座敷とボタンと銀貨
座敷とボタンと銀貨、1
土足厳禁の木製フローリングの廊下と座敷を、無骨なソックスブーツで上がり込むのはペルシェくらいである。そしてそれが誰にも咎められないのは座敷部屋を訪れるのが罪人のほかには座敷の番人である彼女しかいないせいだ。
少女は微かに陽の光が漏れるように差し込むだけの薄暗い通路を小さなランタン一つで歩く。
格子の戸が開いたまま空となった部屋の向かい、同様に光の少ない格子の中にぼんやり座っている生徒がいた。ほつれて取れてしまったのか制服のボタンを手の中でいじって退屈を慰めている。彼は背中越しに近付く足音に気付いてはいただろうが、怯えることすら億劫なのか振り向くことすらしない。目を細め、首を傾げるようにして格子に寄りかかるだけだった。
その格子の前に、執行人の足が止まる。
囚人はしばらく黙って彼女が過ぎ去るのを待っているようだったが、離れるそぶりがないと察するとおもむろに口を開いた。
「……今日は僕の番かな?」
ただの生徒に声をかけられて、彼女は思わず格子越しにその顔を見た。
黒髪の隙間からちらりと覗く瞳がランタンの光に反射して不思議な揺れ方をした。こちらを見上げるやや小さな瞳は怯えも嫌悪もなく、ただ目元に疲れを滲ませているだけ。
「まだだよ。今日は質問があるだけ」
「質問? 君が僕に?」
生徒が首を傾げると、その首筋に刻まれた違反生の黒印がブラウスの襟から覗く。さも意外そうに聞き返すけれど、勿論ペルシェ自身が彼に対して疑問があって来たのではない。
「あんたの罪が軽くなったりはしないけど、あんたは『生徒』。問いに答える義務がある。分かる?」
「……どうしようかな」
生徒は具体的な質問をされる前から、さも悩んでいるかのような口振りで言った。
「渋っても意味がないよ」ペルシェは違反生の時間稼ぎを封じて言う。
大人しく答えたとしても、減刑が許されたり判決が覆されたりすることはない。こうして違反生に情報を求める例は時折あるのだが、刑罰が決まっている違反生であっても、生徒である以上は学校が情報を求めればそれに回答しなければならない。
「そうは言っても僕が君たちの役に立つ情報を持っているとも思えないし」
先程から生徒の指先でくるくる回る金色のボタンが気になって目で追ってしまいそうになる。どうして座敷部屋でこんなにリラックスできるのだろうか、それがわからない。ペルシェはボタンから意識を離して言った。
「なら知っているかどうかを先に答えてくれたらいい」
「なるほどね。それはそうか」
「いい?」
慎重な生徒は続きを促すように手の平を見せた。これ以上の口答えに益はないと判断したのだろう。
……手には先程から踊るようにボタンが回っていたはずだ。どうして空になっているんだ?
「期待はしないほうがいいよ、おおよそはもう憲兵と裁判官に話した通りだし」
「そう。それじゃ」
だとしてもペルシェは聞いたままを書き留めて提出するだけである。情報の真偽を判断するのは執行人の役割ではない。
「〈メレンゲ食い〉がどこから生まれるのかあんたは知ってるの?」
「え、」
メレンゲ食い。大きな虫の姿をした悪食の化物で、この学校の生徒のみを好んで襲う天敵である。彼らは常に神出鬼没、現れたところを対処するしかない。
思いがけない質問だったのか、違反生はふたつ瞬きをした。
「……あれの発生場所なんて、そんなことを知ってる生徒がいるのか?」
「あんたがその『知ってる生徒』なのかどうかを聞いてる」
ペルシェは事件の詳細を知らないが、彼の罪状は複数のメレンゲ食いを独断で保管し、さらにそれを校内に放ったことである。これは他の生徒を危険に晒すため斬刑に処されるべき重い罪だ。そのため彼はこの座敷に収監されて刑を待っている身なのだ。
「いや、知らないよ」
生徒は淀みなくそう答える。
「僕なんかに見つかるようなら、とっくの昔にメレンゲ食いは駆逐されてるよ。確かに僕が犯人ならフェーヴを出し抜いてメレンゲ食いを捕まえるためにはそうするしか方法がないとは思うけど、僕はそれとは関係がない」
生きたメレンゲ食いを一度におおよそ三十体も解き放ったのだから、どこかで生まれた一体一体を誰より先に見つけて、隠して集める必要がある。より多くを集めるにはメレンゲ食いが生まれる瞬間をおさえるのが一番効率的なのだ。言い渡された指示にわざわざ解説まで添えられていたので大体は知っている。ペルシェの仕事はただ彼に『聞く』だけなのだから、理屈まで教えてくれなくても支障はないのに。
「次の質問は?」
「……今の答えで無くなった。あんたは知ってるだろうからその場所まで聞いてくるように言われてたんだけど」
予定外の答えが返ってきたせいで次の質問が無意味になってしまった。彼はペルシェより少し困った顔で苦笑いする。
「そうか。役に立てなくてごめん」
「じゃあね」
用は終わったので報告するため踵を返す。
「もう行くの?」
まだ違反生の声が背にかかる。けれど指示を達成した看守はもう彼の言葉に反応することはなかった。
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