子どもにしたかったのかも」

 イタルの言葉を遮るように、陸が語る。ここには漂着者のイタル以外誰もいない。町の誰かに聞かれないように自分の考えを吐露出来るのだと陸は思わず饒舌になる。それをイタルは、静かに聞き、ふたたび問うた。

「リクはリクのお母さん、きらい?」

「分からないよ、そんなの。ちっさいときはさ、つらいし、寂しいし、なんでって思ったし……母さんにどうやったら好きになってくれるか考えた。でももう、そういうのも感じないんだ。しょうがないなって。そんな母さんから生まれてしまったんだからさ、もう、どうしようもないだろ」

 すん、と鼻を鳴らす。足下の冷えを感じ、陸はぎゅ、ぎゅ、と砂を踏む。

「……親を誰にするか、子どもを誰にするかなんて、選べないだろ。今のところは。そういう小説もあるけどさ…………俺の母親は天貝祥子だよ。……たぶん」

 自嘲する。これで、自分の実の母親は別にいて、彼女が実の母ではないならば、彼女の振る舞いにも合点がいく。実際にはそんなことはただの妄想で、生まれたばかりの赤ん坊の自分を抱く父と、母の写真はある。あれは、どこにいったか。

「リクはずっと寂しいって思ってる」

「……お前に分かるかよ、そんなの」

「分かるよ。ボク、リクのこと分かるよ」

 イタルが陸の手を掴み、そっと引く。濡れた砂を踏む音。小さな波飛沫が爆ぜている。イタルが引くままに、陸は一歩踏み出した。彼の、淡い輪郭が闇の中で優しく浮かんでいる。青みがかった目は、相変わらずきらきらとして、何も悪いことを考えたことがないのだと誰もが分かるような眼差しだった。それに見つめられると、恐ろしくなる。母の眼差しとは正反対の恐ろしさ。

 つま先に海水が触れたのが分かった。

「そっちは海だぞ」

 呆れた声で、陸は告げる。イタルはうん、と頷いて、それから立ち竦んだ。

「……寒い。帰ろう、イタル」

 イタルの手を握り返す。ゆっくりと引き寄せればイタルは素直に従った。もと来た道を歩いて行く。

「あれ……」

 ふと、陸は海を見た。抱いた違和感にゆっくりと瞬きをする。そして思い当たって、小さく息を飲んだ。――海の声が、聞こえない。

「リク?」

 イタルが名を呼ぶ。自分の中で何かが抜け落ちてしまったような表情で、陸はしばらく闇の中をじっと見つめていた。

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