第14話 熱に浮かされて

「あなたの存在が航を苦しませている」


その言葉がすみれの精神をじわじわと蝕んでいった。


仕事でもミスを連発し、集中しようと思ってもすぐに心の重荷が顔に出てしまい、何度も先輩にきつく注意された。


・・・出逢ったときから航君が好きだった。


この出逢いは間違いだったの?


私は児童養護施設に行ったほうが良かったの?


ううん。そんなことない。


私と航君で紡いだ穏やかで幸せな日々は、決して嘘ではなかったはずだ。


今まで貰った沢山の幸せを今度は私が航君に返す番なのだ。


私が幸せにならなければ航君は自分の幸せを掴めない。


でも私の幸せは航君のそばにいることなのに・・・。


すみれはそんな堂々めぐりの思考から抜け出せずにいた。




それはほんの偶然だった。


すみれは駅前の大きな書店で好きな作家の新刊本を探していた。


いつもなら近所の小さな書店で購入するのだけれど、その日に限ってその書店は休業していた。


すみれは書店が好きだ。


まだ読んだことのない本が沢山置いてあるその状況にわくわくする。


本の数だけ未知の物語がある。


その日のすみれもそんなうきうきした気持ちで、書店の入り口に平積みになっていたその青い表紙の新刊本を手に取った。


まだ誰にも触れられていない新しいインクの匂いがした。


ふと雑誌コーナーのある通路を見ると、見慣れた茶色のチェックのシャツが横切った。


見間違えるはずがない。


それは航のお気に入りのシャツだった。


すみれは後ろから驚かそうと、そっと航の背後へ近寄った。


そんなすみれを追い越して、シルクのブラウスに細身のパンツスーツを着た女性が、航の肩を後ろからポンと叩いた。


すみれはとっさに本棚の陰に隠れた。


航の肩を叩いた女性は、麗華だった。


振り向いた航は明るい笑顔で、麗華の肩を軽く叩いた。


そして航は手にしていた星座の本を麗華に見せた。


ふたりはその本を一緒に眺めながら、楽しそうに話し始めた。


私に見せる顔とは全然違う航君。


大きな口を開けて笑う私の知らない航君。


それを麗華さんは知っている。


すみれは航のそんなくつろいだ笑顔を見たことがなかった。


航と麗華はすみれから見ても、お似合いの、大人のカップルに見えた。


すみれと航が手を繋げば「パパ活」と言われてしまうのに、麗華と航だったらきっと素敵な「恋人同士」と周りに祝福されるのだろう。


航君、そんな顔、麗華さんに向けないでよ。


私だけを見てよ。


私を姪ではなく、ひとりの女として見てよ・・・。


ふいに麗華がすみれの方を向き、はっきりと視線が合った。


そのときすみれは知った。


初めからすみれの存在に麗華は気付いていたのだのだと。


麗華は勝ち誇ったように、唇に人差し指を立ててみせた。


すみれは顔を逸らし、何でもない風を装ってレジに行き、新刊本を買った。


けれど楽しみにしていたその本の内容など、もうどうでもよくなってしまっていた。


この心に燃えたぎる痛みが嫉妬だと気付くのに時間はかからなかった。


航と麗華は書店を出て、近くのバス停で立ち止まった。


そしてしばらくするとバスが到着し、ふたりはバスに乗り込んだ。


楽し気な航と麗華の姿が青白く光る涙でぼやけた。


胸が苦しくて熱く痛み、息が出来なくて、すみれは壁にもたれ大きく深呼吸をした。


きっと航君は麗華さんのことを憎からず思っている。


もしかしたら航君も麗華さんのことを・・・。


航君は麗華さんに告白されたらどうするのだろうか?


やっぱり私の為に断るのだろうか?


ふたりを乗せたバスが小さくなるのを、すみれはただみつめることしか出来なかった。




その夜、すみれのスマホに航からのメッセージが届いた。


遅くなるから戸締りをしっかりとして、先に休んでいて欲しいという内容だった。


こんなに遅くまで麗華さんとどこにいるの?


何をしているの?


すみれはバスルームで、自身の裸の身体を鏡に映した。


乳房は膨らみ、柔らかな曲線を描くその身体に、もう少女の頃の面影はない。


私は大人の女性になってしまった。


だからもう私は航君に触れることが出来ない。


航君はもう私に触れない。


航君にとって私は小さな女の子のまま。


だから航君に愛してもらえない。


私は航君を愛することを諦めなければならない。


「航君に女として愛してもらえないなら、こんな身体いらない!」


「子供の頃に戻りたいよ・・・」


すみれは頭から冷たいシャワーを浴びて、鏡を叩きながらそう何度もつぶやき泣いた。


子供のままでいられたのなら、こんな感情を持て余すことなんてなかったのに・・・。




航はその日の深夜に帰ってきた。


すみれはパジャマ姿で航を出迎えた。


「悪い。起こしたか?これでも静かにドアを開けたつもりだったんだが。」


そう航が言うのと同時に、すみれは航の胸に倒れ込んだ。


「航君。どこへ行ってたの?」


「・・・ちょっと友達と飲みに行ってたんだ。そうメッセージ送っただろ?」


「友達ってだれ?」


「この前家に連れてきた犬飼と麗華だよ。」


「嘘。私、知ってるんだから・・・。本当は麗華さんとふたりきりで」


「すみれ?どうした。髪も乾かさないで。」


冷たいシャワーを浴び続けたすみれの身体は氷のように冷えきっていた。


と同時に体温は上昇し、高い熱を出していた。


「航君・・・熱い・・・」


「すみれ!大丈夫か?!」


航はすみれを子供の頃のように、部屋のベッドまで抱きかかえて運んだ。


久しぶりに航の体温に触れたすみれは、高熱に浮かされながらもそのことを喜んでいた。


「すみれ・・・何があった?言ってみろ。」


「何もない。ただ裸でシャワーを浴びただけ。高熱が出れば航君が心配してくれると思っただけ。」


「・・・子供みたいなことを言うんじゃない。」


航はそう言いつつも、高熱でぐったりとするすみれの側を片時も離れなかった。


翌朝すみれが目覚めると、航がベッドサイドの椅子に座りながら、すみれの顔を心配そうにみつめていた。


その目の下のクマは、航が夜中も寝ていなかったことを証明していた。


「すみれ。具合はどうだ。」


熱は下がり、体調はもう大分良くなっていた。


それでもすみれは航に構ってほしくて、ことさら気弱に振舞った。


「まだ頭がくらくらする。熱っぽいし身体もだるい。」


「そうか。わかった。ゆっくり寝てろ。」


航はすみれの仮病を知ってか知らずか、かいがいしくすみれの世話を焼いた。


冷たいジュースやおかゆを用意し、すみれの額を冷たいタオルで冷やした。


すみれが甘えて抱きつくと、航は何も言わずそれを許した。


私だけの航君。


離れたくないよ。


離れていかないでよ。


・・・でも気付いてしまった。


こうやって自分が甘えれば甘えるほど、航君の本当の幸せは遠のいていくということを。


もう私は航君から離れなければならないのだということを。





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