第35話 夜の森にて、猿は獲物を捉えし件
ヨウキは焦らなかった。
サイゾウが撤退した。最早戦場にいるのはハンゾウと自分だけ。誰のことを気にすることもなく、ヨウキは追跡に集中できた。
獲物を追う一個の猿となった。
ハンゾウは自分より疲れている。ヨウキと戦い、サイゾウを相手にした。肉体と精神の疲労は、間違いなくヨウキを上回っているはずだ。
そして、ヨウキには「若さ」がある。
自分はただ追うだけで良い。やがて、ハンゾウは止まる。
夜になれば日が沈む。それが疑いないことであるように、ハンゾウが停止することをヨウキは確信していた。
(……匂う。ここで止まったか)
ハンゾウが腰を下ろした草地に、隠しようもない体臭が残っていた。3日も歩き続ければ、汗をかき体臭が濃くなる。体が触れた草や地面に、ハンゾウの匂いが残っていた。
(森が近いにもかかわらず、身を隠せない草地で休むとは……。疲れで頭の働きが鈍ったか?)
だとすれば好機である。ヨウキは第3の眼に意識を集中し、心眼で辺りを見た。
(やはり、気配が残っている。気が緩んでいたな)
休んでいたその場所と、その手前に色濃くハンゾウの気配が残っていた。
そして、その先にも数歩の間気配が濃く残る場所があった。
(朦朧としたまま歩き出したな? だとすれば、向かった方向はこっちか)
決着が近い。本能的にそれを感じながら、ヨウキはハンゾウの気配を追って森に入って行く。
少しずつ、少しずつ、ヨウキは霧を呼び、霧をまといながら木々を分け入った。
(ハンゾウ、森はお前の味方ではない。森は猿の住処だ)
夜、森の闇で霧をまとうには意味がある。生物である以上押えられない呼吸。その音と振動を霧が吸収する。
呼気や体からにじみ出る匂いも、霧は吸収してくれる。足音、衣擦れ、気の枝がこすれる音、それらも霧が柔く受け止める。
(木遁、木の葉隠れ……)
霧の外周を風が動く。草むらを撫で、枝葉を震わせる。聞こえるか、聞こえないかの森の音。
風とも言えぬ空気の動きはかすかにざわめき、ヨウキが立てるわずかな音と境目なく混ざり合う。
ヨウキは森の一部となっていた。
(ハンゾウ、お前は森に溶けられるか? オム、マニ、ペメ、フム――)
ヨウキは真言を唱え、自分の存在を意識から拭い去る。自意識を薄め、無意識の自我のみとなっていく。
それは草や木、鳥や虫と同じ。森と共にあり、森の一部である存在。
己を捨て去れば、周囲の全てが輝きを増す。普段は意識しない「森の自我」が蛍のように光り出す。ヨウキは極限まで薄めた自我を霧のように漂わせ、森の自我と一体化させていった。
薄く、薄く。どこまでも伸ばし、広げていく。
(いた)
初雪の一片ひとひらを乗せたように薄く広がる森の自我。そのほのかな輝きの中に、黒くくすんだ点があった。雪原に転がる黒い石。
気配を消そうと気を封じ込めたハンゾウは、森と馴染まぬ「異物」としてそこにあった。
(逃さぬぞ!)
ヨウキはするすると森の中を動き出した。一直線に追わず、時にわざと迂回しながらハンゾウの背後に迫る。
時折足を止め、どんぐりや小石を拾い集める。使いつくした鉄丸に代わる「飛び道具」として使うつもりであった。
やがてヨウキは移動を続けるハンゾウの姿を目で確認した。距離は20歩。
これ以上接近すれば、ハンゾウがこちらに気づく。
(どうする?)
遠間から
(ハンゾウは既に体力を使い切っている。疲労は俺にもあるが、若い分だけ体力では俺に分がある)
ヨウキは急襲からの肉弾戦を選択した。
決断を下せば、後は全身を以て突き進むのみ。懐から両手に拾い集めた礫を取り出すと、立て続けにハンゾウ目掛けて投げつけた。
小石や木の実には気をまとわせ、土遁の術で撃ち出した。
ヨウキ自身は全身に気をみなぎらせて、肉弾となって礫の後を追いかけた。礫をかわされても体当たりでハンゾウを打ち砕く、必殺の攻めであった。
闇を斬り裂く礫の気配。ハンゾウは考えるよりも先に、草むらに身を投げ出した。同時に全身を気で覆い、衝撃に備える。
幸運にも礫は当たらず、傍らの木にめり込んだ。
(方向は――どっちだ?)
咄嗟のことで、礫が飛んで来た大体の方向しかわからない。ハンゾウは意識を研ぎ澄まして、襲い来る敵の気配を探した。
(来る!)
白昼のように明らかな気配。隠形をかなぐり捨てたヨウキが、猛烈な勢いで向かって来る。
下手に逃れようとすれば、墓穴を掘りかねなかった。
(ここは、正面から当たる!)
瞬時に覚悟を決め、ハンゾウはヨウキを迎え撃つべく前方に飛び出した。同時に気を練り、体の前面に鎧のようにまとう。
(互いにぶつかってからの離れ際が勝負だ)
両者ともに体に気をまとっている。体当たりで痛手を受けることはないはずだ。動きが止まってからの次の攻撃が生死の分かれ目だと、ハンゾウは判断した。
激突の瞬間、2人の肉体は極性の同じ磁石のように、触れ合うことなく反発し合った。
胃が裏返る逆加速の中、ヨウキとハンゾウは手足を出して撃ち合う。互いに五行の気を操っており、受け損ねれば深手を負うことが必至の攻防だった。
五遁の術はほぼ互角。2人の差は術を支える体力にあった。
十手ほどのせめぎ合いで、元々疲労が蓄積していたハンゾウは息が上がり始めた。次第にヨウキの打撃に押され、動きが遅れ気味になる。
このままでは危ういと感じたハンゾウは、2人の間に無理やり土行の気を爆発させ、後方に跳んで距離を取った。
ヨウキも爆発によって、後ろに飛ばされている。陰気で術を打ち消そうにも、距離が近すぎてその隙が無かった。体前面を覆う気を濃くして、衝撃を吸収するのが精いっぱいだった。
2人は同時に着地し、互いに術を飛ばし合った。息の上がりかけたハンゾウだが、五遁の術ならば体力を使わずに放てる。
離れた距離から放てる攻撃術は限られている。ハンゾウは最も使いやすい火遁を用いた。
術式は威力に優れた火球ではなく、「業火の術」を選んだ。人間よりも大きな火炎を放射するその術は、威力こそ火球に劣るが、攻撃範囲が広い。
ヨウキを火行の気で飲み込み、炎熱で焼きながらその目をくらませようと考えたのだ。その間に少しでも有利な位置に身を置こうという作戦だった。
戦いは一撃で終わらない。流れの先を読んだものが勝利に近づくのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます