ミルフィーユとマカロンのジレンマ、3
「本日午前八時二十三分、一階の壁の中でメレンゲ食いが大量に詰め込まれた箇所を発見した」
〈捜査官〉がトントンと歩くのに合わせて、アシュレイの瞳が振り子のようにゆっくりと左右に動く。
「神出鬼没のメレンゲ食いを誰にも知られないで何匹も一定の場所に保管しておくなんて、そんな芸当がみんなに出来てたまるか。これは十五日前の『本棚ロッカー事件』と同一犯の可能性が高い。しかしメレンゲ食いがそこに詰め込まれたのはごく最近、君が拘束された後。……〈生徒会長〉の言ってた再捜査の妥当性が具現化しちゃったわけだ。ね」
ね、と振り向く先には渋い表情で〈捜査官〉が話すのを見守っていたクイニア。生徒会室に呼び出されたアシュレイが背後に覚える威圧感は、部屋の扉にずっと立ったまま不動でいる彼から流れくるものだった。ただでさえ断頭を首の皮一枚で免れた身で、数人のフェーヴに囲まれても緊張しない生徒などいるだろうか。
束の間の沈黙も居心地が悪く、アシュレイは自分と同様に〈捜査官〉の前に置かれて微動だにしないペルシェを盗み見て。
「……つまり?」
「つまりはアッシュ君が単独犯ではない、あるいは無罪の可能性が正式に浮上したってわけ。アッシュ君が色々隠したまま死んでたら大変厄介なことにになってたよ。俺の立場としてはペルシェ、お前には感謝状でも贈りたい気分だ」
「別にいらないけど」
無感動に突き返してくるペルシェの言葉に、そうだよねえ、と苦笑いしたクレアはやれやれと首を傾げつつ、気軽な仕草で〈生徒会長〉の骨董机に手を置く。
「運のいいことに貴重な貴重な重要参考人が生きてるわけだから色々聴取したくて無理言ってお前らを呼んでもらったんだ。今更嘘はなしで頼むよ」
「わかっています」
アシュレイが頷くと〈捜査官〉はかすかに目を細め、感心と胡乱の混ざった所懐をこぼす。
「……アンタ、本当に違反生? すごい大人しいし殊勝すぎて不安になるね」
「クレア」
シャルロットが窘めるのを分かってるよと言うようにひらりと片手を振ってクレアは本題を続ける。「まあ兎にも角にも協力的なのは助かるよね。『容疑生』君、これは見た事あるよな?」
手の平の上に置かれたのはケーキの苺のように赤い錠前。何かの衝撃を受けたのか掛け金の部分が大幅に破損しており、もう二度と使えそうにない。その壊された無惨な姿も含めてアシュレイの記憶に新しい。
「あの檻の錠だ、図書館の……僕のロッカーの中で、あの檻を閉じてたものです」
「間違いないかい?」
〈憲兵〉に念を押され、こういった道具には明るくないため断言はできないけれどと付け足して、しかしあの夜はこれと同じものを触ってしまったのだという確信があった。
「……少なくとも、同じ色のものだった」
「ふぅん。そういう答え方なんだ」
〈捜査官〉がぽつりと置いた呟きが生徒会室の張り詰めた糸をぴんと弾くようだった。言動を全て聞かれている。仕草を観察されている。アシュレイは試されているのだ、嘘をついていないか、隠し事がないか。〈生徒会長〉や〈議長〉、〈憲兵〉が自分を『生徒』として扱ってくれているとはいえ、無実を証明できない限りは座敷部屋にいた頃と何も変わっていない。
アシュレイは未だ、ソプドレジルアンにとっての敵かもしれないのだ。
「ちなみにこれ、他で見たことない? ナンシエはこんなの取り扱ってないって言うんだ」
アシュレイは首を振る。
「僕もこの錠はあの夜に初めて見ました」
「その時はアッシュ君が檻ごと壊したんだよな? 今回同様ロッカー付近で爆音が響いたって言うけど。一体何したのさ」
「わからない。自分が使っていたものだったから特に何も考えずに開けてしまったのが悪かったのかな。扉を開けたら中に鍵のかかった格子があって、その奥にはメレンゲ食いが何匹もこちらを見ていた。その前日までいつも通り使っていたロッカーだったのに、その日開けた時だけ異常なほど広い空間があったのは確かだ。」
落ち着いて話すアシュレイの片手が自分の腕に触れる。あの日の光景は思い出すと言うより目に焼き付いている。何気なく本棚の扉を開けたら目の前には人形を食べたくて襲い掛かろうとするメレンゲ食いの触角や眼や、格子の闇の奥で光る虫の昏い食欲。話しているだけで指先が冷たくなってくる。
「……えっと、その瞬間の記憶はあまりなくて、目の前で格子ごと錠が弾けたと思ったら気付けばあっという間に群れに囲まれていたんです」
「錠には触った?」
「指一本触れていません」
「は〜ん……」
独特な声を発しながら天井の照明を仰ぐ〈捜査官〉はなんだか掴めない人で、何か考え込んでいるのかそのまま動かなくなってしまう。
「巻き込まれたみんなは無事でしたか」
「今日の一件に負傷者はいないよ。〈捜査官〉の適切な対処のお蔭で」
メレンゲ食いの残党処理は手隙の者に任せ、至急の伝達を生徒会室に送った〈捜査官〉と〈憲兵〉が謹慎中であるアシュレイを呼び出させてこの場を手配した。この状況自体が彼の不安を煽るのも無理はないと想定はしていたが、その質問は少し予想外であった。ともあれキシェが謙虚に返答して、すると容疑生の強張った表情が微かに和らいだようだった。
「……よかった」
胸を撫で下ろす容疑生にフェーヴたちの静かな視線が集まる。その姿があまりに素朴な安堵を纏っていて、彼らは少しの間何も言えずにいた。
その中でクレアだけが紙に鋏を入れるようにおもむろに口を開いて。
「あのさ、それってどういう意味? お前が本当は罪のない善良な生徒で、お友達があの事件みたいにメレンゲ食いの犠牲になるのを案じてる? それともそういう素振りをしてるだけ?」
「クレア、」
「今朝の一件の実行犯がお前じゃないことは確定されているとはいえ、だよ。悪いけどお前がやっぱり本棚ロッカー事件の犯人で、まだどこかに檻を隠している可能性は十分にある。その場合俺たちの信用を買うために良い子の演技をしているのかもしれないよな?」
机に腰を預けてアシュレイに対峙する〈捜査官〉は不信感を敢えて隠すこともなくぽんぽんと重ねて言う。アシュレイは何かを言い返そうとして、しかし彼女の言葉を覆すだけの言葉を持っていなかった。だからこそ、ペルシェに問われるまで彼はずっと口を閉ざしていたのだから。
「お前は慎重そうだから、考えてから発言するだろ。そういうのって時に信用を得にくいこともあるんだよな」
「…………」
「間違えたのはあんたなのに、随分と偉そう」
それまで身じろぎもせずに佇んでいたペルシェがふと声を出して、それは大して大きくないというのに時間を告げる鳥のように部屋中に広がった。その場にいたフェーヴの目が全て彼女に集まる。〈捜査官〉の口角が引き攣って上がり、物騒な低い声が漏れる。
「……へえ。喧嘩?」
「こいつは、あたしたちがみんな間違えたせいで十数日の時間を奪われた。命も失うところだったんだよ。それでどうして、あんたの方がよく喋ってるんだろう」
「は、」
「クレア。ペルシェ」
キシェがフェーヴ二人の言葉の加速を抑制しようと彼女たちを呼ぶ。クレアは平静を示すように手の平を上げて見せ、腕を組んで言った。
「この生徒の容疑はまだ晴れてないんだぜ、ペルシェ。お前の直感のために守ろうとしても誰も従わない」
「『毒』のありかを調べるのはあんたの仕事でしょ」
「置かれた毒瓶を壊すのがお前の仕事のくせにな」
「もうやめろ、お前ら」アシュレイとペルシェのすぐ後ろに見かねた様子のクイニアが立つ。「続くようならつまみ出すぞ」
低い声が二人の口論を終止させる。彼の言葉には相手の胸をとんと叩く重みがあって、するすると喋っていた〈捜査官〉も大人しく口論を放り出した。
「はいはい、喧嘩は合議室」
不服そうにしながらペルシェもクレアと同様に口を結ぶ。
気は済んだかしらと軽く咳払いして〈生徒会長〉は肘置きに手をかけながら座り直してスカートを整える。
「今の彼は容疑生よ、クレア。無実の生徒ではないかもしれないけれど同時に違反生でもないの。それを忘れないように」
「んげ、俺が言われんの……」
己を指差してクレアが不平を呟くので、シャルロットは記録用の帳面をパタリと閉じてお開きの合図を仄めかす。
「質問はまたの機会にした方がいいかしら?」
「ちょ、そんなこと言わないでもうちょい頼むよシャル。ただでさえ本棚ロッカー事件に関しては犯人の聴取記録がまるでないんだからさあ。おっと間違った、容疑生君な」
クレアは〈生徒会長〉の凪いだ態度に慌てはじめ、閉幕を拒否する。机越しにシャルロットにまとわりついて待って待ってと抗議する様は猫のようで、つい先刻のアシュレイへ向けられた冷め切った眼差しを忘れさせる。生徒会室でこんなにくつろげるのは彼女くらいなのかもしれない。
シャルロットは困った顔でキシェに目配せをする。信号を送られ、そっと溜め息を吐いた同伴者がクレアを机から引き剥がして宥めにかかった。
「〈捜査官〉、少し落ち着きなよ。大体君が〈裁判官〉預かりの生徒を自ら聴取したことなんてなかったじゃないか。ファイルだけあればいつも満足しているのになんで今日は……」
「うるさぁい」
「あの……」
生徒会室のど真ん中に置きざりにされた容疑生がふと挙手をして、部屋の音が全て消え収まった。とうとう机に寝そべる格好になった〈捜査官〉も、痺れを切らした〈議長〉が袖をまくるのも動きを止めて、彼の少し低い声に部屋の全てが注目する。
「ひとつ提案をしても?」
クレアはシャルロットを振り返る。〈生徒会長〉は厳かに彼の発言を促して言った。
「……生徒の相談にのるのもわたしたちの仕事。聞きましょう」
アシュレイの瞳は森がさざめくように一瞬揺れただけで、すうっと息を整えると果断な切り出しを仕掛けた。
「僕も捜査に協力したい。許可をくれませんか」
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