第31話
秋もすっかり深まってきた。
神社の境内にある木々の葉が、ひとつひとつ落ちていくのを眺めながら、イタルは供え物として置かれていた菓子や果物を、新しいものと入れ替えていた。
この町に流れ着いて数ヶ月経つ。若者の記憶は彼が波に弄ばれた時に底へと落としてしまったかのように、彼の手には戻っていない。
それでもイタルは、特に気にしてはいなかった。――何故なら、あの優しい少年と共に住んでいるので、それが問題とは思えなかったのである。彼が学校という所に行っている間、若者は彼から借りた本を読んでいた。社務所兼家の居間には大きな本棚がある。最初は古びた本が数冊あるのみでほとんど空であったが陸が家から少しずつ持ってきているのか、半分ほどは埋まりつつある。ほとんどが小説だが、参考書も混じっていた。
社務所にもテレビがあり、この時間にはひっきりなしにどこかの町の事件、どこかの国の紛争、どこかの町の美味しいレストラン、どこかの国の絶景スポットが流れているのだが、それらがイタルの記憶を呼び戻すものでは無かったし、どれもが興味をそそられるものではなかった。
彼の興味をひきつけるのは、己を見つけたあの少年、天貝陸だけといっていい。
時折、あの老婦人や町の人間が神社に参拝するついでにイタルに話しかけてきて、それはイタルにとっては好ましいものであったが、彼の中で陸と、そのほかといった区別を動かすものではなかった。
イタルの指先が、紙面を撫でる。乾いた音が耳に届く。この本は陸が家からもってきて、自分に読んでもよいと言ってくれたものだ。海底二万哩。記憶を失っているというのに、イタルの頭はそれをすらすらと読めた。
「おうい、イタルくん」
片付けを終えて読書に耽っていたイタルを、外から誰かが呼んでいる。社務所の受付カウンターに出てみると、そこには陸の父がいた。
「おじさん。こんにちは、陸は学校だよ」
「ああ、知ってるさ。もう帰ってくるだろう?」
陸の父の言葉に壁にかかった時計を見上げる。たしかに、夕方にさしかかっている。夕陽の赤が、外の木々と社を照らしているのが眩しくて、イタルは目を細めた。
彼は右手にビニール袋を持っていた。そこには野菜や肉が入っている。どうやらこれを持ってきたらしい。陸は学校の帰りに、瀰境駅前の商店街で買い物をして帰るのでイタルが腹を空かせるということはなかったが、目の前にいる陸の父は月に一度か二度、申し訳なさそうな顔でこの神社にやってきて、ビニール袋に詰めた食料を二人に渡すのだった。
「あれ、父さん」
噂をすれば影と陸が帰ってきた。
味噌汁と、野菜炒めを囲む。せっかくなので父も夕食に誘えば、彼は嬉しそうに席についた。
「どうだ、何か困ったことはないか」
「大丈夫だよ。ちゃんと電気とガスも通ってるし……一人じゃ無いから。……そっちは?」
「お前の飯が恋しいぐらいだなあ」
味噌汁を一口、父がぽつりと呟く。毎日の夕食は母が作っているようだが、相変わらず塩辛いという。
「母さんは?」
「まあ、いつもどおりだ。パートに行って、帰ったら飯を作って酒を飲んでる」
「ふうん……」
「祥子の気分がいいときは話すけどな」
あんまり変わらんよ、と父が言うのを、陸はほとんど無感動に聞いていた。一度こっちに帰ったらどうだ、と父は言うがあまり乗り気になれない。
「正月、どうするんだ。ここも初詣で賑わうだろ?」
「あ……」
すっかりそのことを忘れていて、陸は眉を寄せた。イタルは神社の管理人なので、どちらにせよここを留守には出来ない。
「イタルのこともあるし、ここにいるつもりだけど……」
「そうか……」
父は少し寂しそうに、頷いた。その理由が、自分の妻にあるということを彼は感じ取っていた。
「とにかく……年明けにでも一旦家に帰ってこい」
「俺が勝手に帰って母さん、怒らない?」
「…………」
陸の問いに、父は無言を貫いた。話題を変え、暫く話し込んだ後で、父はのそりと立ち上がり社務所を出て行った。食べたものを片付ける陸の表情をイタルはちらりと見て、口を開いた。
「リク」
「なに」
「……散歩しようよ」
急な誘いに、陸が片眉を上げる。今から? と怪訝な顔で問えば、今から。とイタルは笑った。
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