ミルフィーユとマカロンのジレンマ、6

「いらっしゃ〜い。待ってたよ」

 本日終業の鐘を聞き終わった後で医務室を訪ねる。ノックをすると、時間を待たずに部屋の主人が自ら引き戸を開けてくれた。

「入って入って。そこ座って。ペルはそっちね。初仕事はどうだった?」

 てきぱきと誘われて言われるままにカーテンに囲まれたベッドに腰掛ける。〈執行官〉はアシュレイの視界から外れて、ソファーに座っているようだった。

 しかし仕事というほどのことはまだ出来ていない。クレアからの指示によれば、授業に戻って幾日かはいつも通りに振る舞うべしとのことだった。級友たちにもアシュレイの加わった日常に慣れてもらうことから任務が始まっているのだと。

「残っていた課題を片付けただけでしたけど」

「いいね〜。学生生活に戻った感じだ! 友達とも話せた?」

「はい」

 作業机から器具を取り出すと、〈医務官〉はカーテンに手をかけながらペルシェにばいばいと手を振った。

「さあ、緊張しないで。これからするのはいつもの身体検査だから」

 カーテンをピタリと閉め、シュトロイゼルはこちらに向き直る。今まで会ったフェーヴの中で最も無邪気に笑う彼の手元に銀の器具が握られているのはいささかちぐはぐな光景だったが、本来生徒の医者として務めている彼の顔はこちらなのだろう。落差のある人だな、と思いながらすっと頭を下げる。

「……よろしくお願いします、〈医務官〉さん」

「うん」

 身体検査であろうと解体だろうとアシュレイはフェーヴに命を預けた身。「ちょっと触るよ」と涙袋に指を添えられるのに任せて、ただ深く息を吸って、薬品の香りに肩の力を緩める。

「……落ち着いてるよね」

「え?」

「誰も経験したことがないような、宙ぶらりんの状況。きっとおれには耐えられない。怖くて泣いちゃってるかも」

 食堂での跳ねるようなおしゃべりは何処へか、目を瞑るアシュレイの眠気を誘うような少し低い声が話しかけてくる。

「言われるままにしているだけですから……」

「そうかなあ?」軽く茶化すような含み笑いの声。

「君みたいな子はなんでもない顔が上手だから、知らないうちにこなしちゃってる事もあるんだろうね」

「…………」

〈医務官〉の手が首の包帯を外すと鎖骨より少し上のあたりに烙印が現れる。断頭処分が下される違反生の印だ。昨晩初めて自室の鏡越しに襟元から半分見えるこの痛々しい火傷と対峙して、自分の犯した失態をまざまざと形として目の当たりにした。

 それが……いつも良い方向に働くなら、こんな失い方はしていない。

「でも困ってることがあるならおれたちに相談してくれて良いんだよ」

 言葉が近くに感じて、目を開けると淡いラベンダーの虹彩がアシュレイのやつれた顔を映していた。

「アシュレイくん、何もあきらめてないでしょ。未来に絶望していないなら、まだ後悔も役に立つ」

 その瞳がアシュレイ自身を見つめてあまりに揺らがないので。

 アシュレイはせめて微笑んで素直に答えた。

「……ありがとうございます」

 すると〈医務官〉はさっぱりと破顔して、また触診に戻る。

「アシュレイくんさあ、お行儀いいよね。でも遠いなあ」

「へ?」

 首元の確認が終わって手首の針の入った位置をチェックしながらシュトロイゼルがまた話し出す。

「おれたちがフェーヴだから礼儀正しくしてくれてるんだと思うけど、別にそんなのなくていいんだよ? 呼び方も、そんなめんどくさいのじゃなくてもいいよ。名前で呼んで――シュトとか、ロイとか、ゼルとかなんでも!」

「え……、」

 突然の注文でアシュレイが泡を食っているのを少し眺め、シュトロイゼルは頬を掻いて言い直す。

「短い付き合いになるのか長い付き合いになるのか、それは君次第だけど、おれは君との繋がりをぞんざいにしない。簡単に言えば仲良くしたいんだ。——君はどう?」

「……わかったよ。ゼル」

 頷いて言うと、彼は「控えめだなあ」と笑った。

 そして会話に満足したのか、シュトロイゼルは〈医務官〉の眼に切り替わって手の平を掲げ、アシュレイの額を覆う。

「じゃ、ここからちょっと意識が遠くなるよ。ゆっくり息を吸って、……吐いて……」

 彼の言葉とともに五感が薄らいでいく。


 身体検査が終わる頃には窓辺の床に橙の光が差し込まれる時間帯になっていた。学舎二階の端にある医務室は教室の並びから離れた位置にあり、放課後の最も喧騒が響く時でも生徒たちの話し声はここまで届かない。

 生徒全員を対象にまとめて行われる年に数回の人形化過程定期診断は慣れたものだが、誰もいない医務室で〈医務官〉に体を預けてただ座っているのは初めてでなんともいえない気分になる。授業をすっぽかしたような、全てを置いて何処かへ出発したような、ゆっくりした時間の流れ。

「はいおしまい」

 肩にポンと手を置かれ、ぼうっとしていた意識が戻ってくるとアシュレイは深く息を吸った。

「あ」

「お疲れさま。どこか軋む部位はない?」

 ゆるゆると首を振って、視線を泳がせる。部屋の中には〈医務官〉の他に誰もおらず、検査の後で気を遣ってくれているからか彼ですら口数が少なかった。

「……えっと、」

「ごめん。ペルはいま会長に呼ばれて出てるんだ。一人で寮まで帰れる?」

 医務室近くの階段からまっすぐ自室まで戻るのに何の不都合もない。検査の影響でミルクの膜が張ったような鈍重な思考回路のまま、アシュレイはしかし躊躇なく頷いた。

「はい」

「はい?」

「……あ、えっと。うん」

 シュトロイゼルの笑顔に見送られたアシュレイはすっかり空っぽになって生徒も誰もいない廊下を歩く。医務室からは階段が少し遠くて、自分の靴音だけがそばにある。完全に一人になったのは何日ぶりだろうか。最近は必ず誰かの声や視線があって、自分のことがわからなくなりそうだった。

 アシュレイはふっと溜め息を吐いて、それすらいつぶりのことだろうと陽の差さない窓に顔を向ける。

 のんびり歩いて階段に差し掛かり、別方向から走ってくる軽い靴音をアシュレイはうっかり聞き逃していた。

「きゃっ!」

 階段を駆け降りてきた女生徒は廊下とつながる角から現れたアシュレイを避けきれず顔ごとぶつかって、あわや転びそうになる。

「……フィー?」

 手品を見るのが好きなその少女は赤くなった目尻に光る粒を浮かべている。古いいぬのぬいぐるみを腕に抱えて。

「フィー、どうし……」

「あ……、ま、また明日ね」

 ぶつかったせいで体勢が悪く、よろける彼女を支えようと手を伸ばす。しかしフィーは身を固くしてそれを避け、急ぐ様子でまた階段を駆け降りていった。


「……あれ、お前一人?」


 置き去りになったアシュレイが呆然としていると、少し間をおいて聞き馴染みのある声が上階の踊り場から緩慢な空気の流れと共に届く。見上げると逆光に照らされた黒い制服と首筋にかかる甘いコチニールレッドの髪。

「……マカ、」

 級友はフィーが駆け降りてきた方向から現れる。とんとんとリズム良く段を降りてアシュレイの隣まで歩いてくる。

「フェーヴのあの人は?」

「今はいないよ。別の用事があるみたい」

 マカがアシュレイの肩越しに二階の廊下を覗くのに答えると、彼は胡乱げに言う。

「なんだそれ。それでいいのか?」

「僕が何もしなければね」

 マカは肩をすくめながら片手の平をひょいと泳がせるように見せた。疑問に思うことは隠さないが、フェーヴの仕事をあれこれ言う気はないようだ。

「……ねえマカ。フィーと会った?」

「いつも会うだろ、教室一緒なんだから」

 誤魔化された。目を逸らして自然を装う彼を見てそう確信したと同時に今さっき二人の間で何があったかも察しがつく。やっぱり縫い合わせることはできないままなのか。

 黙っているとマカがこちらを見てふっと微笑んだ。

「そんな悲しそうな顔すんなよ」

「……してないよ」

 見慣れた呆れ顔が今日は自分に向けられていて。

「お前は自分の心配しろよ。まだ容疑も晴れてないんだろ」

 君が僕を気にかけてくれることもあるんだねと言いかけて、しかしやめる。こんな時間は今だけかもしれない。マカからは見えていない手の平をぎゅっと握って、未だ重い体の芯を支えた。

「オレさあ、フェーヴに保護されてすぐ帰ったから、あの夜お前が捕まったのは後から知ったんだ」

「そうだね」

 マカの手が真鍮の手すりをなぞるのを眺めながら相槌を打つ。

「あの騒動の中で運の悪いお前が捕まって、首の皮一枚繋がって帰ってきたのに、あいつは結局今も何も変わらないよ」

 窓の光から離れるように彼の瞳がふと階段下へすいと動く。ただでさえぱたぱたと走れば転びやすいフィーは両手でぬいぐるみをぎゅっと抱えて、あのまま走って帰ってしまったのだろうか。今は誰の音も聞こえない学舎の隅で、どこかの時計の秒針だけが静かに刻まれている。

「人形になることを尻込みして、あまつさえそれに周りを巻き込んだら生徒として失格だ」

「また喧嘩してたんだね」

 マカはひらりと手であしらってぞんざいに笑う。

「喧嘩ってほどじゃねえよ。あいつが勝手に苛まれてるだけで」

「……偶然だよ、マカ。あの夜に全ての偶然が重なっただけだよ」

 手すりに寄りかかる友人にそう言い繕うけれど、彼は小さく息を吐いて独り言のように呟くだけだった。


「そうならよかったけどな」


     ○


「あんた一人で帰ってきたの」

「わ、〈執行官〉さん?」

 部屋に戻ると黒い影が床の真ん中にあぐらをかいて座っていて、少し意外そうな顔で迎えられた。

「ここ僕の部屋なんだけど……」

 隣の空き部屋を与えられたはずの監視役の彼女はいつもの外套を着込んだまま、アシュレイが扉を開けるまで無造作に積み上げられていたトランプがその手元で静かに崩れ落ちた。

「呼び方」

「……ペルシェ」

 他の生徒の前で会話をする時は気を付けていたが、自室にいる時も役職で呼ぶのは駄目らしい。訂正すると、ペルシェは重々しく頷いた。シュトロイゼルといい、こんな対等な友達のような距離感で本当に良いのだろうか。そうは言ってもペルシェに対してはついくだけた態度からはじめてしまったのだからあまり変わらないかもしれない。

 トランプを片付けるのを手伝って床に一緒に座ると、ペルシェはまた訊き直してきた。

「あんた、一人で帰ってきたの」

「え、うん。ペルシェが呼ばれて戻らないから一人で帰れるかってゼルが」

「ゼル? あいつ……」

〈執行官〉の目がすぅっと細くなる。肌がちくちくするような感覚に襲われて、アシュレイはまずいことを言ったのかもと後悔する。

 しかしそれからペルシェがそれについて掘り下げることもなく、ぱかりと開けた口からちょっとした溜め息を吐いてからのそっと立ち上がった。

「あんたはもう寝た方が良いよ。どうせそろそろ起きてられないと思うけど」

「? そんなこと……」

 否定しようと思ったけれど確かに帰りの道から今までやけに輪郭がぼんやりしている。トランプの絵もどれがどれだか分からなくて、揃えるどころか拾うことすら億劫だ。

 じゃあ寝ようかな、と言い終えたのかも分からず、アシュレイの意識はふっつりと途切れた。



 校舎外のナラの並木沿いに学舎へと戻る最中、一階の窓辺に頬杖をつく少女が視界に映って。

 同じラベンダーの瞳が交差すると、白衣の彼が先に口を開いた。

「たしかに答えを急ぐにしても騙すようなことをしちゃったかも」

 黒衣を羽織った彼女はそれに対して少し呆れたように瞼を伏せて言った。

「立案したのも実行したのもシュトロイゼルでしょう」

「まあでも杞憂だったよ。あれはやってないな」

 シュトロイゼルが白衣のポケットに両手を入れたまま肩をすくめると、わざとらしい高い溜め息に呼応するように冷たい風が白衣の裾を浮かしていく。あれ、と小さく呟いた彼女は顎を支えていた手の指でそのまま口元を覆ってあれれと揶揄いの声を上げた。

「簡単に信じるね。検査にかこつけてあの子の判断力を鈍らせておいてから怪しい動きをしないか泳がせてみた奴とは思えない」

「いいだろべつに。ともすればそれで犯人が尻尾を出して白黒わかったかもしれないし、意識が軽く朦朧とするのは完全人形化検査の副作用だ。どうせ防ぎようもない。帰りも見守ってたけどアシュレイも真っ直ぐ部屋に戻ってたもん」

「わたしの判断が間違ってたって言いたいんだ、」

 シュトロイゼルはざっざっとスニーカーで土を踏んで片割れの元まで近付いて、自分を見上げるそっくりの眼を見返して。

「マドレーヌもあいつと話してみればわかるよ。おれたち、同じくらい生徒のこと見てきたじゃない」

「あっそう……」

 彼女は腑に落ちるような落ちないような相槌を打って、また亜麻色の睫毛を伏せる。

 と、ふと気付いてマドレーヌは頬杖をやめた。

「……あ。もしかしてもう仲良くなったの? ずるくない?」

「へっへーん」

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