第28話
九月になって、二学期が始まった。世話役である彼が学校へ出ている間、イタルが命じられたのは神社の境内の掃除と、家事のいくつかである。
まだ暑さの残るなかでイタルが軒下の蜘蛛の巣を取り払っていると、神社の鳥居を老女がくぐった。彼女は町内会でイタルを神社に住まわせるように言った老婦人であるのだが、イタルはそのことを知らない。
「こんにちは」
掃除の手を止めて、イタルが老婦人に声をかける。陸に教えられたとおりに挨拶をすれば老婦人は若者をまじまじと見て、深い皺の刻まれた口を動かした。
「わだつみさま」
「ワダツミ? ボクのこと?」
足腰のおぼつかない老婦人を社務所の表に置いた長椅子に座らせる。目の前にしゃがみ、視線を合わせれば、老婦人の目は恐れと敬いの感情を奥に孕ませていた。
「何十年とぶりじゃなあ、わだつみさまがここに来られるのは……」
「ボク、ここに来たのははじめてだよ」
「いいや、そんなはずはない……お忘れになっているだけで……あたしは覚えとる」
「ふうん……そうなのかも。おばあちゃん、ボクのこと知ってる? ボク、きおくそーしつなんだって。おばあちゃんが知ってたら、教えてよ」
「わだつみさまは、わだつみさまじゃ。
老婦人は手を合わせ、イタルを拝む。自分のことが何も分からない自分を、この老婦人は拝んでいる。それが奇妙で、イタルは首を傾げた。
「おばあちゃん、今日はなにしに来たの? お参り?」
「わだつみさまに聞きたいことがございまして……」
老婦人は老いのせいで垂れた瞼を伏せ、もごもごと口を動かした。言うかどうか、迷っているようである。
「おばあちゃん、ボクのこと知っててここに来たんでしょう。それで、ボクに聞きたいことあるなら、言いなよ。聞きたいな」
イタルが老婦人の手を取り、そっと握る。ひんやりとした手に老婦人ははっとした顔をさせ、そして深く頭を下げて語り出した。
「船とともに沈んだ兄は、安らかでありましょうか……」
老婦人が聞いた刹那、イタルは目を見開いた。彼女の皺だらけの手を握る力を、無意識に強め、記憶をなくした若者はゆっくりと頷いた。
――……ヨネ子、私は〝海〟になりましたよ。
彼女の名を呼び、そう語る。すると老婦人は目を見開き、もはや衰えた瞳、長い人生を経て流すことも稀になった涙を、そこから滂沱した。兄さん。呻くように、老夫婦はこぼす。老夫婦の嗚咽を、イタルはじっと見つめていた。何故、自分の口から彼女の兄の言葉が出てきたのだろうか。彼女の言う、ワダツミだからだろうか。まだ何も、思い出せない。
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