第7話 迷子になった夜

すみれは部屋に帰るとバッグに財布とスマホを入れて、忍び足で玄関の扉を開け、家を飛び出した。


自分でも何がしたいのか全くわからなかった。


死にたいわけではなかったけれど、航から見えないところへ逃げ出したい、そんな衝動にかられた結果だった。


暗い夜空に折れそうな三日月が浮かんでいた。


スマホの表示は20時12分、すみれはスマホの電源を落とした。


夜更けにはまだ間があるけれど、女の子が一人で外を歩くには微妙に危うい時間だった。


すみれはどこへ行く当てもなく、ただ駅の方へ向かって歩いた。


街灯の明るさだけがすみれを励ましてくれているようだった。


犬の散歩をしている男性や、大きな排気音を出しながら走るバイクとすれ違うたびに、すみれの鼓動は不安と怖れでドキドキと早くなった。


急ぎ足で駅までの道を歩く。


駅前は帰路につく人達や、繁華街へ繰り出す人で賑わっていた。


財布の中にはなけなしの小遣いが数千円入っている。


すみれは駅前のファミリーレストランへ入ることにした。


中学生ひとりでの来店に、レジに立つ背の高い女性スタッフは眉を顰め、すみれに声を掛けた。


「もう遅い時間だけど、あなた一人?」


女性スタッフの優しい声音に肩の力が抜けたすみれはとっさに嘘をついた。


「あの・・・母に先に店に行っていなさいと言われました。もうすぐ来るはずです。」


「そう。じゃあ空いている席へどうぞ。」


その女性スタッフも子供一人の来店ではないことを知り、安心したようだった。


すみれは窓際の席へ座り、メニュー表を開いた。


ほとんど夕食を食べていないので、お腹は空いている。


食欲はやはりあまりなかったけれど、何も頼まないわけにはいかないので、チョコレートパフェを食べることにした。


甘い食べ物ならなんとか口に入る気がした。


タブレットで注文し、しばらくするとブルーの制服を着たウエイトレスがチョコレートパフェを運んで来た。


ウエイトレスは幼い顔をした子供が一人でいることを、やはり不審げに思っているようだった。


すみれは思わずバッグから財布を取り出して言った。


「お金なら持ってます。」


ウエイトレスは困ったような笑みを浮かべ、何も言わずその場を立ち去った。


すみれはゆっくりと柄の長い銀色のスプーンで、生クリームを掬い口へ運んだ。


甘くて柔らかい生クリームが口の中を満たす。


前に航と一緒にここでチョコレートパフェを食べたときは、この甘さが幸せの味だった。


けれど今はその甘さがよそよそしかった。


それでもすみれはバナナを食べ、チョコレートアイスを食べ、グラスの底に敷き詰められているフレークを食べた。


口の中いっぱいに食べ物を詰め込み、味のしないチョコレートパフェを咀嚼した。


30分かけてゆっくりと食べたけれど、ついにグラスの中は空っぽになってしまった。


すみれはぼんやりと窓の外を眺めた。


暗い夜の街をタクシーが走り去って行く。


天国のパパやママが今の私を見たら、悲しむだろうか。


すみれはこのときほど、両親がいないことを惨めに思ったことはなかった。


いつまで経っても母親が来ない子供の客を訝しんだスタッフが、再びすみれに声を掛けた。


今度はさきほどの女性スタッフではなく、店長らしき中年男性のスタッフだった。


「お嬢ちゃん。まだお母さんは来ないのかな?スマホで連絡してみた?」


「あ・・・えっと先に帰ってしまったようで、私ももう帰ります。」


「一人で大丈夫?」


「はい。家はすぐそこなので。」


すみれは席を立ち、レジでチョコレートパフェの料金を払い、なおも疑わしい顔をするスタッフから逃げるように店を出た。




すみれは駅前の大きな広場のベンチに腰掛けた。


ここなら明るいから大丈夫だと思った。


再びスマホの電源を入れると、時刻は22時48分を表示している。


と共に大量の着信履歴とラインメッセージが届いていた。


それら全てが航からのものだった。


(どこにいる?)


(友達の家に行ったのか?)


(誰かに呼び出されたのか?)


(お願いだ。とにかく連絡して欲しい)


・・・どうしよう。


こんなに心配させてしまった。


今更家に戻れない。


どうしよう。どうしよう。


すみれはベンチに座りながら頭を抱えてうずくまった。


どれくらいそうしていただろう。


長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。


「もしもし。お嬢さん。どうしたの?迷子になったの?」


ふと顔を上げると、白い自転車を引いた警官がすみれの顔を覗き込んでいた。


若くて色が黒く、声の大きなお巡りさんだった。


「名前は?どこに住んでいるの?」


「・・・・・・。」


すみれはただ黙っていた。


「こんな夜に家を出ちゃだめだよ?ご両親が心配しているよ?」


「両親はいません。」


「どうして?」


「事故で死にました。」


「そうか・・・。でもアナタの面倒を見ている大人はいるでしょ?」


「はい。」


「どこから来たの?もしかして遠いところから電車に乗って来たの?」


「ここから15分くらいのところに家があります。」


「じゃあ家まで送っていくから僕と一緒に帰ろうか。」


「・・・はい。」


抗う気力も体力も無くなったすみれは、弱弱しい声で素直にそう返事をした。


「その前に君の名前と自宅の電話番号教えて。お家の人に連絡しておかないと。」


すみれは観念して、名前と電話番号をその警官に伝えた。


警官は自分のスマホで電話をかけた。


「あーもしもし。野口さんのお宅で間違いないでしょうか?今そちらにお住まいの野口すみれちゃんを保護してまして、これから一緒にお宅へ向かいますから。はい、はい、あーわかりました。ちょっとお待ちください。」


その警官はすみれに自分のスマホを手渡した。


「保護者の方がすみれちゃんの声を聞いて確認したいって。ちゃんと謝るんだよ。」


すみれは恐る恐るスマホを耳に当てた。


「・・・航君・・・」


電話の向こうでは少しの間があり、その後航の掠れた声がすみれの耳に届いた。


「・・・すみれか?本当にすみれなんだな?」


「うん。すみれだよ。」


「そうだな。すみれの声だ。俺がすみれの声を間違えるはずがない。・・・とりあえず早く家に帰って来い。桔梗バアちゃんも心配してる。」


「はい。ごめん・・・なさい。」


「謝罪は家に帰ってから聞く。お巡りさんにお礼を言うんだぞ。」


「はい。」


すみれがスマホを返すと、警官がすみれを安心させるためか優しく微笑んだ。


「随分若い声の男性だったけど・・・君のお兄さん?」


「叔父さんです。」


「ああ。叔父さんね。叔父さんそんなに怒ってなかったみたいだ。よかったね。」


すみれはもう人通りもまばらな夜道を、自転車を引く警官の横に並び、とぼとぼと歩いた。


家に早く帰りたいような、帰りたくないような複雑な気持ちだった。


「僕もね、子供の頃に家出したことあるんだよ。弟と喧嘩したんだけど、お袋が弟ばかり庇うからムカついてね。だから君の気持ちはわかるつもりだよ。君も叔父さんと喧嘩したんだろ?」


「・・・はい。」


喧嘩じゃなく、私が一人で落ち込んで拗ねて飛び出しただけだ。


航君はなにも悪くない。


そうすみれは思ったけれど、それをこの警官に言っても伝わらないだろうし、言いたくもなかった。




「表札がないけど、この家でいいのかな?」


警官の言葉にすみれは頷いた。


家の玄関にたどり着き、警官がチャイムを押した直後に航が扉を乱暴に開けた。


見たことのない航の青ざめた顔を見て、すみれの胸はつぶれそうに痛んだ。


自分がとんでもない失態を犯したことに気付いたけれどもう遅かった。


「どうも。野口さんですよね。すみれちゃんをお連れしました。」


「お手数かけて申し訳ありませんでした。」


航がそう言って深く頭を下げるのを、すみれはぼんやりと眺めていた。


「いえいえ。とんでもない。すみれちゃんも反省しているようなので、あまり叱らないであげてください。すみれちゃん、もう叔父さんを心配させちゃ駄目だよ。」


「すみれ。お巡りさんにお礼を言いなさい。」


航の声にハッとしたすみれは「ありがとうございました。」と言って頭を下げた。


警官が帰っていき、玄関ですみれは航と向かい合った。


と同時にすみれの頬が熱く痺れた。


航に頬を打たれたと気付き、すみれの目からぽろぽろと涙が溢れた。


航の顔は怒りと悲しみに震えていた。


泣きたいのは航の方だとわかっているのに、すみれの涙は止まらなかった。


すみれの肩を航が両手で強く掴んだ。


「どれだけ俺が心配したか分かってくれたか?!こんな夜更けにひとりで外をふらつくなんて・・・お前が思っている以上に世の中には悪い大人が沢山いるんだぞ!」


「・・・・・・。」


「今までどこで何をしていた?」


「駅前のファミレスで・・・チョコレートパフェを食べてました。それからずっと駅前の広場のベンチに座っていました。」


「誰かに何かされなかったか?」


すみれは首を横に振った。


「そこでお巡りさんに声を掛けられて・・・」


それを聞いた航はやっと安心したように、大きく息を吸いそれを吐き出した。


「何もなかったから良かったようなものの・・・すみれにもしものことがあったら、俺は・・・。」


航は懇願するような目ですみれをみつめた。


「もう二度とこんなことをしないと誓ってくれ。そうでないと、俺は心配で夜も眠れない。」


「ごめんなさい。もう二度としません。ごめんなさい。」


そう泣き崩れるすみれを、航はきつく抱き寄せた。


「・・・何があったんだ。どうして家出なんてした。この家に住むのが嫌になったのか?俺が嫌いになったのか?」


「違う。そうじゃない。」


すみれは航の腕の中で首を横に振った。


「・・・話してくれないと何もわからない。俺はすみれを理解したいんだ。」


すみれはとうとう覚悟を決めて、航に本心を打ち明けた。


「私と航君、結婚出来ないって、叔父と姪は結婚出来ないって・・・みゆきから聞いて・・・自分でも調べて・・・私はずっと航君と一緒にいたいのに・・・。」


「すみれ・・・。」


すみれの必死の訴えに、航はしばらく言葉を失っていた。


そんな航の様子を見たすみれは、自分の想いを告げてしまったことを激しく後悔した。


うさぎのように震えるすみれに、しかし航は何でもないことのように穏やかな声で諭した。


「じゃあこうしよう。俺はすみれが俺以外の誰かと結ばれるまでは、他の女の事を好きにならないし、絶対に結婚もしない。ずっとすみれのそばにいる。それなら文句はないだろう?」


「・・・うん。」


でも私は絶対に他の誰かと結ばれたりなんかしない。


だから航君は私とずっと一緒にいてくれることになる。


もう航君は私だけのものだ。


すみれは心の中でそうつぶやきながら、航の胸にしがみついた。


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