第25話

 至神社いたるじんじゃの社務所に、若者は運び込まれた。衣類というものを何も纏っていなかったので、作務衣を着させられている。

「えー、で、君の名前は……」

「なまえ?」

「……どこから来たの、君」

「…………」

 温かなお茶が淹れられた湯飲みを前に微笑んでいる若者に、駆けつけた駐在はため息を吐いた。その隣で、これもまた呼ばれて駆けつけた老医者が、難しい顔をしている。

「外傷はない。今のところ心拍も、呼吸器の音も正常だ。……記憶の混濁が起こっておるのかもしれん」

「それって……記憶喪失ってことですか?」

「まあ、そうだな。日本語は理解出来ているようだが……」

 陸が困惑した顔で若者を見る。お茶と一緒に出された饅頭を手のひらに載せて、興味深げに見ているのを眺めながら、駐在も苦々しい顔をさせた。

「身元を証明出来るものが何も無いというのが……捜索願いを出されているかの照合はかけてみるつもりですが、とりあえずどうしましょう? 本官はいったん丹恵和署に戻りますんで駐在所には……」

「ここで泊まってもらったらいいんじゃないか? 一応今日は夜明けまで人はいるんだ。なぁに、泥棒がウソついてるにしても、ここにいてもらったほうが住民も安心だろう」

 そう言ったのは平田の父だ。突如として流れ着いた男を見定めるように、目を離さない。

「そ、それなら俺も一緒にいます!」

 陸が声を上げる。駐在と平田の父は顔を見合わせ、頷く。若者は相変わらず、笑みを絶やさずにいる。

 社務所の窓からはいたる浜を一望できた。至神社は普段は無人で、管理人は港町で商店を営んでいる。夏祭りの日は、夜通し、開いているのだ。

「疲れた……」

 大人たちが去った後、思わず零す。虫が入ってこないように窓を閉め、座っている若者に向き直れば、切り出した。

「名前、思い出した?」

「なまえ?」

「あー、もう、勝手に決めるぞ。不便だから」

 そう言って部屋に視線を巡らせる。壁に町の地図が貼られている。いたる浜の名前が目に入る。

「イタルでいいや。お前、イタルね」

「いたる。ボクはイタルでいい?」

「いいよ。で、イタルはあんな所で何してたんだ?」

「なにも。漂ってただけだよ。ねえリク、見つけてくれてありがとう」

 イタルが身を乗り出し、陸の手を握る。ひんやりとして、冷たい。イタルの青みがかった目が、夜の闇にきらきらと輝いている。それに目が離せず、見つかってよかったな、と言うほか無かった。


 結局、イタルの身元は分からないままだった。この奇妙な漂着者を、港町の住民はどう扱えばいいのかはかりかねている。

「神社に住まわせたらええ」

 町内会での話し合いの中、そう言ったのは老婦人である。深い皺のついた手を握りしめながら、彼女はそうすることが正しいのだという確信を、目の奥に宿している。

「でもね、ヨネ子さん。どこの誰か分からない人をおいそれとは……」

「ずっとそうして来たよォ、戦争が終わった時も、どこから来たか分からん人間を、神社守にしとったでな。そうしたらええ。あの神社はずぅっと、そうしとった。二百年、ずっとじゃ。この町に慣れるかどこか別のとこに行くまでの世話は見つけたもんにやらせえ」

「そうは言ってもねえ……天貝さん、あんたのとこの息子さんでしょ、見つけたの」

「ええ、まあ……陸は彼を気に掛けているみたいなので、嫌とは言わんでしょうが……」

「ほうなら、なんの問題もねえ。流れもんが悪さしたら、世話役と一緒に流したらええんじゃ」

「流すって……ヨネ子さん、今は平成なんだから……」

 とはいえ、港町の人々もこの老婦人が言う事が当面としては最善であることは薄々理解していた。世話をするのが自分でなければ、それでよかったのだ。

「では、陸君にも世話役として社務所に下宿してもらうとして……いいですかね、天貝さん。陸くんは高校生ですがまあ、家も徒歩圏内ですし……そこは……ねえ?」

「……はい」

 陸の父も、頷くほかなかった。

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