三 大喧嘩

 白に満ちている筈の〈白鳴ノ湖はくめいのみずうみ〉を囲む木々は薄墨うすずみが爆ぜたような跡があちこちに残っている。薄墨をつけて手で撫でたような跡もあり、それはまるで幼い子が手のひらで思うままに落書きしたような跡だった。

 木の幹には所々、深くえぐられたような傷跡がある。その木の根元に落ちている木の枝は形を保っているものの、表面が黒くすすけており、焼けた跡であることが分かる。

 それでも白い風景が広がる中で黒い車は目をいた。車の形状から軍用車であることは明らかだった。おそらく、羽坂はざかが乗っていた車だろう。

白山ノ戦はくざんのたたかい〉の跡地を前に車はゆっくりと速度を落とし、軍用車の近くで止まった。

「これが戦争の跡とはにわかには信じ難いな」

 車から降りた鏡一郎が景色を前に背伸びしている。

「しかし、本当に焼け落ちないのだな。この森は」

 鏡一郎は苦笑しながらもどこか恐怖に引きるような笑みを見せた。

「ええ。火を放たれても燃えませんでした」

 高久は湖畔ごはんを歩き出した。木の枝を踏む音をどこか遠くに感じながら空の色を映す〈白鳴ノ湖〉を眺めていた。

 水底まで見えそうな程、澄んでいる湖の水面はいでいる。

 ――ここまで砲弾が落ちたのだ。

 一年近くが経ち、今は薄墨が所々滲むような景色だが、直後は酷いものだった。凄惨たる光景を前に安否を問う声が飛び交っていた。

〈白山ノ戦〉。誰もが予期せぬ結果に己の無力を思い知った戦争だった。結果として勝つことが出来たが、心の底から勝利を喜んだ者はいなかった。

(喜べる筈もない……)

 高久は深く、息を吐いた。あの戦争で失われた命はあまりにも多すぎた。

「やはり来たか」

 羽坂の声に高久は振り返った。鏡一郎と幸間こうまが並ぶ後ろから煙草たばこをくわえた羽坂が歩いてくる。軍装の上に外套を着た羽坂は乱れた髪をかき上げながら、煙を吐き出している。

「志々目先生。あなたそれ、〈日ノ裏ひのうら〉で龍を撥ねた車でしょう。軍に弁償してもらったらいかがですか?」

 前面がひしゃげた車を見ながら羽坂は煙草を吸い、吐き出した。吐き出した煙は羽坂の軍装にまとわりつくように下に降りている。

「軍に弁償してもらうのはまっぴらごめんだな。というか貴様、何故、僕が〈日ノ裏〉で龍を撥ねたことを知っている……」

 鏡一郎が問い詰めると羽坂は肩をすくめ、かわした。

「さあな。それより高久。少し話をしようじゃあないか」

 疲れた表情を浮かべる友の顔を見つめながら高久は短く返答した。


 高久と羽坂は並び立ちながら息を呑む程に透き通った湖をしばらく眺めていた。最初に口を開いたのは羽坂だった。

「もうすぐ……一年になる」

 高久は羽坂を見た。〈白山ノ戦〉からもうすぐ一年を迎えようとしている。

「ああ」

 高久は湖に視線を移した。はるか遠くまで続く湖は天高い空の色を映しながら光を踊らせている。

「やっぱり、一年も近くなれば、戦争の跡も薄れていくな……」

 その言葉の裏で羽坂が何を思っているのか、高久には分からなかった。それでも、あちこちを薄墨の滲んだような跡を残す〈白鳴ノ湖〉を前に思い出すのは真新しい戦場の記憶だった。

 戦争の記憶を閉ざすように目を閉じる。

 澄人が行方不明になった日々の、身が引き裂かれるような痛みも、苦しみも――今、鮮烈に思い出せる。

「記憶は……薄れないのにな」

 例え、一時の間、消されていたとしても、記憶は薄まることなく更に痛みと苦しみを増してあの日の臭いさえ呼び起こす。目を開けて湖を見る。透き通る水面はゆらゆらと光を踊らせ揺れている。

「そうだな……薄れることはない」

 羽坂は高久の言葉に同意し、苦笑した。

「……羽坂。いつ、こっちに戻って来た?」

 羽坂は直ぐに答えなかった。煙草をつかみ、煙を吐く。くゆる煙は立ちのぼっていく。

「……昨日の朝だ」

 澄人すみとが消えた日だった。

「なら、澄人のことも分かっているんだろう。澄人は……」

「分かっている」

「……は?」

 羽坂の予期せぬ答えに高久は戸惑いの声をあげた。

「澄人が……俺を止める為に記憶を消した事、分かっているよ」

 羽坂は煙草をくわえて美味しそうに吸うと、ゆっくりと煙を吐き出した。次に鋼の携帯灰皿を外套のポケットから取り出すと、蓋を開けて煙草を押し潰すように火を消した。

「それでも俺は……専一郎せんいちろうを殺すよ」

 高久は友の言葉に信じ難い目を向けていた。

「澄人が生きているかもしれないんだぞ……」

 羽坂は携帯灰皿をポケットに仕舞った。

「なら、尚更だ。澄人がこの先、生きる為にも専一郎だけは殺さなきゃならねえ」

 後頭部が痺れるような恐怖が満ちる。

 専一郎を殺そうとした瞬間、羽坂を止める為に澄人は産土神と成るだろう。

「羽坂、お前……澄人が、産土神と成りかけているのを分かって、言っているのか……?」

 羽坂の目が開き、揺れる。その目には迷いが浮かんでいた。

「……ああ」

 長い沈黙の後の、羽坂の揺るがぬ答えに高久は歯を食いしばった。友の覚悟は固い。だが、それでも容認することは出来ない。高久が羽坂に協力してきたのは何も、専一郎を殺す手伝いをする為ではない。専一郎を〈軍之法ぐんのほう〉で裁く為だ。

「羽坂。駄目だ。専一郎は〈軍之法〉で裁かないといけない。絶対に殺してはいけない」

「生きていると分かっていたら……望まなかった」

「え?」

 羽坂は疲れた表情を高久に向けた。彫りの深い顔に影が落ちる。

「あの人は……俺が〈鏡ノ径かがみのこみち〉で出しちまったものだ」

 友の告白に高久はかける言葉が見つからなかった。羽坂は高久の心情を汲み取ったように微笑んだ。

「悪いな、高久。〈鏡ノ径〉のことはお前さんとただすから聞いていたのに、やっちまった。気付いたら……澄人が目の前にいた」

 目の前にいて――と羽坂は高久に背を向けた。

「微笑んでいた……」

 喉が詰まるような悲しさが襲う。高久はただ、羽坂の背中を見ているしか出来なかった。

(私のせいだ……)

 澄人が行方不明になってから、羽坂は意図して休日を入れなかった。桐ケ谷きりがや令人のりとを送迎する役目さえも、羽坂は休もうとしなかった。代わりの軍人を頼んだと言っても、羽坂は頑として首を縦に振らなかった。羽坂が休日を取りたがらない理由を高久は嫌という程、知っていた。それでも〈鏡ノ径〉の危険性を考えれば、羽坂を行かせてはいけなかった。なのに、自分は行かせてしまったのだ。

 詮無せんない後悔に歯噛みし、俯くと羽坂の声がした。

「高久。間違っても自分のせいだと思うなよ」

 柔らかく冷たい風が吹き、羽坂の黒い外套を揺らす。

「〈鏡ノ径〉で澄人の姿を見た時点で、俺は桐ヶ谷と令人の送迎を辞退するべきだったんだ。だけど、俺はそうしなかった」

 羽坂が自嘲的な笑いをあげる。

「分かっていても……後、一度。後、一度……と思っているうちにいつの間にか自制が利かなくなっていた。馬鹿だろう?」

 同意を求めるように吐き出した言葉を高久は肯定しなかった。

「ああ、そうか……。澄人は全部、聞いていたんだな」

 全部、聞いていた。

 だから、澄人は自分に羽坂を止めて欲しいと乞うたのだ。

 そして、澄人の望みを聞いてしまった今、羽坂の望みは絶対に叶えてはならない。自分の為に手を汚して欲しくないと懇願した澄人の切実な思いをどうして無下に出来ようか。

「……なら、澄人の願いを無下にするな。澄人の望みは――」

「高久!」

 高久の言葉を遮ったのは鏡一郎の叫ぶ声だった。高久は目を開き、振り返った友の姿を見つめていた。鏡一郎と幸間が慌てた様子で自分と羽坂を見ているのが分かる。

 羽坂は回転式拳銃を手にしていた。その長い銃身の、銃口は自分に向けられている。

「悪いが、これ以上は聞きたくねえ」

「羽坂……! お前……」

 羽坂の冷たい目が高久を見下ろしている。その目の身が竦むような冷たさに高久は息を呑んだ。

「これは最初から俺の自己満足だ」

「澄人がこんなことをお前に望むと思うのか……?」

 高久の言葉を羽坂は一蹴した。

「高久。それは俺には響かねえよ。澄人は絶対に望まないことは俺が一番、分かっている」

 分かっている、と言った羽坂の目は高久を見下ろしながらもどこか遠くを見つめていた。

「分かっているなら何故……!」

「だから言っただろ。自己満足だと」

 羽坂は撃鉄を引き起こし、引き金に指をかけた。

「羽坂。頼むから……澄人のことを」

「もう遅い」

 有無を言わせぬ声だった。羽坂は銃口の照準をゆっくりと合わせていた。

「五千四百八十九人」

 羽坂があげた数字を高久はすぐに理解した。それは〈白山ノ戦〉で死んだ〈白幹ノ帝国軍しろもとのていこくぐん〉の数だったからだ。

「対して二万八千五十七人……これは〈真平良之国まひらのくに〉の死亡数だ。数字で見た時に人は何を思うのだろうな」

 羽坂の声に感情は見えなかった。

〈白山ノ戦〉は〈迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉と地続きの戦争だ。〈迫桜高原ノ乱〉で自国の兵を失い、兵器までも失った〈真平良之国〉が〈白幹ノ国しろもとのくに〉に仕掛けた最悪の戦争だった。

〈白幹ノ帝国軍〉にとって誤算だったのは〈真平良之国〉の兵器が想定以上に進化していたことだった。

 くわえて〈真平良之国〉の将校交代、そして、産土神の戦争参戦。この二つが最悪の形で合わさり、甚大な被害を広げることとなったのだ。

「高久。〈白山ノ戦〉は明らかに軍に内通者がいる。それも、砲兵局から情報を盗んだ奴がいる。俺はそれが、専一郎だと思っている」

 羽坂は、ただ、淡々と――真実のみを述べるように続けた。

「澄人が生きていても死んでいても……俺がやることはひとつだ。それは変わらねえ。産土神にも成らせない。お前さんには悪いが、後始末は頼むぞ」

「お前、何を言って……」

「澄人が産土神に成る前に専一郎を殺し、俺が死ねばいい」

 途端、目の前が真っ赤になるような怒りが湧き上がった。

「羽坂ぁ!」

 高久が声を張り上げる。遅れて羽坂が引き金を引いた。乾いた音が響き、耳元を弾が横切ったのが分かる。鼓膜が破れそうな嫌な音に視界が揺れつつも高久はそのまま左手の甲で勢いよく、羽坂の回転式拳銃を横に払い飛ばした。手の甲に激しい痛みと共に熱が伝わる。羽坂の手から回転式拳銃が離れたことに気を取られた高久は羽坂の左蹴りに気付くのが遅れてしまった。

 とっさに体を硬直させたがそれだけでは羽坂の重い蹴りを受け止めることは出来ず、高久はそのまま横にぶっ飛んだ。右肩を強かに打ちつけた高久は痛みにうめく間もなく地面をつかみ、起き上がると同時に自分につかみかかろうとした羽坂の顔に投げつけた。

 羽坂が反射的に目を閉じた隙にお腹を蹴り上げる。羽坂の体は浮き上がり、そのまま後方に尻餅をついて倒れた。高久は地面に落ちた回転式拳銃を遠くに蹴飛ばしてから羽坂に近付き、胸ぐらをつかんだ。

 途端、左の脇腹に激痛が走り、あまりの痛みに高久は息が出来なくなった。

「ぐ……」

 羽坂が高久の左脇腹をつかんでいる。

「がっ……」

 声も出せぬ激痛に息が詰まる。羽坂は無慈悲にも左脇腹をつかんだまま、高久を冷たい目で見上げていた。そのまま起き上がろうとする羽坂の、覚悟に満ちた表情にかっとなった高久は激痛も構わずにつかんだままの羽坂の胸ぐらを更に強くつかみ上げた。

「ふざけるな! 簡単に死ぬとが言いやがって! それは数多の教え子を戦場に送り出した私達が言っていい言葉じゃないんだ!」

 羽坂が目を開く。左脇腹をつかんでいた手が離れたかと思えば、羽坂の右拳が高久の左頬に飛んだ。

 乾いた音が爆ぜる。殴られた衝撃はさほど、感じなかった。

「そんなこと分かっているんだ! それでも! 俺は! あの人に幸せに生きていて欲しいんだ! その世界に俺は必要ない!」

 羽坂の言葉に頭に血がのぼった高久は羽坂に視線を移すと胸ぐらをつかんでいた片手を離して羽坂の左頬を拳で思いっきり殴った。骨がぶつかる音が響き、遠くで幸間の声と、幸間を止める鏡一郎の声が聞こえる。

「本気で言っているのか! 澄人が、お前のことをどれだけ心配していたか……お前のその行為が澄人を苦しめていたとなんで分からないんだ!」

 蒸気機関車の客車の中で慟哭どうこくする澄人の体をかき抱いた時、澄人が何度も叫んだのは羽坂の名前だった。何度も羽坂の名前を呼ぶ澄人の悲痛な声を羽坂は振り払い背を向けようとしている。

 腕をつかまれ、前のめりに引っ張られた高久は気付いた時には投げられていた。お腹に衝撃を受け、そのまま体が宙に浮く。背中を地面に叩きつけられたが、咄嗟とっさの受け身で衝撃はなかった。高久はそのまま転がると四つん這いになって飛び起きた。

 起き上がるや否や、先に立ち上がっていた羽坂の手が高久の胸ぐらをつかんだ。

「分かったようなことを言うな! お前さんに澄人の何が分かる!」

「だったら何故、ここに来た!」

 羽坂の目が揺れる。

「お前なら、何も言わず、迅速に事を済ませる筈だ。それをしなかったのはお前が誰よりも澄人の願いを分かっているからだろうが!」

 羽坂は高久の軍衣ぐんいから手を離した。そしてそのまま崩れ落ちるように片膝を立てて座った。

 高久は羽坂を見下ろしながら自分の左脇腹に触れた。忘れかけていた痛みがじわじわと広がっていく。

「ぐ……思いっきりつかみやがって……」

 傷に触れないように地面に手をつき、腰を下ろすと、往診鞄を手にした幸間と鏡一郎が駆け寄って来た。幸間は軍衣の釦を外すように命じ、高久は大人しく従った。

「全く……羽坂。貴様、本気じゃなかっただろう」

 鏡一郎は羽坂の回転式拳銃を拾い、振り出し式のシリンダーを解放した。

「やはりな。空砲だ」

 シリンダーを戻すと、鏡一郎は羽坂に手渡した。羽坂は無言で回転式拳銃を受け取ると、シリンダーを開放し、中身全てを手のひらに出した。

「本気じゃない人は怪我をしている相手の傷をつかみません! あなたは何を考えているのですか!」

 羽坂に向けられた幸間の厳しい声に鏡一郎が目を丸くして肩をすくめた。高久の傷はすっかり開いていて包帯から血が滲み出ている。幸間は包帯をかせ、消毒等全ての作業を淡々と手早く済ませた。

「後で医師に見せるように。絶対ですよ」

 幸間の静かながらも圧倒的な迫力のある声に高久は大人しく頷いた。高久が立ち上がり、詰襟シャツのボタンを留め、軍袴ぐんこ穿き直していると羽坂がぽつりと零した。

「高久。俺は……澄人の傍に居られない」

「お前、まだ、そんなことを言っているのか」

 高久が軍衣の釦を留めていると羽坂は続けた。

「俺は……軍の命令で澄人を護っていた」

 高久は釦を留める手を止めた。羽坂の言う軍の命令が意味するところを高久は分かっていたからだ。それでも、それは澄人の傍に居られない理由にはならない。

「……それでも、お前が澄人を誰よりも大事に思っていることは私と八代やしろがちゃんと知っている」

 羽坂は両手で顔を覆った。

けがしたくない」

 あの人を――と羽坂は続けた。

「清らかなあの人を……穢したくない。俺一人で良い。地獄に行くのは、俺一人で良い」

 高久は軍衣の釦を留め、軍装を整えると羽坂の前に立った。

「羽坂」

 羽坂が顔をあげる。疲れ切った友の顔をしばらく見つめてから高久は口を開いた。

「澄人は、私達が何をやっていたか、ちゃんと知っていた」

 羽坂の目が大きく開かれる。

「お前が一人で地獄に行っても、澄人は追いかける。あの人は……お前一人に責を負わせない。共に地獄に堕ちる人だ」

 高久は腰を折り曲げ、手を伸ばし、羽坂の立詰襟をつかんだ。

「羽坂。お前が何をやっていたかは聞かない。でも、澄人の気持ちを置き去りにするな。澄人がどうするかは澄人が決めることだ。澄人がお前と共に地獄に行くというなら、私は止めない。羽坂。それも含めてお前の地獄だ。腹を括れ」

 もう――と高久は羽坂の立詰襟を強くつかんだ。

「澄人をひとりにするな。たったひとりの……家族だろう」

 高久が立詰襟から手を離すと、羽坂は俯き、深く息をした。

「解決したか?」

 余韻もなく鏡一郎が高久と羽坂の間に入る。

「――羽坂。貴様、本気で専一郎を殺すつもりだったのか」

 羽坂が何も言わないでいると、幸間が静かに切り出した。

「それだけは、やめた方がいいです」

 幸間は言葉を探し選ぶように視線をさ迷わせていた。しかし、どの言葉を選んだとしても、同じだと気付いた幸間は息を吐いた。

「羽坂様。あなたも〈平琴ノ国〉の顛末はご存知でしょう。冬一郎様は藤部様を護る為に産土神と成った。それは、藤部様の復讐を止める為です。……祝い呪いは氏子のみ。冬一郎様は自分が産土神と成り、藤部様の体に入ることで相手を傷つけるのを止めようとしたのです」

 幸間は手を重ね、祈るように握りしめた。

「羽坂さん。専一郎様を殺すことは出来ません。あなたが専一郎様を殺そうとしたその瞬間に澄人様は産土神と成り、祝い呪いの名の下にあなたを止めるでしょう。そうなった時、一番、後悔するのはあなたです」

 幸間の言葉には確かな説得力があった。幸間は産土神と成った人間の末路を知っている人間だ。

 幸間の言葉を聞いていた羽坂は、溜まっていたものを吐き出すように息を吐いた。そしてゆっくりと深呼吸を繰り返してから、羽坂はようやく、口を開いた。

「高久」

 羽坂の声が〈白鳴ノ湖〉に静かに響く。白に満ちた光景は少しずつ迫る夕焼けによって金色の光を纏っていた。

「……悪かった。間違ってもお前さんの前で死ぬという言葉を絶対に言ってはいけなかった」

 友の言葉に高久は胸が痛んだ。

 羽坂が死ぬという言葉を簡単に使わないことは高久と八代が一番、分かっていた。誰よりも教官として一生を過ごしたかったのは羽坂だと、高久は知っている。でも、そうしなかった。

「……いや、私も悪かった。私の理想を、お前に押し付けた」

 羽坂は首を振った。

「違う。お前さんの言うことは最もだ。俺達は教え子を前線に送り出した。生きて帰れと願いながら、戦場に送り出している。そんな俺が間違っても言ってはいけない言葉だ」

 羽坂の言葉に澄人に対する思いの深さを改めて突きつけられた。羽坂は分かっていて、自死を口にした。それ程までに羽坂は、澄人を守りたかったのだ。

 それでも。

「羽坂。……澄人はお前に、私の為に手を汚して欲しくないと言ったんだ」

 俯いたままの羽坂がどんな顔をしているのか、高久には分からなかった。

「〈迫桜高原ノ乱〉のことも聞いた。澄人を守った〈皎衣こうい〉のことも……。澄人は、分かっていて、それでもお前と共に地獄を歩むことを決めているんだ」

 だから――と高久は俯き、祈りのように目を閉じた。

「澄人の手を……もう振り払わないでくれ……」

 羽坂はすぐに答えなかった。羽坂は迷いの中にあるのだろう。目を閉じても羽坂の心の内が伝わりそうな長い沈黙の後で、ぽつりと零した言葉を高久は聞いた。

「十二年……」

 高久は目を開き、羽坂を見た。

「十二年……澄人を見守って来た」

 途端、高久は羽坂が幼い子供を片手に抱き上げながら歩く姿を思い出した。羽坂の腕の中で子供は、幼い澄人は安堵したように眠っていた。

「知っていたよ……」

 高久は羽坂の肩に手を置いた。羽坂は無言だったが、何度も頷いた。

「下手したら、澄人は実の親より共に過ごした日々が長いんじゃないのか」

 鏡一郎の声に羽坂は苦笑したようだった。

「そうかもな……」

 その後で聞こえたのは、消え入るような声だった。

「――たい」

 羽坂の聞き取れぬ声を誰も聞き返さなかった。

「澄人に……会いたい」

 息が詰まる程、悲しみに満ちた友の声を高久は無言で受け止めた。

 羽坂の背後に見える〈白鳴ノ湖〉の水面が光を揺らしている。揺れる光を高久は眺めていた。

 静寂が訪いを告げたその時、鏡一郎が弾かれたように顔を上げた。

 途端、音も風もない何かが、ぱっと広がった嫌な感覚が広がり、高久と羽坂、幸間が顔をあげた。

 高久は空を見て驚きに目を開いた。白みがかった空には雲一つない。吸い込まれそうな程に澄み渡る色を見せていた。

 それは、明るい夜のような妙な空色だった。

 嫌な感覚に呑まれそうになった時、ぱあん、と手を鳴らす音が高久を現実に引き戻した。

 高久と羽坂、幸間が鏡一郎を見る。鏡一郎は手を鳴らした後の姿のままで空を見上げていた。

「これは不味いぞ。――違和が満ちた」

 鏡一郎は舌打ちをした。重ね合わせた手をずらし、握りしめている。

「〈白幹ノ国〉で何かが起きる」

 その時だった。

 体を吹き飛ばすような突風が駆けるように通り過ぎた。髪を乱し、頬を柔らかに撫で、舞い上がるように消えていく風は後に花びらを残していった。雪降るように花びらが落ちる。その花がこの時期、〈白幹ノ国〉では、咲くことのない桜であると気付いた時、桜のような匂いが鼻を掠め、満ちた。だが、この匂いは桜とはまた違うものだった。

 ――桜の匂いがするんです。

 高久が澄人の言葉を思い出した時、羽坂がぽつりと呟いた。

「〈彼岸ノ桜ひがんのさくら〉……」

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