第47話 美しいひとの話
学校には、時々変な人がやってくる。
それは子供心に変な人と思えただけで、実際には普通の仕事をしている人だったことが多いけれど。
部活動の外部講師、県や市の教育委員会や公務員の人、機材の安全点検に来た技師、自動販売機の補充の人、他所の校長先生、教科書会社の営業、大学事務員、エトセトラ。
でも、その時にやってきた人は、その誰とも違った。
放課後。体育館。
ステージ脇には体育教員用の小さな職員室があって、私はそこに用事があった。
放課後の体育館は音で満ちている。
アリーナは半分が男子バスケ、もう片方が女子バスケで使用されていて、バッシュが床をこするキュッキュという甲高い音と、ボールがバウンドする時の轟く音が入り混じり、その間隙に割り込み押し広げるよう、人間の掛け声、怒号が飛び交う。
ギャラリーではやはり掛け声をあげながら、バレー部が体力作りのランニングに励んでいた。
ステージも珍しく使用中で、発表を控えた演劇部が立ち位置の調整を行っていた。
なんの変哲もない、普通の放課後の体育館。
私はそこを通り、体育職員室に行って、でもそこは無人だったけど当たり前だ、みんな顧問なんだから部活を見てるわけで、なので目的の先生の机に向かい───置いた。
仏像と、その前に立つ沢山の人の写真。
インターネットで呪いの写真として紹介されていたもの。
人はみんな死人らしい。
私はそれを加工して、ある男をその一群に並べたんだ。
目的を果たして、職員室を出ようとする。
出る。
静寂。
ふう、という自分の息をつく音がやけに大きく響いた気がして、その異様に気がついた。
静寂?
そんなはずはない。さっきからずっと、体育館はうるさかったのに。
ステージ脇の扉を開けて、アリーナへと出た私の視界には沢山の生徒が映っていた。
そこには。
バスケ部のエースも。
バレー部の主将も。
演劇部の副部長も。
実は三組の雀部さんと付き合っている長谷川先生も。
みんながそこにいて。
惚けたようにあの人を見ていた。
その人はすごく美しい人だった。
体育館の正面入口に立っている。
美しい。
本当に美しいと思った。
正面入口までかなりの距離があるのに、その人が美しいということははっきりと理解できた。色の白い肌の下に透ける血管の赤色と青色が首を走っていることが美しく、大きな瞳の輝きは好奇と高貴の混ざるかのようで神様の目というものがあるならこんな形をしているとしか思えない、正義を体現した鼻の直線の下、色気という観念が形をなしている盛り上がった肉と薄皮の赤、心臓が高鳴る、欲しい、あれが欲しい、噛み付いて、切り抜いて、保存したい、永遠にしまいたい、目を逸らせない、美しい。
ふっ、と。
その人は私に向かって微笑んで。
そして気がついたら立ち去っていた。
正面入口には何もなかった。
それでも私たちはしばらくその人の残滓を探すように、掬いあげるように、味わうように、無言でその場所を凝視していた。
そんな記憶がある。
あるだけだ。
私はそれ以上覚えていない。あの人が去ってから体育館がどうなったのか。
私がどのようにして教室に戻り、荷物を持って、下校したのか。何も覚えていない。
たぶん他のみんなも同じだろう。
おんなじだったと思うんだけどさ。
でも実は誰か覚えてないかなって。
思うんだけど……。
同窓会二次会の飲み会の席上の会話。私はふとその美しい人を思い出して、思い切って目の前の、あの日ステージにいた演劇部の部員だった人に聞いてみた。
彼はレモンサワーを一口飲んで、そして。
覚えてるよ。そう言った。今はA海岸という場所で漁師をしているという彼の声はどこか掠れていた。
あれ何だったんだろうね。そう私が言うと、彼は。
俺の兄が昔体験した話なんだけど。
と語りだした。
───兄が高校生の頃、ちょっとやんちゃなグループにいてさ。まあやんちゃなんて言っても別にタバコも酒もやらないし、暴れたりもしない、なんなら授業もほとんどサボらないっていう、それのどこがやんちゃなんだよって、まあ、マイルドやんちゃ、そんな感じの。で、そういう集まりのちょっとしたやんちゃ行為のひとつが夜のドライブだった。もちろん兄も同級生も免許はないんだけど、卒業した先輩の一人がその夏帰省していて、つい最近免許取れたからドライブ行くぞと声をかけて、で、ついてきたのがうちの兄含めて五人、だったのかな。それで、計六人の夜が始まった。
町から抜けて、山を越えて、向かった先はA海岸。ここは海水浴場もある温泉街で、夏場はかなり賑わうんだけど、そのドライブはそんな夏のピークを終えた、八月も下旬、まあこの手の話の常として時期を濁させてもらうけど、より詳しく語るなら、砂浜の有料駐車場の看板が外されて、何も気にせず止められるようになった頃だった。
先輩はそこに車を停めた。
国道から横に曲がってすぐ。
砂浜を見下ろす、少し高い位置にある駐車場。その、一つしかない出入り口の近く。
時刻は二十二時。
六人で砂浜に駆け出した。
夜の浜辺は、祭りの後そのものだったようで、昼の賑わいのかけらもなく、全て波に流された後。
青空も白い砂浜も夜の闇に染められて真っ黒。
国道の電灯が道を挟んだ向こう側、八階建ての廃ホテルを照らし出す雰囲気が抜群。破れた障子までよく見えたという。
ざざーん、ざざーんと鳴る。波打ち際を見れば、白い泡立ちだけが鮮やかで、それより奧には色濃い闇が立ち込めている。
ざざーん、ざざーん。
兄たちはそこでしばらく遊んだ。
もちろん海には入らなかった。
ただ一人が花火を持ってきていたから、それを楽しんだという。
夏の終わりの情景としてはなかなかエモーショナルではなかろうか。
ただ、六人の中で兄だけは気もそぞろ、というか別のことを気にしていたらしい。
それは、祖父に言われた、海の機嫌が悪い時はこのような波の音がする、そういう時には近付くな、という教えに該当する波の音が聞こえていたから、とかではない。六人の中に七人目がいることに気付いた、とも違う。
もっと現実的な話として、警察を気にしていたんだとか。
まあ確かに六人中五人は高校生で、こんな時間海にいたら補導の対象だ。
国道をパトカーが走らないか。ひやひやしながら過ごしたらしい。
ざざーん、ざざーんと波の音。
そんなこんなで一時間ほど経って、一同流石に飽きてきた。夜の海のエモーショナルな空気感は味わい深く、昼間は喧騒に打ち消されるざぶざぶ言う波の音も夜ならこれ以上なく響いて心地よい。しかしそれでも視界に闇しか映らぬでは気も滅入るか。わりかしあっさり飽きを覚えて、皆一様に車へと向かう。
先輩の車に乗り込む前に砂を落としておこうと、靴や服をはたいていた。
その時だった。
「もうすぐつきます」
突然、高校生とはまるで違う美しい声が聞こえた。
ぎょっとする六人。
見れば砂を踏みながら近付いてくる人影がある。
電灯の明かりが微かに照らしたところを見るに、制服、ああ、お巡りだ。警察である。
「そこでまっていてください」
警察の男はそういった。
背の高い男だった。ザクザクと砂を踏む音が聞こえた。磯の香りを強く感じた。
兄は、ああどうしようと思ったんだとか。どうやって言い訳しよう、と。そう考えたのだと言う。
だが、先輩は違った。
「バカ! さっさと乗れ!」
怒鳴ったんだとか。
それで五人は慌てて車に乗り込んだ。先輩は直ぐにアクセルを吹かして、逃げ出した。駐車場から国道へと速やかに出て、そのまま海に背を向けて走って行った。
逃げた。警察から逃げてしまった。そして今まさに逃げているのだ。その事実に兄は怯えた。何度も後ろを振り返り、夜道の無能の闇から赤色のランプが見えやしないかとひやひやしていた。
それは他の四人も同じだったとか。
けれど、先輩は違った。
「お前らあんまり後ろ見るな」
そう言って。
「パトカーなんか見えねえから。あれは追いかけてこねえよ。もう、海からは離れたからな」
どういうことか。何故、追いかけてこないと言い切れるのだろうか。
仲間の一人がそれを聞くと、先輩は言った。
「あれは警察じゃねえ」
信号を右折した。
「警察なら、なんで砂浜の方から来るよ」
道を直進する。
「駐車場の出入口にパトカー停めて、国道から来るだろ、普通なら。でもあの人は、砂浜から、海から来た」
後方にはもう、海は見えない。間に山がそびえている。気がつけば山を越えて、町の中に入っていた。
「綺麗な人だったなぁ」
先輩はそう、唱えた。
ではあれは何なのだ。
その質問は、誰もしなかった。
先輩は五人全員をそれぞれの家まで送って、最後に兄をおろした。
それで終わり。
あの警察の正体とか知らない。人かもしれないし、海から来た何かかもしれない。しれないだけだ。
この話はここで終わり。
でも、別の話なら、そうだね。
A海岸にまつわる話は他にもある。この話よりずっと怖くて、戦慄する、禍々しくて、畏怖を覚える、聞いたことを後悔するような話がある。兄と先輩たちが会った何かより、もっと、会うべきではなかったものについての話が。
それは、やっぱりA海岸の夜……
Sが、大学生の頃の話だ。
時期は、夏休みの帰省時。
ちょうどその頃、Sの祖父が転んで腰を痛めて立てなくなっていた。この祖父のことを、Sは好きだった。厳しい親父からこっそり隠れるように小遣いをくれたり、勉強の息抜きとして将棋を教えてくれたりしたんだという。学校の振替休日なんかは親父の目がないから、今だ! とラーメンを食べに連れて行ってくれたんだとか。
だが何よりの思い出は、釣りに出かけたことらしい。祖父は釣り好きで、時々一人で海へ出かけていた。祖父の部屋には古い釣り竿が飾られていて、時々磯の香りがした。それはほとんどインテリアになっていて、釣りに使うのはもっぱら新しい釣り竿だったけれど。
特にC岬から橋が架かっている小さな島を好んでいて、そこでよく釣っていたという。Sも度々釣れられて、そこで釣りをした思い出がある。蝉の声と、波の音が懐かし、とSは言っていた。
ある時、Sが、持っていった網で、岸壁にいた美しい人を捕まえたことがあった。
それは美しい人で、ヌルヌルとして網から抜け出ようとしていた。
Sが美しい人を捕まえたことに興奮して祖父に見せに行くと、祖父は笑って、皺だらけでゴツゴツとした手で彼の頭を撫でた後、美しい人を放すように言った。
なんでと問うと、
「タコはヌルヌル滑るだろう。持ってきたクーラーボックスからも抜け出てくるよ。家まで持ち帰るのは難しいんだ。
それにな、お爺ちゃんはタコをなるべく捕まえたくないんだ」
昔、釣りをしていた時にタコに似た友人ができて、以来タコを見るたびに彼を思い出すから、なるべく命は奪いたくないと、そんな感じのことを言ったらしい。
他の魚は存分に釣ったというが。
そういう釣りの思い出を、Sはよく覚えていた。
満潮時にやってきて帰れなくなったらしい、水溜まりで生き絶えかけた河豚。渇いたイソギンチャク。ひっくり返ったカニ。張り付いている海藻。空の貝殻。膝まで海に使って磯場のこちらを見上げて笑う美しい人。鳥の群がるは釣り人の捨てていった魚たちの死骸。同じく釣り人の放棄した餌のエビや撒き餌が甘ったるい腐敗を纏う。濃密な死の薫り。そんな光景がある岩場に腰を下ろして、釣り竿を振るう数時間。海の中の芳醇な命を考えるひととき。美しい人の隣でのんびりと時間を過ごすSの体験は、幼少期の1ページだった。
同時に、疑問に思っていたこともある。それはある日、祖父が海の方に行くと言った日のこと。
釣り? 僕も行く。そう言ったSは、しかし祖父に家にいるよう言われたらしい。
釣りじゃない。見舞いだと祖父は言った。
A海岸の古い知人が寝込んでいるから、見舞いに行くのだと言った。
A海岸と言われて、Sは、ああ、釣りではないんだなと理解した。海辺で釣りをする時、祖父は、A海岸だけは選ばなかったから。
その見舞いに行く前に、祖父は仏壇に線香を備えていた。
磯の香りではなく線香の匂いを纏って、祖父は出かけて行ったという。
さて、そんな祖父が転んで腰を痛めたというから、見舞いがてら帰省したSは、祖父の部屋で大学のこと、友達のこと、などなど色々話した。磯の匂いのする釣り竿は完全なインテリアとなっていて、その部屋で将棋を指しながら二人で話した。
そんなときにふと、祖父が言ったのが、冒頭の言葉である。
六嘛家へ見舞いにいってはくれんか。
曰く、祖父の古い知人が、寝込んでいるのだと言う。
そして寝込む度に見舞いに行っているのだと。
今まで度々家を留守にしていた用事の一つが、それなのだった。
「見舞いと言っても、大したことじゃない。見舞い品は仏壇のところに用意しとるからな。あれを渡してきてくれるだけでええ」
正直、心底めんどくさいと思ったらしい。なにせ祖父の知人とはいえ己とはほとんど無関係の家なのだ。六嘛などという家を知ったのも初である。
けれど、他ならぬ祖父の頼みである。
どうせ暇なのだしということで、引き受けることとした。
─────
六嘛家はA海岸沿いの集落の一つにあるという。
海岸へは車で向かうつもりであったが、祖父に止められた。車では絶対に行ってはならんと、強く言われたのである。不審に思いながら、最寄り駅まで自転車を飛ばした。暑い日である。雲一つ無い青空の下、ジリジリとした熱気と陽炎、蝉の声が酷く五月蠅い。見舞い品が悪くはならないかと心配だったが、祖父は気にするなとだけ言った。
駅で切符を買う。
しばらくしてやってきた電車に乗った。
電車に揺られる。
適当にスマホを弄っている。
しばらくして顔を上げて、ぎょっとした。
目の前に美しい人が立っている。
田舎である。電車を使う人の数はそう多くはない。だとしても乗る人間は、ゼロではない。なのに、だ。この車両に美しい人が立っている。
美しい人の瞳には窓の外の景色が反射していて、 緑色の水田と点在する村々が見え、やがて山へ入っていく。
美しい人が立っている。
A海岸のその駅は小さく、寂れていた。
遠くからざざーん、ざざーんと波の音が聞こえてこない、静まり返っている、目の前に美しい人が立っている。
うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう
居酒屋が静かになった。
演劇部の彼は美しい人だった。
彼は口を開いた。
美しい声だった。
「その人が美しいということははっきりと理解できた。色の白い肌の下に透ける血管の赤色と青色が首を走っていることが美しく、大きな瞳の輝きは好奇と高貴の混ざるかのようで神様の目というものがあるならこんな形をしているとしか思えない、正義を体現した鼻の直線の下、色気という観念が形をなしている盛り上がった肉と薄皮の赤、心臓が高鳴る、欲しい、あれが欲しい、噛み付いて、切り抜いて、保存したい、永遠にしまいたい、目を逸らせない、美しい」
そう言って彼は、私に微笑んだ。
「気持ち悪い」
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