第24話 すみれの決意

仕事が終わり、すみれは航のために季節の花をアレンジメントされたカゴを花屋で買うと、急いで航の入院する病院へ向かった。


まだ新しい白くて大きな大学病院内へ入り、エレベーターで7階のボタンを押した。


703号室が航の病室だった。


エレベーターを降りたすみれは、703号室へ向かって長い廊下を歩いた。


静まり返った廊下に自分の足音だけが響いていた。


そのとき、すみれの呼吸が止まった。


視線の先に、パジャマ姿の航がすみれの方へ向かって歩いて来るのが見えた。


3年ぶりに会う航の姿に、どうしようもなく胸の鼓動が早まった。


すみれは急ぎ足で航に近づき、思い切って声を掛けた。


「わたるく・・・。」


しかし航はすみれの方を見向きもせず、ただうつろな目で、すみれの横を通り過ぎて行った。


その瞬間、すみれを取り巻く全てが色を失くした。


急激に体温が下がり身体が冷え、目の前が真っ暗になった。


残酷な現実を前にして、やっと振り向いたすみれの目に、航の背中が遠ざかっていくのが見えた。


ショックで心が壊れそうになり、それ以上航に近づくことが出来なかった。


航君・・・本当に・・・本当に私のこと、忘れちゃったの?


初めて出逢った日のことも、一緒に過ごしたかけがえのない日々も、全部航君の中から消えてしまったの?


すみれは休憩フロアに設置されている椅子に座ると下を向き、両手で顔を覆い、人目もはばからず声を出して泣き続けた。


「航君・・・嫌だよ・・・航君・・・私を忘れないでよ・・・」


周りにいる人達はそんなすみれを、哀れみの目で遠巻きに眺めていた。


そんな空気をかき消すように、小さな女の子がすみれに近寄り、すみれの目の前にハンカチを差し出した。


「お姉ちゃん。どこか痛いの?」


すみれは赤い目をこすりながら、そのハンカチを受け取った。


「ううん。大丈夫。ハンカチありがとうね。」


すみれはそのハンカチで涙を拭いた。


「お姉ちゃん、泣かないで。わたしも泣かないから。病気になんか負けないから。」


「・・・そうだね。偉いね。名前はなんていうの?」


「わたしはアオイ。向日葵の花の葵だよ。」


「そう。私はすみれ。同じお花の名前だね。」


「そのハンカチあげる。だから泣かないでね。ママに叱られるから、わたしもう行くね。バイバイ。」


「うん。ありがとう。バイバイ。」


大きく手を振る葵に、すみれも両手を振った。


心に爽やかな風が吹き込んだ。


そうだ。


泣いてなんていられない。


これからどうしたらいいか考えなくちゃ。


すみれは再び航の病室である703号室へ向かった。


会えなくてもいい。


話せなくてもいい。


航君と同じ空気を吸いたい。


すみれは病室内に航がいないのを確認すると、持って来たお見舞いの花カゴをベッドの脇にある棚へそっと置いた。


そして航が使っている枕を抱きしめ、その鼻先を押し付けた。


そこには懐かしい航の匂いがあった。


病室の中も航の痕跡が色濃く残っている。


でもまだ自分を忘れている航に会う勇気はなかった。


拒絶されてしまったら、今度こそ私の心は壊れてしまう・・・。


すみれは後ろ髪を引かれる思いで、病室を後にした。




泣くだけ泣いたら喉が渇いてしまい、すみれは一階の売店でペットボトルのお茶を買った。


レジに並んでいると、いきなり肩を叩かれた。


振り向くとゆったりとしたワンピースを着た君塚麗華が微笑んでいた。


以前会ったシャープな印象とはがらりと変わり、その笑みは柔らかかった。


「麗華さん・・・。」


「久しぶりね。すみれちゃん。」


「ご無沙汰してます。」


すみれは頭を下げた。


「こんな所で立ち話もなんだから、どこかで少し話さない?」


すみれと麗華は売店を出ると、小さな談話室の椅子に向かい合って座った。


麗華は大きな布製のバックからステンレスのボトルを取り出し、それを口に含んだ。


すみれはペットボトルのお茶を握りしめたまま、膝に目を落とした。


ふたりの間に沈黙が漂う。


それを破ったのは麗華だった。


「何飲んでると思う?」


麗華が水色のボトルを掲げてみせた。


「お茶・・・ですか?」


「ルイボスティー。」


「・・・・・・。」


「私ね、妊娠しているの。今、5ヶ月。やっと最近つわりが終わったの。」


「ご結婚されたんですか?」


すみれは言葉を震わせながら尋ねた。


「うん。昨年の秋に。同僚の教師とね。」


「おめでとうございます。」


すみれは再び頭を下げた。


「ありがとう。」


すみれは麗華の幸せそうな顔を睨みつけた。


それに気付いていないのか、それとも気付かないふりをしているのか、麗華の表情に変化は見られなかった。


「安心したでしょ?航の子供じゃなくて。今日は航のお見舞い?」


「・・・はい。」


「航はすみれちゃんのこと覚えていた?」


「・・・・・・。」


「そう。」


麗華の目は同情の色に変わった。


「ねえ。どうして航の前から姿を消したの?」


麗華の問いにすみれは息を大きく吸って声を荒げた。


「あなたが航君を幸せにするって言ったから!だから私は・・・。」


「身を引いたってわけ?・・・そうよね。私がそう仕向けたんだものね。」


すみれは小さく頷いた。


麗華はすみれから視線を外し、テーブルに飾られた造花を見た。


そして再びすみれを見ると、吐き出すように言葉を連ねた。


「ごめんなさい。」


そう言って麗華は頭を下げた。


「まさかあなたがそこまで思い詰めていると思わなかったから。・・・私、すみれちゃんが羨ましかったの。航の心を独占しているあなたのことが憎らしかった。」


「・・・・・・。」


「すみれちゃんが消えたあとの航、見てられなかったわ。いつもの快活さが失われて、何もかも投げやりになって、魂を抜かれたような・・・まるで抜け殻のようだった。」


「・・・・・・。」


「私はそんな航の力になりたかった。でも・・・私では駄目だった。もちろん告白なんて出来っこなかった。それだけ航の中ですみれちゃんの存在は大きかったのね。それでも時間が経てば元の航に戻ると信じていた。でも航は元に戻るどころか、どんどん自堕落になっていって・・・。」


「航君・・・」


航君、ごめん・・・ごめんなさい。


航君をこんなにも苦しめて・・・自分のことしか考えられなくて・・・航君がどれだけ私を大事に思ってくれていたのか、私が一番知っていたはずなのに・・・。


すみれは今更ながら、自分が航にした仕打ちを心から後悔していた。


「そんな時に今回の事故が起きた。そしてそれをきっかけに航の心は完全に壊れてしまった。ねえ、すみれちゃん。」


「はい。」


「航を救えるのはあなたしかいない。こんなこと私が言うのはお角違いかもしれないけど、私も航のことが好きだったから、航に幸せになってもらいたい。そうじゃないと本当の意味で私も幸せになれない。」


「麗華さん・・・。」


「今日はね、航にお別れを言いにきたの。もちろん航は私のことなんて覚えていないから、ただ無表情で私の言葉を聞いていたけれど・・・。」


そう言うと麗華はすみれに懇願した。


「すみれちゃん。どうか航を見捨てないでね。お願いします。」


「もちろんです。これからは私が航君を幸せにします。どうしたらいいかまだ見当もつかないけど・・・。でももう航君から決して離れません。約束します。」


すみれはキッパリとそう言い切った。


「ありがとう・・・すみれちゃん。」


麗華の目に涙が光った。




私が航君の為に出来ることはなんだろう。


すみれは家に帰ってもずっとそのことばかりを考えていた。


そして夜、ベッドで横になった瞬間、その考えが閃いた。


忘れられてしまったのなら、んだ。


今度は小さな女の子としてではなく、ただの野口すみれとして航君と向き合うことはできないだろうか。


姪ではなく


そしたら、もしかしたら、航君も私のことを・・・。


ううん。


多くは望まない。


ただ航君の力になりたい。


これからは私が航君を守るんだ。




次の日、再びすみれは迫田妙子と会い、身体の不自由な航の為に、今までの関係を隠し、航の身の回りの世話をしたいという思いを話した。


「私は航君をひとりの男性として好きです。」


突然のすみれの告白にも、妙子は表情を変えなかった。


「姪である私を航君は受け入れてくれなかった。でも赤の他人として航君と出逢うことが出来たら、もしかしたら航君は私を女として好きになってくれるかもしれない。もしその可能性があるのなら、私は・・・。」


「ありがとう。そんなにも航のことを愛してくれて。」


妙子は目に涙を滲ませてすみれの両手を握った。


「わかった。航には私から言っておくわ。航の為に家政婦さんを雇ったからって。あとはすみれちゃん次第よ。頑張って。」


「はい!」


「大丈夫。航はきっとすみれちゃんを好きになる。」


妙子の言葉に励まされて、すみれの中に希望の種が芽吹いた。






――そしてその年の初夏――




すみれは航や桔梗と過ごした懐かしい家の前に立っていた。


航との新しい出逢いに、胸の鼓動が高鳴った。


すみれは大きく息を吸うと、呼び鈴の丸いボタンを押した。



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