第3話 学文路岐高校(前編)

 朝のほんのわずかな記憶を頼りに、私は迷いつつも自分の寮室へ辿り着いた。


 質素ながら機能の充実した勉強机。

 ザ・女子といった感じの、暖色基調のパステルカラーのカーペットや寝具。

 学生の寮暮らしにしては過剰なほどに取り揃えられた家具や料理器具。


 自分の部屋なのに、全てが見慣れない…。

 若干の居心地の悪さを感じつつも、私はそれらに囲まれながら腰を下ろした。



 やっと転生初日が終わった…。

 ……さて、終わったは良いものの…。


「八重垣くん最ッ高……」


 思わずベッドの縁に凭れ掛かり、分厚い掛け布団を抱きしめた。

 これから毎日、自分の推しに会えるだなんて。それも、今まで登場回数が極少だった推しと。未だに夢心地だ。


「ツムグくん、かぁ……」


 初めて知った彼の名前を口にして、私ははにかむ。


 よく考えなくても、私は八重垣くんのことを何も知らない。

 公式からの供給があまりにも少ないのだ……まず、設定自体が考えられていない可能性が高い。攻略するにはあまりに不利だ。

 …いや、そもそも。


「私、八重垣くんと付き合うの……?」


 乙女ゲームに転生したからには、セオリー通り推しキャラを攻略すべきだろう、という思考に陥っていたけど…。

 もはやこの世界は、現実世界と何ら変わりない。そんな世界でゲーム感覚で異性を攻略だなんて、如何なものだろうか?


 ほぼモブ同然で、ミステリアスと称されている他のメインキャラよりも謎まみれな八重垣くん。

 そんな彼を推している人間からすれば、彼のことを知れるだけで十分なはずだ。

 確かに異性として好きだ。だけど付き合いたいのかと言われると。

 何より、一ファン如きが推しとお付き合いするなんて、あまりにおこがましいのでは…。


「うーん……駄目だ。頭が回らん……」


 今日はとにかく疲れた…。

 それプラス、八重垣くんのことで頭がいっぱい。

 …とりあえず、ご飯でも食べて体力を付けねば……。


 周囲を見渡すと、キッチンのすぐ横で自分のお腹程度の高さの中型の冷蔵庫を見つけることができた。

 片開きの戸を開く。戸の向こうには、ラップで包まれた、昨晩の夕食の残りと思しき料理が並んでいた。

 シンプルな野菜炒めのような料理。なかなか美味しそうだ。


 今日は疲れて料理をする気力が無いし、そもそも調理できそうな食材も無い。

 今晩の所はこれを食べて凌ご―――


 ……待て。冷静に考えろ。

 果たしてこれは、本当に昨晩の残りなのか……?


 私の頭の中に、この世界においての昨日の記憶というものは存在しない。

 これがいつ、どこで、どんな食材を使って、そもそも誰の手で調理されたものなのか、一切分からないのだ。


「……よし」


 暫し無言で冷蔵庫と対峙した後、私は食事には一切手を付けずにシャワーを浴び、そのまま就寝した。


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