第17話
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「ーーふーん、やるようになったじゃない」
「ーーまあ、な」
そろり、そろりと1匹のゴキブリが俺の脚を登る。わざとやってんのかってくらいにゆっくりと、マリーは足首あたりを、上に向かって進んでいく。
「あら、ホントに全くビクってしないのね?」
マリーはゆっくりと、その自らの挙動の不気味さを強く刻み付けるように、カサカサ、ピタリ、カサカサ、ピタリと急発進と急停止を繰り返しながらスネを登ってくる。
「だから、平気になったって言ったろ?」
強がりじゃない。本当に前よりは明らかに平気になっている。まだ、足の指辺り以外では長ズボンの上しか歩かれていないが、『こういう動きされるとキモいんだよなー』なんて冷静な言葉を頭にうかべながら会話出来るくらいには余裕がある。
「ーーなるほどね、……まぁ、これはまだ初級編よ」
マリーはそう言うと、スネを全力で登り始め、膝の頂点に差し掛かった瞬間、ーー飛んだ。
「…………っ」
ーーヤバいヤバい。それは流石にヤバいって。ゴキブリってのは飛んでる時がいちばんキモいんだよ。飛び上がることで顕になるアコーディオン状のお腹は茶色くテカっていて、バサバサと高速で動く羽も茶色くテカっていて、こちらを睨みつける力強い顔面が茶色くテカっている。もう、世界の全てが茶色くテカっている。不潔さにたいする本能的な恐れに飲み込まれながら進むマリーの飛翔時間は永遠にも思われる程にスローモーションで、空気中を自在に走り抜けるマリーはやがて、俺の肘に着地した。
「ーーーーーーーーっ」
そ、そこはちょっとやばい。そこは肘、季節は7月。7月の日本で家で着る服はもちろん、半袖だ。つまり、今からマリーという名のゴキブリによる、素肌の上のダンスタイムが始まってしまうのだ。
「あら? ちょっとビクってなったんじゃないかしら?」
「違うってんだよ。別にそりゃゴキブリがどうとかの前に、相手が人間だって急に飛ばれりゃちょっとはリアクションするだろ」
必死で頭を回転させて導き出した言い訳はまるっきりの嘘という訳では無い。だけどマリーが指摘するように、本当は結構ビクってなった。
「…………ふーん?」
そんな俺の焦りを知ってか知らずか、マリーは挑戦的な声で言いながら肘から手首の方に向かってゆっくりと歩く。
ヤバいヤバいヤバい! 皮膚の神経を通じてダイレクトに伝わってくる細すぎる6本足のモゾモゾとした感触が問答無用で脳に危険だというアラートを送ってくる。
「…………」
ヤバいヤバい! 何がやばいってヤバい。反応したら殺されちゃう! だけど今だって怖くて死んじゃいそう!
「あれあれあれ? なんか筋肉強ばってない?」
なんて囀るように言いながらマリーは軽やか(ゾワッとする程に)なステップで前腕の上を蛇行しながら進んでいく。
……ダメだ。このままでは叫んでしまう。
心を殺せ!
俺は昆虫好き俺は昆虫好き俺は昆虫好き俺は昆虫好き俺は昆虫好き。
心は、何も感じない。皮膚は、何も感じない脳は、何も感じない。
「ふふーん」
俺が反応仕掛けた事に得意になったマリーは手首のあたりで立ち上がり、二足歩行で踊りながら進み始める。これはなんというか、ちょっとおもろいな。
「…あら、これは本当に平気そうね。作戦ミスかぁ、じゃあ次は、ーーこれよ!」
言った瞬間マリーは手首から飛び上がり飛翔すると、一気に顔の方に飛んでくる。
……うっ。これはヤバい。わかっちゃいたが、やっぱこいつ、最後は顔にくるんだな。飛ばせ、意識を半分飛ばすんだ。目の前に見える世界の全てを認識すると、きっと心は壊れてしまう。マリン姉さんとの修行の後半みたいに、何も覚えていられないくらいに意識を飛ばせ。でないと俺は……。
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