第6話 可能性の世界
いまのは、もう一つの世界の、わたしに関する『琴乃』の記憶。たぶん。
琴乃には、わたしがあんなふうに見えていたんだと思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
実際は全く違うから。
わたしは聴者ではなく、ろう者の仲間にも入れない。だって、聴者の両親に、聴者として生きていけるように、育てられてきたのだから。
「琴乃、わたしは本当に琴乃のことを……」
「はい。ストップ、ストップ」
ヒロさんが、わたしの手を払う。
わたしの手は、琴乃から離されて横にそれた。
わたし、いつの間にか琴乃に触れていたんだ。
「ごめんなさい」
わたしは、とっさに言った。
そして気がつく。
とっさに『言葉』が出たことに。
とっさなら『手話』をするのが普通だ。けれど今のわたしは、そうではなかった。
琴乃に目を向けると、彼女はおびえた顔をして、半身を引いていた。そして『ごめんなさい』と手話でやり、逃げるように走り去ってしまう。
その後ろ姿からも、怯えが感じられた。
この世界で、わたしと琴乃は出会ってすらいないのかもしれない。
「君に、どんな記憶が見えたかはわからないけど、それは『可能性の世界の1つ』でしかないから」
「『可能性の世界』ですか?」
「君が『聞こえる』とか『聞こえない』とかだけではなく、君が『男』だったり『魔法の存在する世界』だったり……それこそ可能性は無限大がからね」
ということは、妄想やファンタジーということだろうか?
「じゃあ、わたしが今見たものは、あくまでも『可能性』があった世界で、『現実』ではないということ?」
「残念ながら、その世界から見れば『現実』だよ。逆に、この世界が『可能性』の世界とも言える」
私の頭の中に、100個くらいの『?』が浮かんだ。
あの琴乃の記憶が現実で、わたしの今いる世界が『可能性』の世界でもある? でも、どう考えても、この世界は現実なわけで……。
そんな気持ちを知ってか知らないでか、ヒロさんは恐ろしいことをサラリと言った。
「深く考えない方が良いよ。考えすぎて、少し『おかしくなった』人もいたからね」
深く考えるのは、やめることにしよう。
うん。
「ところで君は、どこへ」
「どこって、そんなの決まっているじゃないですか……」
あれ?
無意識に歩いていた。
どこへ行こうとしていたんだっけ?
「駅?」
そう、わたしは駅へ行こうとしている。
だって、家の近くはデートに向いたお店がないから。だから、ここへ来たの。
でも、そのデートも行かない事になったから、家に帰ろうとしている。
「わたしの家は……」
「自分の家を忘れたのか。まあ、たまにある事だよ」
ヒロさんは、わたしを元気づけようと、そう言ってくれたようだ。けど、わたしが言葉に詰まった理由は、そうじゃなかった。
「違うんです。家の場所も、家の形や構造もわかるんです。ただ、見覚えがないというだけで」
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