四 明るい夜に

 妙な感覚だった。

 人の気配も、音もない。二人の軍靴の音だけが構内に響いていた。

 天井から見える白んだ空は早朝を告げる色をしているのに、どうしてか明るい夜のような不思議な感覚に満ちていた。

 周囲に音がない為に軍靴の音が鐘のように響く。反響した軍靴の音は音の余韻を残したまま次の音を重ねていく。

白幹ノ帝国駅しろもとのていこくえき〉を出るとどこまでも続きそうな高い空に妙な違和感を覚えた。澄み渡る空は白群びゃくぐんであった。柔らかな白みがかった青色の空には雲ひとつない。

 まるで、深夜の街に足を踏み入れたように人の気配のない妙な感覚の中で高久たかひさ澄人すみとは〈白幹ノ通しろもとのとおり〉の右側の歩道を歩いていた。

 色づいた世界から白い世界へと戻る時、高久は戻って来たと安堵しつつある。その度に村で過ごした日々よりもここで過ごした日々の方が長くなっているのを実感する。

 後を歩く高久は先を歩いている澄人の軍靴の音を聞いていた。力強い足音ではない。ゆるやかに穏やかに響く足音は反響したまま音を重ねる。澄人の軍靴の音はゆっくりと速度を落とし、とうとう立ち止まった。

 高久が立ち止まったのと、澄人が振り返って名前を呼んだのは、同時だった。

「高久さん」

 静かな通りから澄人の声がやわい響きを伴って届く。澄人は自分を見つめていた。泣き腫らした顔はまるで迷子になった幼子のようにも見える。陶器のように白い肌は朱色に染まったまなじりを目立たせた。それ以上に目立つのは、瞳の色だった。

 澄人の色素の薄い灰色の目は場所によって印象が変わって見える。色のない淡い光の中では、雪景色を思わせる色であった。

 澄人が視線を横に逸らした時、高久は立ち止まった場所がまさに自分が生きて帰った〈白天ノ子はくてんのこ〉を抱き締めた場所だと気付いた。

「……高久さん。あなたのおかげで、私達は救われました」

 高久は戸惑いに満ちた目で澄人を見つめていた。戸惑う高久の感情をすくうように澄人は柔らかな声で言った。

「本当ですよ。はやてさんも……志間しまさんも……皆様、軍人を辞められましたけども、あなたのおかげで今を生きています」

 高久はあの日の彼らが辞めていった日のことを今も覚えている。澄人以外の〈白天ノ子〉は〈白天ノ子〉を辞退しただけではない。軍装を脱いだのだ。

 彼らは今、元軍人としてこの街で、あるいは他の街で生きている。

「高久さんがあの日、私達が生きて帰って来たことを心から喜んでくださったからです」

 だから――と澄人は柔らかに微笑んだ。その微笑みは恐怖を覚える程に美しいものだった。

「皆様、苦しみながらも……ちゃんと、生きています。ちゃんと、笑って生きています」

 高久は、彼らのその後を知らない。軍人を辞めた彼らはお店を開き、大学に行き、そして他の国に行き、それぞれの人生を歩んだことを風の噂で知るだけだ。だから、澄人から聞いた彼らのその後は高久にとっては救いの言葉だった。

「そうですか。それならば、良かったです」

「はい。改めてあの日の御礼を言わせてください。ありがとうございました」

 深々と頭を下げる澄人を前に高久は気恥ずかしさよりも、不安を感じ取った。

「まるで……お別れのようですね」

「ふふ。そうかもしれませんね」

 冗談のように笑う澄人の言葉が高久には真のように聞こえてしまった。

「……高久さん。先程、言えなかったことをここで言ってもよろしいでしょうか?」

 客車の個室の中で澄人が高久の腕にすがってまでも〈迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉のことを伝えたかった理由を、高久はまだ、聞いていなかった。

 あの後、気付いた時には〈白幹ノ帝国駅〉の構内を歩いていたからだ。

「でしたら、私の家に行きましょう。朝御飯を一緒に食べませんか?」

 高久の言葉に澄人の目に涙の膜が張る。今にも涙が零れそうな目で嬉しそうな表情を浮かべた澄人は首を振った。

「申し訳ございません。もう、戻らなければ、いけないのです」

 高久は澄人の言葉に違和感を覚えた。戻らなければいけない。それは、何かの強制をはらむものだった。

「では、一度戻ってから、私の家に来ていただけますか?」

 澄人をここで引き留めなければならない、と高久は思った。本能から来る声が澄人を引き留めろと告げている。

 耳の奥で、雨の音がする。

 雨の音は徐々に強くなる。

 雨に煙る景色の奥で、ただすの姿が見える。

 ――兄さん。

「高久さん」

 澄人の声に雨の音が一瞬にして消える。

「……羽坂はざかさんを止めてください」

 澄人の懇願する声だけが耳に届く。

「羽坂を……?」

 何故、と言う前に音が割れる。

(何だ)

 鏡が割れるような音がして高久は眉間に皺を寄せて周囲を見回した。建ち並ぶ煉瓦造りの建物の硝子ガラス窓が割れた様子はない。

「羽坂さんを止められるのは……高久さんしかいないんです」

(どういう意味だ?)

「〈迫桜高原ノ乱〉……あの日のことを知っているのは、羽坂さんだけです」

 途端、高久は今までの羽坂の行動すべてが腑に落ちてしまった。

(あいつが特務曹長になったのは、やはり澄人の為か……!)

 ――お前はまだ、軍曹でいろ。

 羽坂の昇進を取り消す為に上に掛け合おうとした高久を羽坂は止めた。その時の羽坂は申し訳なさそうな微妙な表情を浮かべて苦笑していた。

 桐ケ谷きりがや令人のりとの護衛は交換条件の成り行きだと、それ以上は言わなかった。羽坂は、護衛を引き受け、特務曹長となる代わりに澄人に関する何かを上に掛け合ったのだろう。

(あれは……桐ケ谷と令人を利用した最悪感だったのか)

 それでも、高久は羽坂を責めるつもりはなかった。

 羽坂が澄人の為に色々と動いていたのは知っている。〈迫桜高原ノ乱〉の後、谷屋たにやだった澄人の姓を雪村ゆきむらに変えた時も、羽坂が手を回していた。

 傍目には異常に見える程に、羽坂の澄人に対する献身は厚いものだった。

 参謀本部に引き抜かれ、特務曹長となった時も、羽坂は特務曹長とならざるを得なかったことは澄人には言わないように頼んだのだ。

 ――頼むから、澄人には絶対に言わないでくれ。俺は、あの人を巻き込みたくない。

 あれは、澄人の為に手を汚そうとした羽坂の覚悟だったのだろう。

「羽坂さんには……何も、言わなかったのに、どうして分かってしまったんでしょう」

 高久は澄人の言葉に思考が停止した。

(羽坂に、言っていない?)

 ならば、何故、羽坂は、あいつを――。その先をはばむように澄人が笑む。寂しそうな微笑みだった。

「あの日のことは、羽坂さんには言えません。私は高久さんだからこそ、お話したんです。羽坂さんに話せば、あの人は、私の為に手を汚す。現に……手を汚そうとしている」

 高久の目が戸惑いに揺れる。

「高久さん。お願いします。羽坂さんを止めてください。これ以上、羽坂さんに私の為に手を汚して欲しくないのです」

(それでも、駄目だ)

 羽坂の行動を見て来た高久は澄人の頼みであろうとも、友の覚悟を無下に出来なかった。

「何のことか分かりません」

 鏡に亀裂が入る音がする。亀裂は広がり、そこから更に鏡が割れる音がした。

「それは……高久さんが一番分かっておられますよね?」

 高久は思わず、後ずさりしていた。

 澄人の、顔がない。そして――先程まで見えていた筈の顔の記憶が消え失せている。

 光に焼かれるようなちりちりとした感触に全身が総毛立つ。高久は軍刀の柄に手をかけていた。

「羽坂さんなら、私の為に手を汚します」

 ――あいつのことだ。軍に居られなくなっても専一郎せんいちろうを殺すだろう。

 総司令部の二階で八代と交わした言葉が確かな輪郭を伴い、澄人の言葉と相まって現実を突きつけた。

(羽坂なら……絶対に専一郎を殺す)

 それも、感情任せではない。証拠を集め、検証して、専一郎に突き付け、認めさせてから殺すだろう。

「高久さん。城ノ戸きのと軍曹と稲生いのう軍曹が私と颯さんを守る為に使った〈皎衣こうい〉……。誰のものか、ご存知でしょうか?」

 突然の問いかけに高久は目を開いた。澄人を護った〈皎衣〉が誰のものであるかを、高久はよく知っているからだ。答えられず無言でいる高久に澄人はうつむいた。

 高久の無言は〈皎衣〉に対する答えとなってしまった。

「……あの時、私たちは生存者を確認する為に〈皎衣〉の数も確認しました。明らかに一枚、多いのです。敷物の柄からもその場に居た誰のものでもないことは自明でした。羽坂さんに聞いても答えてくれなくて……でも、そうだったのですね」

 澄人は寂しそうに言葉を零した。

「羽坂さんは……それでも、私を護ってくださるのですね」

 その言葉の意味を高久は嫌でも突きつけられた。羽坂は、あの〈皎衣〉を、ただすの〈皎衣〉を、澄人を護る為に使わせたのだ。それも、同期の手で。

 澄人は顔を上げた。

「それでも、私は、羽坂さんを止められない。羽坂さんが止めさせてくれないんです」

 でも――と澄人は声を落とした。落とした声と共に鏡が軋む音がした。

「このままだと、羽坂さんは……」

 鏡が、割れる。割れて、爆ぜる。爆ぜた欠片は音もなく落ちていく。落ちる欠片が映すのは白群の空。明るい夜の空の色だ。

 澄人はその先の言葉を言わなかった。俯き、迷いを見せて首を振った。その先の言葉を言えば、真となることを怖れたのだ。言葉は、言霊だ。口にすれば確かな形となるもの。代わりに出て来た言葉は祈りだった。

「高久さん。お願いします。止められるのは、あなたしかいないんです」

 自分が叶えられないことを人に託すような願いの言葉でもあった。それは無責任な人任せの言葉ではないことを何故か、高久は分かっていた。

「私では羽坂さんを止められない。だから、何度、振り払われても追いかけるしかなかったのです。でも……」

 澄人が言葉を紡ぐ度に鏡が割れる音が絶え間なく聞こえてくる。

「私は、もう、追いかけることが、できない」

 言葉の意図を問う前に鏡が砕け散った音に阻まれる。砕け散った鏡が石畳の上に広がる音に高久は無意識に視線を下に移していた。そこに鏡の破片はなく、塵ひとつない真白な石畳があるだけだった。

 高久は顔をあげた。そこに澄人はいない。ただ、明るい夜の中にいるような、人の気配のない通りを前に呆然と立ち尽くしていた。

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