四 教官と教え子

 まぶたの裏が赤くなり、トンネルを抜けたことを告げる。目を開けるとまぶしさで細めた目にただすの姿を見た。自分と同じ顔をした、十年前に死んだ妹が自分をまっすぐに見つめている。

 思わず妹の名を呼びそうになった声を抑えて目をまたたかせると、目の前にいるのは妹ではなく、うつむいて座っている澄人すみとだった。

 澄人と糺は全く似ていない。それなのに、どうして二人の姿が重なる時があるのだろう。

(くそ……疲れているな)

 心の中で悪態をつきながら高久たかひさは窓枠に肘をかけ、額に手を当てて息を吐いた。

 トンネルを出た後は開けた景色が遠くまで広がっていた。数頭の馬が気持ちよさそうに草原を駆け抜けている。

 全く雰囲気が違うのに澄人の姿に糺を見た高久は内心、動揺していた。押し出されるように流れる景色を前に眩暈めまいがしそうになる。

 高久はもう一度、澄人の顔を見た。そこにやはり顔はない。記憶は澄人の顔を白いかすみおおい、思い出そうとするほど澄人の姿が消えていく。なのに、自分は目の前の人間が雪村ゆきむら澄人であると分かっている。そのことを高久は疑問に思うことはなかった。しかし、鏡一郎きょういちろうの一言は高久の心に疑念を抱かせた。

 幸間こうまの産土神という言葉もまた、不安の種となって高久の中に植えられた。


 あの後、鏡一郎は幸間と乙顔おとがおを連れて〈白扇はくせん通り〉の家宅に帰った。その際、乙顔は高久に二つの手紙を託した。一つは高久宛の、もう一つは〈顔無之村かんばせなきむら〉の家族宛の手紙であった。

 その手紙が蒸気機関車に乗って〈顔無之村〉に行く経緯となった。

 高久は乙顔の手紙を読むなり、即座に燃やした。乙顔のあまりの人の良さに呆れと同時に怒りすら湧く内容だったからだ。

(あの一族の人が良すぎるのも困ったものだ)

 それでも、乙顔を本気で怒る気にはなれなかった。


 ――だって、澄人少尉は僕の親戚の命の恩人だから。


 手紙の中で率直に言葉を文字として残した乙顔の筆跡に嘘は見えなかった。燦然さんぜんと白く輝く旗を手に前線を駆ける〈白天ノ子はくてんのこ〉は前線を駆ける軍人の救いのしるべでもあり、心のり所でもあるが、それは軍人の家族にとっても同じだった。戦争におもむく家族と、大切な人の帰りを待つ人々にとっても〈白天ノ子〉は特別な存在でもあったのだ。

 それ程までに心の底から澄人を助けたいと思ったのだろう。それでも乙顔は村のことを思うならば澄人を見捨てる覚悟を持たねばならなかった。幸間の住宅で泣き喚く乙顔を思えば、後のことなど全く考えていないことが容易に想像出来た。

 本来ならば、高久は軍人として乙顔の手紙を軍に報告する義務があった。そうしなかったのは澄人のことでわらにもすがる思いがあったこともあるが、高久自身が根っからの軍人気質ではないからだ。

 高久が軍人となったのは生活の為でもあり、死を美徳とする軍人像に抗いたい思いがあったからだ。

 そして、高久は自分の村を愛している。愛しい村が〈秘級〉とされ、いつか白に還るかもしれぬことを怖れている。だからこそ乙顔の手紙の内容が本当のことであるならば、等級が〈秘級〉に変わりかねない事態になることを懸念していた。

 それならば報告する前に確認しておきたかったのだ。〈秘級〉となれば、これまでと同じ生活を送ることは難しくなる。軍の支配下の中で生活しなければならなくなる。

(恩を仇で返す結果とならなければ……その方が良い)

「高久さん」

 自分の考えていることを見透かすような声に高久は顔をあげた。顔のない澄人が高久を見つめていた。静けさをまとい、おごそかな雰囲気を感じる澄人を前にして高久は居心地の悪さを感じていた。

 白い軍装とはよく、考えたものだと思う。白い軍装は日の中で淡く浮かび上がる。対峙した時に自分の罪が露呈ろていするような、妙な心地になる。

「乙顔さんは、大丈夫でしょうか」

 澄人は乙顔の身を案じた。

 澄人もまた、乙顔の手紙の内容を知っている。乙顔が高久に充てた手紙と同じ内容をそのまま澄人に話していたからだ。このことから澄人は乙顔の人の良さと、口の軽さを案じていた。

「大丈夫だと思いたいものです。長十ながとが捕まっていない以上、こちらに連れて行く訳には行きませんし、善意からとはいえ、違法整形に手を貸した罪があります」

 澄人は俯いた。重ねた手を白くなる程、強く握りしめている。

「もし、手紙の中のことが本当だったら、乙顔さんは……」


 ――色づく世界が、白に成る。白い世界が広がっていく。


 白い世界は〈白幹ノ国しろもとのくに〉の人にとっては故郷の色であり、祝福の色だ。しかし〈白幹ノ国〉の外に出れば白は一転して呪いの色となる。

 白は生と死の色。対なる意味を併せ持つ色だ。

「だからこそ、〈顔無之村〉に行って確かめる必要があります。悩むのはその先にしましょう」

 高久は微笑みを作った。高久の微笑みに安心を覚えた澄人の手の力が少しだけ抜ける。

(乙顔のことだ。おそらく、悲惨なことにはならない。せめてそうあってくれればいい)

 高久には手紙の内容に心当たりがあった。もしそうであるならば軍に報告の義務はない。だが、そうなると澄人の顔の手がかりはまた、振り出しに戻ることになる。


 ――産土神とる人間は、清く正しく美しき者である。


白幹万世記しろもとのばんせいき』のある一節を思い出した高久はその言葉を振り切るように歯を食いしばった。

 民俗学者であり、小説家でもある藤部ふじべ春夫はるおの文献には産土神と成る人間について詳細に記されていない。その詳細は軍人になった者しか知らざれることはない。

 民間人の間ではその末路があまりにも悲惨なものであるが故に検問の末、消されたのではないかと囁かれているが実際は違う。藤部春夫が意図して詳細に書かなかった。書けなかったのだ。

 それは、藤部春夫が――。

 不意に頭まで水の中に落ちたような恐怖が満ちて高久は息を呑んだ。

「……澄人さん」

 恐怖から逃れるように高久は澄人の名を呼んだ。

「はい」

 澄人の返答に安堵を覚える。同時に高久は自分が思っている以上に澄人が産土神と成る可能性を考えていたことに愕然とした。

 言葉が交わせる内は、まだ人間だ。それでも拭えぬ不安を澄人に悟られぬよう、高久は会話の糸口の為の言葉を探していた。

羽坂はざかが……早く帰ってくると良いですね」

 出て来た言葉はあまりにも陳腐ちんぷなものだった。こういう時に気の利いた言葉が出て来ない。澄人は呆気に取られたような表情で高久を見ていたが、微笑んだ。顔がなくとも表情が分かる。その違和をそのままに慣れてしまった自分が嫌になる。

「そうですね。しばらくは村でのんびり過ごされるのでしょうね」

 澄人の声はいつもと変わりなかった。至って穏やかな声は強張りかけていた高久の体の緊張を少しだけ解いていった。

「あれはさぼりですよ」

 答えると先程までの緊張が嘘のようにほどけていくような心地がした。澄人とこうして話をするのは久しぶりのような気さえした。澄人は高久の言葉を聞いて小さく笑った。

「そうですよね。羽坂さんが帰ってきたら、洗濯物がたくさんです」

「あいつに洗わせた方がいいですよ」

「そうします。でも、二人で洗濯物干すの、楽しいのですよ」

 はね出し縁に羽坂と澄人が並ぶ。他愛のない話をしながら洗濯物を干す二人の後ろ姿を思い出して高久は口元を綻ばせた。

「羽坂さんの洗濯物は桜の匂いがするんです」

 不意に言葉が零れ落ちたような声に高久は目を丸くした。

「桜?」

 澄人は頷いて、景色が流れる窓に目を向けた。

「吸っている煙草の匂いなのでしょうね……。洗った後の洗濯物は春の訪れを告げる桜の匂いが風にのって香るのです」

 不思議ですよね――と澄人は高久に顔を向けて微笑んだ。優しい微笑みだった。

「あいつに桜は想像つかないですね」

 どちらかと言えば、安い煙草の臭いの印象が深い。二十で成人を迎えた時、羽坂は煙草を吸い始めた。最初は安い煙草から吸い始めた羽坂は常に煙を纏わせていた。

 いつの頃からか味が気に入ったのだと〈彼岸ノ桜ひがんのさくら〉を吸い始めた。あれは、澄人が幼年学校に入学した頃あたりではなかったか。

 途端、懐かしさがこみ上げて来た。

「……あなたが十二で幼年学校に入学した時、私は驚きました」

「え……」

「通常は十四歳で幼年学校に入学しますから、まだ体も細く、幼いあなたが入学した時、教官の間では話題になったのですよ」

「そうだったのですか……」

「はい。二、三年で士官学校にあがることを思えば、まだ早すぎると思いました。現にあなたが士官学校に上がった年齢は十五でした」

「そうでしたね。その時の教官が高久さんでした」

「私の指導は十五だったあなたには辛かったと思います。十七で指導を受けた私でさえ辛く、きついものでしたから」

 士官学校に入学した候補生はそこで軍人教育の厳しさを目の当たりにする。実戦経験を積むにあたって行われる訓練は痛みを伴うからだ。

 特に高久は〈しろ御楯みたて〉となる為の厳しい訓練を受けた。

 防守ぼうしゅし損ねて殴られた瞬間は今でも忘れられない。衝撃に頭が真っ白になり、驚きと恐怖で思考が混乱する。突然のことに体が硬直し震え、動作が遅れる。あっという間に組み伏せられ、「今、死んだ」と淡々とした声で言われたことも忘れることは出来ない。

 戦争において一瞬の遅れや怯みは死に繋がる。だからこそ、嫌な言い方をするならば、殴られ慣れていなければならない。

 幼年学校時代、澄人の担当教官だった羽坂が士官学校で高久に変わったのはその点にある。幼年学校は体を作る為の基礎訓練だったが、士官学校は実戦に伴う訓練となる。手加減出来るといっても羽坂の体格では澄人に大怪我させかねない為、羽坂よりも小柄な高久に変わったのだ。

 それでも当時の澄人の体格を考えれば、高久も、かなりの体格差だった。

 折れそうな程に細い腕をした澄人を訓練とは言え、武術を叩き込むのは肝が冷えるものだった。加減しすぎても訓練にならず、かと言って力そのままをぶつければ大怪我に繋がる。

「確かに初めての訓練は、こんなに痛いものなのかと驚きました。嫌でも体が震えてまともに動けないことを知りました。初めての戦争で経験していたなら、私は屹度、死んでいたでしょう」

 澄人は昔を懐かしむように言った。

「高久さんはとても厳しく、怖かったですけれど、本当は優しい方だということは皆様、ちゃんと解っていましたよ」

 高久は思いがけない言葉に顔を上げた。

「高久さんは訓練の時、大怪我しないように手加減してくださったでしょう。その後、ちゃんと手当てに回ってくださっていたではありませんか」

 訓練という理由であれ、殴るという行為に正当性が伴うことはない。それでも教官となる人間は彼らに生きる術を叩き込む必要がある。

 傷一つない肌が防守し損ねた時、驚きと恐怖に満ちた眼が自分を見る。高久はそれを表情一つ変えず、見下ろさなければならない。

 高久は彼らを生かす為に無表情で訓練を続ける。それは教官に担われた訓練の一環だった。痛みを伴わずに指導出来るならその方が良いが、軍人である以上、戦争に赴く彼らがどのような目に合うか嫌でも体が知っている。

 候補生の教育を担当するということは、戦場において生きる術を教えることだ。武術と護身術を極め生還率をあげることが教官の役目だった。

 候補生に対して教官は同性間で訓練をする。この訓練はいずれ戦争に赴く候補生に軍人となる覚悟を問うものでもあった。訓練の痛みに耐えられずに軍人を諦め、所属を変える者は多い。

 それは教官である軍人もまた例外ではなく、大抵は辞退していく。訓練とはいえ、人に痛みを与える行為は苦痛が伴う。それを理解した上で彼らを生かす為と割り切れる者でなければ教官は務まらない。

 なかには合法的に人を殴れるからという理由で教官になる者もまれに居るが、そういう者は収監され、教官資格の剥奪と共に軍から追い出される。

 候補生と教官、双方ともに過酷故に高久のように軍曹階級を維持して教官を続けられる者はかなり少ない。

 高久は思わず自分の手を握りしめた。てのひらに、こぶしに。人を殴った生々しい感覚が残る居心地の悪さは一生、続くのだろう。それは十八で教官資格を取った時から覚悟していたことだった。

「それでも痛いことに変わりはありませんけど、そのおかげで私達は前線を怯むことなく駆けることが出来た。あなたに叩き込まれた生きる術は私達を生かしてくださいました。〈日ノ裏ひのうら〉でもお役に立ちました。どうでしたか?」

 長十の部下に捕らわれながらも一瞬の隙をついて男を拘束した澄人を思い出して高久は笑ってしまった。あの時の男の悲鳴と共に上がった乙顔の悲痛な声も覚えている。

「あそこまで動くことが出来たら、上々です」

 澄人は嬉しそうな表情をしているように見えた。

「高久さんと羽坂さんのおかげです。特に士官学校を卒業して〈白天ノ子〉となった時の羽坂さんの訓練もかなり厳しかったものですから」

 澄人は訓練を思い出して苦笑した。

〈白天ノ子〉候補生の訓練は他の候補生と違い、自分の身を守る為の護身術に特化したものとなる。〈白天ノ子〉は他の軍人と比べて狙われやすい為、身を守る為に徹底的に護身術を叩き込まれる。流れるように動けるようになるまで何度も叩きこまれるのである。

 士官学校を卒業してからも当然のように訓練は続く。

 八代やしろ曰く、〈白天ノ子〉専用の護身術は受ける方も辛いがやる方も辛い。〈白天ノ子〉候補生として訓練を受け、後に教官として指導を行った八代だからこそ言える台詞だった。

 例えば両手を縛られた時にどう動くか、腰を掴まれたら、押し倒されたら、軍袴ぐんこを脱がされそうになったら――ありとあらゆる動きを想定して訓練を行う為、同性間で行われるとはいえとも訓練風景は見せられるものではない。

 教官は淡々と感情込めずに訓練を行うが、心身共に疲弊して辞退する者も多い。それでも高久が新人少尉の教官を続けるのは生への執念からだった。

 死亡率の高い〈白天ノ子〉を一人でも多く生かして帰すことが高久の願いだ。例え、候補生から嫌われようと高久は体が動く限り、教官を続けるだろう。

 そんな高久の心情を察するように澄人が口を開いた。正確には声を発したと言う方が表現的には合っているだろう。

「高久さんが徹底的に叩き込んでくださったからこそです」

 澄人が笑む。表情から見えそうな顔は記憶の中で白く霞む。

「私は生きて帰ることを目標に〈白天ノ子〉を続けているのです。私と、私を守ってくださる皆様が全員、生きて帰る為に私は前線を駆ける。それは、あなたが教えてくださったことなのですよ。高久さん」

 顔のない澄人が自分を見つめる。その姿に糺が重なった。


 ――死んで帰ろう。私達の村に。


 糺は死んだ。いくら望んでも糺はあの家に帰ってくることはない。それでも、澄人の言葉は高久を救い上げた。

(死を美徳と思わないでいてくれるなら、この勝手な気持ちも報われる)

 景色がゆっくりと流れ、終わりを告げる。もうすぐ蒸気機関車は〈顔無之村〉の最寄り駅〈顔迎ノ駅かんばせむかえのえき〉に停まる。

 ゆっくりと速度を落として流れる景色を見つめながら澄人が声をあげて笑った。

「羽坂さんの訓練、えげつないですよ。あの人、本気で組み伏せようとしてきますから。そのおかげで動くことが出来ていますけれども」

 羽坂が澄人を本気で組み伏せる光景が容易に想像出来てしまって高久は笑い声をあげた。

「あいつはそういう奴ですよ」

「そうですねえ」

 互いに顔を見合わせて笑う。この瞬間に澄人の顔がないことなど、忘れたかのようだった。

「高久さん、羽坂さんが帰ってきたら、ご飯、食べに行きましょう」

「勿論です」

 高久が頷くと澄人は嬉しそうな表情を浮かべた。

 あれから八年。八年が経ったのだ。細く小さかった澄人は大きくなった。〈日ノ裏〉で自分を軽々と担ぎ上げた澄人に成長を感じ、感慨深く思う。

 八代には爺臭いと笑われるが、自分が見て来た候補生は年が近くともやはり、小さな子供に思えてしまう。だからこそ巣立った後の成長を目の当たりにすると自分のことのように嬉しく思えるのだ。

「楽しみですね」

 澄人が嬉しそうな声で言う。

「ええ。楽しみです」

 口にした途端、妙な違和を目の前に突きつけられたような感覚に眩暈を覚えた。耳の奥で駄目だ、と言う自分の声がする。

(澄人は……産土神には成らない。それだけは絶対にあり得ない)

 生きる覚悟を決めた人間は強い。なのに、不安が拭えない。この違和はなんだ。

 白い軍装が射す日で眩しく見える。淡く浮かび、幻にも見える神々しさの中で澄人の声だけを聴いていた。

 次の駅が近いことを、通路を歩く車掌の声が告げる。その声を遠くに感じながら高久は澄人が楽しそうに話すのを聞いていた。言葉が通じ、こうして話せる。

 それでも眼前に突きつけられた確かな違和は消えてゆかなかった。

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