三〈白天ノ子〉
〈殿ノ前〉は複雑な造りをしている。いくつものと階段と廊下を経由してそれぞれの執務室のある階に辿り着く。非効率だと言われればそうだが、暗殺防止の側面もあったらしい。
その為、教育総監部教育課の少将である八代が常に控えているのは〈教育総監棟〉の執務室だ。
八代が〈殿ノ前〉を使うのは今回のように聞かれたくない話をする時と、幼年学校と士官学校の試験がある
〈殿ノ前〉は〈
部屋の出入りがそのひとつだ。〈殿ノ前〉では扉を叩いて入室の是非を問うことは出来ない。その為、部屋の施錠で入室の是非を確認することになる。
ようやく執務室の前に辿り着いた
扉を開けてすぐに目に入る軍装に高久は思わず、息を呑んでいた。
こういう時、〈
〈
〈白天ノ子〉だけに許された白一色の軍装を
鴉の濡れ羽のような黒い髪が真白な室内に映える。ゆるやかに頬にかかる癖のある髪は白い肌を更に際立たせた。そして――〈のっぺらぼう〉のように何もない顔がそこにあった。
口を開こうとした唇が震えているのが高久は自分でも分かった。
佇まいからも一目で
目、口がない。鼻は輪郭だけがはっきりとしているが、鼻の孔がない。〈のっぺらぼう〉というよりは、顔がないと言った方がいいだろう。
澄人を前にしても高久は顔を思い描くことが出来なかった。記憶に靄がかかったように思い出すことが出来ない。
「澄人……」
その人の名を呼んだ途端、妙な違和が満ちる。しかし違和はすぐに消え去った。
「高久さん」
顔がない筈の澄人が高久の名を呼んで、ふんわりと微笑んだからだ。顔がないのに、どうして微笑んだことが分かるのか理解することが出来なかった。
「見ての通りだ」
高久の様子を察しただろう八代が険しい表情をしている。対して澄人は驚き慌てる様子もなくいつも通りのように見えた。
「……何故」
思わず戸惑いの声を漏らした高久とは対照的に澄人の声は落ち着いたものだった。
「私も驚きました。いつの間にか顔がなくなってしまいまして、自分でも驚いております」
言いながら澄人は自分の顔に触れた。落ち着き払った声に高久の方が却って戸惑ってしまう。いつまでも立ち上がったままの二人に八代は座るように促した。
〈殿ノ前〉の白さに合わせて執務室の中の調度品は白で統一されている。
革張りの淡い白のソファーは一人掛けが四脚。二脚を並べて向かい合わせになるように配置されていた。ソファーを囲む真ん中には低い洋卓がある。
その上には八代に預けた〈三色旗〉のチーズケーキが入った紙袋が置かれていた。
高久は八代の隣に並んだソファーに浅く腰掛けた。澄人は八代の向かいのソファーに浅く腰掛け、背を伸ばして足を揃えて座った。対する八代はソファーに深く腰掛けて足を組んでいる。平静を務める表情は焦りの色が隠しきれていなかった。
「……見ての通りだ。高久。お前はどう思う?」
「どう答えていいものか迷います」
「高久。ここでは同期としての口調で良い。お前に敬語を使われると、落ち着かない」
八代と高久、
そんな八代は高久と羽坂、そして亡くなった
階級が上がろうとも、友人であることに変わりはない――八代が少将になった時にも言われた言葉だ。
それでも澄人の前では上官に対する口調を心掛けていたのに、八代に言われては、と高久は口調を戻すことにした。だが、羽坂と話す時は澄人の前でも互いに同期としての口調なので今更であることに高久は気付いた。
「……分かった。しかし、顔がないとは聞いていたが、見事に〈のっぺらぼう〉だ。澄人さん。心当たりはありますか?」
澄人は首を横に振った。
「いえ。最近は資料等を整理していることが多いものですから、心当たりがないのです」
澄人は困惑した様子――に見えた。顔がないということは表情がないのだから、そう見えたというだけだ。それなのに表情が分かるような違和がある。
「高久。先程、私も澄人少尉に話を聞いたが、澄人少尉と接触した〈のっぺらぼう〉や不審な人物はいなかったそうだ。澄人少尉は今、参謀本部の総務課に一時的に所属を移している。そこで遠征や〈のっぺらぼう〉に関わる軍務がないことは確認済だ。軍籍している〈のっぺらぼう〉の一族には今、話を聞いている最中だが、現時点では関わりがないことを確認している」
八代の説明を受けた高久は頷いた。
「そこで高久。貴様は補佐役として澄人少尉と共に行動することになっただろう。この件で教育総監部はこれより参謀本部と連携して澄人少尉の顔について調べることになった」
八代の言葉に高久は一瞬、固まった。八代がお前ではなく貴様を使う時は怒っている時だ。八代は怒っている時、察しろと迫ることはない。澄人が居るから何も言えないのだと察した高久は後が怖いな、と返答した。
「承知した」
「早速だが、高久。貴様にはやってもらいたいことがある。澄人少尉と共に
八代の予期せぬ命令に高久は戸惑いを隠せなかった。
「ちょっと、待って、くれ」
珍しく動揺した声を出す高久を前に八代は淡々と続けた。
「何を動揺することがある」
「……〈日ノ裏〉に澄人さんを連れて行くのは危険だ」
高久がそう言ったのには理由がある。〈日ノ裏〉はかつて人身売買が横行していた地区だ。今や治安が整ったとは言え、名残は色濃く残っている。
「お前は新人少尉をいつまでも子供扱いするきらいがある。澄人ももう二十一だ。神の手からは完全に離れたろうに」
神の手から完全に離れた――というのはこの国独自の言い回しだ。七つまでは神様の子、十四は神様の手が完全に離れておらず、二十一にしてようやく成人を迎えたという意味合いで使われる。七つの年を三回廻って、ようやく神様は手を離すのだ。
「だが、〈白天ノ子〉はあまり行かせたくない場所だ。八代。お前だって分かっている筈だろう」
柔らかい椅子の上でも背を伸ばし、足を揃えて座る澄人を見て、高久は言った。
澄人は誰もが認めざるを得ない程、清廉潔白という言葉そのままの人だからだ。全ての〈白天ノ子〉と候補に対して言えることだが、出来れば〈日ノ裏〉に近付かせたくないというのが高久の本音だった。
〈白天ノ子〉は旗を手に前線を駆ける誉れ高いお役目だ。
容姿端麗、頭脳明晰、何よりも軍隊の模範となるものでなければ選ばれることのないお役目である。だが、単純に容姿端麗であればいい訳ではない。容姿以上に人望である。
それは〈白天ノ子〉の役割にある。旗を手に前線を駆けるということは常に旗を手にするということだ。当然ながら両手は旗を持つ為にある。戦争の、それも前線を駆けるということはそれだけ我が身を危険にさらすということである。その為、〈白天ノ子〉は常に周囲に守られる。守りたいと思える〈白天ノ子〉でなければそれだけ死亡率は更に跳ね上がる。人望がなければ成り立たないお役目だ。
それ故に〈白天ノ子〉は人身売買の対象として狙われやすい。
何故なら、神の器として需要があるからだ。
「高久さん。私は問題ありません」
澄人に言われて高久は困惑したまま俯いた。
高久がここまで
それは八代も理解しているようで高久を前に苦笑している。
「澄人少尉。高久はあなたが大切なのですよ」
「そう思って頂けることは嬉しいことです」
微笑んだように見える澄人の顔は今も尚、〈のっぺらぼう〉のままだった。
「高久。貴様の気持ちは分からないでもないが、澄人少尉が〈日ノ裏〉に入っても問題はない。それは貴様が分かっている筈だ。私が〈白天ノ子〉だった時、貴様も同行しただろう」
「それは……そうだが……」
八代はかつて聯隊旗手として戦場を駆けた〈白天ノ子〉だ。十七で〈白天ノ子〉となり、二十五で〈縁ノ結〉をするまで〈白天ノ子〉としての軍務を全うした。
八代は見た目に合わぬ剛腕であった為、旗を片手に持ち、軍刀を手に戦場を駆けるという離れ業を披露した。旗を手にしたことのあるものなら分かるが、片手で持ちながら軍刀を振るうのは至難の業だ。高久は羽坂と共に一度、八代の旗を手にしたことがあるので分かるが、旗は装飾も含まれるために思っている以上に重い。両手で掲げながら戦場を駆け抜けるだけでも離れ業に近いと言うのに、八代は片手でやってのけたのだから如何に剛腕であるか伺える。当人曰く、コツがある――というが、このコツをつかんだとしても実践するのは難しい。
しかし、八代は〈白天ノ子〉としてはある意味、異色である。
〈白天ノ子〉は軍刀を持つことはない。武器を持たないことで相手の戦力を削ぐ役割を持つが、八代は違った。
守りたいと思われる〈白天ノ子〉ではなく、自らが聯隊を守り率いる〈白天ノ子〉。これは片手で旗を持ち、軍刀を手に出来る八代だからこそ出来ることである。
凛々しく涼やかな見目もさることながら、説得力のある発言で人を率いて来た。時に少佐をも凌ぐ戦争作戦で多くの兵を帰還させてきた手腕がある。
それ以上に異色とされる所以は従来の〈白天ノ子〉らしからぬ言動にある。清廉潔白と称するよりも勇猛無比だ。八代が〈白天ノ子〉となる前と後では〈白天ノ子〉の選考基準は大きく変わったと言われている。
だからこそ、八代と澄人ではまた〈白天ノ子〉としての意味合いが違う。言い澱んだ高久はまず、〈日ノ裏〉に行く理由を問うことにした。
「しかし、何故、〈日ノ裏〉に……」
「貴様が一番分かっているだろう」
八代に言われて高久は歯を食いしばった。八代の言い方は明らかに自分と羽坂が隠れてやっていることが露呈した時だからだ。
「先程、ここに境入中将が来られてね。全て貴様に任せるとのことだ。それともここで幸間のことを聞くか?」
高久は観念したように目を閉じて息を吐いた。
「但し、期限は明日までだ。この件に関して私はこれ以上、何も言わない。当初の予定通り、澄人少尉と共に動け」
高久は境入が猶予を与えてくれたことに気付いた。明日までは参謀本部が関与することはない。つまり、少なくとも今日中には幸間と話をつけなければならないということだ。
「……承知した」
「ああ、そうだ。貴様に聞きたいことがもうひとつだけある。羽坂はどうした。羽坂に澄人の顔を覚えているか確認したいが、参謀本部にはいなかった」
「羽坂は軍務の最中だ」
「そうか。それならば羽坂から連絡が来たら確認しろ。あいつは真っ先に貴様に連絡をいれるだろうからな」
境入と同じことを言った八代に高久は内心、苦笑した。境入と八代は根本的なところが似通っている。物事を冷静に見つめ、判断し、最適な答えを選び取る。少ない情報から過去の経験を踏まえて導き出した答えを得た八代に高久は尊敬の念を覚えた。
その時、高久は
――ここに来るまでに澄人さんの絵を書いておりました。
高久は顔をしかめた。顔をあげて澄人を見た高久は、見えない筈の澄んだ目を見たような心持ちになって息を呑んだ。
顔のない澄人は自分をまっすぐに見つめている。そこに確かに目があるような気がして高久は背中が粟立った。澄人は人をまっすぐに見る癖がある。光を帯びたような輝きを持つ澄人の目に見つめられるのを心地悪いと思う人間は少なくない。自分の悪事が露呈するような心持ちになるからだという。
顔がなくなっても、目がなくても、心の奥底までも、汚いものすら目を背けずに見るだろう目が高久を見つめている。それはまるで、鏡を通して自分を見ているような感覚だった。
顔が見えていた時には感じなかった居心地の悪さを無視して高久は澄人に問いかけた。
「澄人さん。先ほど羽坂と会って話をしたのですが、羽坂と村に行っていたのですか?」
あの時の令人の会話から推測しても、少なくともその時点で顔は確かにあったということだ。だが、澄人は現在、護衛から外れている。羽坂にははぐらかされたが、村に行ったということが気になっていた。
だが、澄人から答えは返ってこなかった。
「澄人さん……?」
顔のない澄人は静かに座っている。顔がないのに困っている表情をしているのが分かる。しばらくしてから、澄人はようやく口を開いた。いや、声を発したという方が表現的には正しい。
「軍務です。これ以上は……」
澄人の現在の所属は参謀本部の総務課だ。教育総監部である高久と、少将である八代にも軍務の内容を口外することはご法度だ。
「分かりました。出過ぎたことを聞いてしまい、申し訳ございません」
「いえ」
顔がなくとも、澄人が申し訳なさそうな表情を浮かべているのが分かった。
「高久」
八代が立ち上がり、隣の部屋に入るように目で促した。
「澄人さん。ここでお待ちください」
「はい」
立ち上がった高久を澄人が見上げる。いつの間にか顔がないことに慣れつつある自分に恐怖を感じながら高久は八代の後に続いて隣の部屋に入った。
**
隣接する部屋は資料兼もの置き場になっている。整然と並んだ本棚が縦にずらりと並ぶ様は圧巻だった。
扉が閉まると同時に八代は腕を組み、壁に背をつけた。
「八代……?」
八代は目を閉じて息を吸って、吐いた。目を開けて、高久を見る。
「先程、境入中将が私の下に訪れて、今回の件は貴様に任せると私に言ってきた。……貴様、私に言うことはあるか?」
八代が自分を睨んだ理由が分かって高久は言葉を呑んだ。言い訳をしても駄目だろう。
「……〈のっぺらぼう〉の一族、
高久の返答に八代は体を起こして高久の背にある壁に手をつくと、顔を近づけて詰め寄った。
「貴様らの尻拭いを誰がしていると思っている。いつまでもその汚くなった尻を拭いてもらえると思うなよ」
〈白天ノ子〉だった人間とは思えぬ言葉に高久は思わず目を閉じた。いや、これは自分が悪い。澄人に聞かせなくない台詞だったが、八代も同様だったのだろう。だから隣の部屋に高久を連れて来たのだ。
うっ憤を晴らすように吐き出した台詞に幾分か気が晴れたのか、八代はため息をついて高久から離れた。
「貴様らは上を通さずに何をやっているんだ」
「……悪い」
目を開けた高久は謝罪の言葉を口にした。今回の件は八代に多大な迷惑をかけたことになる。
「今回は澄人少尉の顔のこともあるから見逃されたのだろうが、次はないと思え。私の命令からも察しただろうが、境入中将をあまり舐めるなよ。あの人は十代から情報将校として手腕を振るってきた軍人だ」
「……ああ。先程、釘を刺されたばかりだ」
――私の目を盗んでかき回るなよ。
羽坂の言伝と同時に自分への警告。境入の情報収集能力は侮れない。境入が本気を出せば、高久と羽坂が調べていることは、すぐに
現に境入は
それでも境入はむやみに暴くことをしない。情報の使い所をよく分かっているからだ。
「全く……境入中将が私の所に来た時は肝が冷えた。貴様らが私を巻き込まない為に動いているのは分かっているが、それでも情報は共有しろ。咄嗟の言い訳を考える身にもなれ」
「……反省している」
八代は疲れたと言わんばかりに壁に背中を預けた。
「お前らが私欲で動いている訳ではないのは分かっている。だが、私の階級で全てを誤魔化し切れると思わないで欲しい。境入中将は特に頭の切れる人だ。あの人の情報網に叶う人はいないだろう。……いや、羽坂くらいか」
八代は言いながら、苦笑した。
羽坂は人から情報を得るのが異常な程に上手い。話術で自然に情報を引き出すので参謀本部の諜報課が羽坂と会話をしたくないとぼやいた程だ。そのせいなのか羽坂は教育総監部の教育課から参謀本部の諜報課に異動になり、軍曹から特務曹長になった。
当の本人は教育課の教官として軍務を続けたかったそうだが、境入との間で何か機密を交わしたのだろう。やむを得ず昇進を受けたらしい。その理由を羽坂は明かしていない。
だが、高久はその理由の中に
一度、高久は昇進を受け入れ、羽坂の昇進を取り消させるつもりでいた。だが、羽坂が首を横に振ったのだ。桐ケ谷と令人の件は全く関係ない。桐ケ谷と令人の護衛は交換条件の成り行きだと。
羽坂はそれ以上の説明は〈秘匿之堂〉の掟に触れるからと何も言わなかった。
高久は今でもそのことを後悔している。それでも、羽坂は高久にお前はまだ、軍曹でいろと頼んだのだ。
「……なあ。高久。お前、羽坂と何をこそこそしている?」
八代に問われて高久は顔を曇らせた。八代はそれ以上、詰め寄ることはしなかった。軍人である以上、嫌でも互いに話せないことは出てくるものと理解しているからだ。
それは友人であろうとも――互いに線引きをしているからこそ、今もこうして話せるのだ。
「何も言えないなら、それでいい。その上で、お前に話をしておきたいことがある」
八代は声を落とした。
「……澄人少尉と
会わせるな――という八代の語気の強い口調を高久は訝しんだ。
「……それは」
「澄人少尉の頼みじゃない。私からの頼みだ。命令と受け取っていい」
はっきりと言いきった八代に高久は頷いた。
「分かった。私も出来れば、会わせたくないと思っていた。……しかし、何があった?」
八代は高久に伝えるのを悩んでいる様子だった。
「……羽坂に言わないと約束出来るか?」
高久は言い澱んだ。絶対に約束出来る確証がなかったからだ。なにも、高久と羽坂が互いに何の秘密も持たずに語り合う関係だからではない。澄人に関することはどのような些細なことであれ、羽坂に伝えること。それが羽坂との間で交わした約束だったからだ。八代はそれを見抜いたのだろう。面倒だと言わんばかりに舌打ちをした。
「なら、少将命令だ。羽坂には言うなよ。それとも、私個人からの約束では駄目か?」
いつもならそれは聞けないと言っただろう。しかし、八代の気迫に押されて高久は同意した。
それでも八代は一瞬の躊躇いを見せてから口を開いた。
「……専一郎が澄人を殺そうとしている噂がある」
噂――しかし、それは噂と思えぬ程、輪郭がはっきりしていた。
「お前が言うなら、噂ではなく、確かな情報があるということか」
八代はため息をついた。
「ああ。言っておくが、情報源は教えられない。……だが、羽坂には言わないで欲しい。あいつのことだ。軍に居られなくなっても専一郎を殺すだろう」
殺す、の言葉に違和感が満ちる。いや、殺しはしないだろう。なのに、殺しかねないと思っている自分がどこかにいる。何も言わず呆然としている高久を前に八代は言葉を探すように言った。
「羽坂はあれでも冷静な男だ。だから参謀本部の諜報課に引き抜かれた。……だが、今回の件、お前には伝えても、羽坂にはどうしても伝えてはならないと警報を出している自分がいる」
何故なのか分からないが――と八代は言葉を選びながら続けた。
「……羽坂と澄人は互いを大事にしている。あれはそうだな。兄と弟……いや、違うな。どう表現していいか分からないが、互いを大事に思っていることだけは確かだ。お前は澄人を大事に思っていても、それは教官として教え子を大事に思う気持ちからだろう。だが、羽坂はそうではない。あいつは澄人に情を抱きすぎた」
八代の観察眼に高久は思わず、目を逸らしていた。そんな高久に八代は笑みを浮かべた。
「お前らと何年一緒に居ると思っている」
言ってから八代は欠伸をした。よく見ると目の下に隈がある。眠れていないのだろう。
「悪いな。子供が最近、寝てくれないんだ。夫は日中、子育てで忙しい。せめて夜だけは見てやりたいんだ」
「そうか。いい母をしているんだな」
言ってから八代が女性であることに気付く。そもそも、八代を女性として見たことはない。ただ一人の人間として友人であり続けた。
男と女の友情は成立しない――そういう目を向けられたことは何度もある。だけど、その度に羽坂と八代と笑い飛ばして来た。
――理解出来ない奴の為につくす言葉はない。
それが高久と八代と羽坂の口癖だった。だからといって、男同士のような友情とはまた、違う。八代は男と違われる見目であっても、あくまで自分が女性であることは認識していたので同室で寝泊まりすることはなかった。相手にも気を遣わせることのないように身だしなみは徹底していた。
高久と羽坂もまた、八代と同様に線引きをしていたので三十を超えた今でも友人であり続けられるのだ。
「いや、全然」
いい母――と言われた八代は目を丸くしてから笑い飛ばし、手を振って否定した。
「そんなことを言ってみろ。世の中の子育ての最中にいる人間に怒られる。私がやっているのはぜいぜい、寝かしつけくらいで何の役にも立っていない。この間なんて子どもに大泣きされた。父様じゃないと嫌だってな。ここの所、ずっと軍務にかかりきりでろくに顔も見せていないからだろう。……そろそろ夫にも愛想をつかされるかもな」
言いながらも八代は幸せそうな表情を浮かべていた。
「夫はよくやってくれている。子を二人、育てているんだ。私はまったく頭が上がらないよ」
八代は二十五で〈白天ノ子〉を辞任すると同時に〈
八代も自覚しているが、八代は体格と筋力に恵まれた。女性と言われなければ分からぬ見目と体格、そして低い声は八代家の血筋によるものだろう。人によっては女性のような体ではないことを気に病むだろうが八代はむしろ、自分の男に間違われる見目と体格を喜ばしく思っていた。だからといって男性役をやっている訳ではない。八代はどちらの性別であれ、間違いなく今に至る道を歩むだろう。
「……話が逸れてしまったが、専一郎の件、羽坂には絶対に言うなよ。時が来たら、私から言う」
八代の深刻な表情に押されるようにして高久は頷いた。
その時、高久は羽坂の昏い目を思い出してしまった。今の羽坂なら専一郎を手にかけるかもしれないと思っている自分がいる。
「それから、お前と羽坂が少将になった私を巻き込まない為に最低限の報告しかしていないことは分かっている。……だが、不味いと思ったらすぐに報告しろ。その為に私は階級を上げることを選んだのだから」
初めて聞いた八代の本心に高久は思わず、目を開いていた。
「ふ。お前の珍しい表情を久々に見た」
八代はご満悦と言わんばかりに微笑んだ。
〈白天ノ子〉に選ばれた人間とあって美しい笑みだった。女性的な微笑みの美しさではない。男性的な美しさだった。
「恩着せがましいと思われるのが嫌だから言わないでおこうと思ったが、言わなければ私に頼らないだろうから、言うことにした。そうでなくとも先程の件がある」
境入中将の言葉を思い出して高久は思わず眉間に皺を寄せた。苛つきの為ではない。耳の痛い言葉だったからだ。対して八代は苦笑いを浮かべている。
「全く。お前らがいつまでも階級をあげない理由を私が知らない訳がないだろう。最も、羽坂は階級を上げざるを得なかったようだが……お前もいつまでも軍曹階級のままではいられないことを覚悟した方がいい。そもそもお前は階級に見合わぬからと特例で少佐相当の権限を与えられているんだ。それだけ上はお前の力を欲しがっている。私もいつまでも止められない」
高久が軍曹に固執する理由を八代は知っている。階級が上がれば上がるほど、高久の願いからは遠のくことを八代は知っている。だからこそ、八代は裏から手を回して高久の階級があがらないよう計らっていたのだ。
高久は友の計らいにただただ、感謝するしかなかった。そして、いつまでも甘えていられないことを痛感させられた。
「ありがとう」
微笑んでお礼を言った高久の肩を八代は叩いた。
「言っておくが、やり過ぎるなよ。境入中将に睨まれたらいくら私でも庇えない」
「気を付ける」
「……最後に」
八代は壁から背を離し、姿勢を正した。
「まずは、澄人少尉のことで〈白天ノ子〉教育課の少将としてお礼を言わせてもらいたい」
人のない部屋とは言え、軍曹である高久に頭を深々と下げた八代に高久は困惑した。
「八代、頭を……」
「高久」
八代は頭を上げた。八代の朱色の目が自分を射抜くように見つめている。
「〈
八代は自分の下腹に手を当てた。
「三年前……」
八代は言葉を切った。その目は戸惑いに満ちている。
「八代?」
高久が声をかけると、八代は即座に首を振った。
「……三年前、お腹の中に、子が居たからだ」
八代は目を伏せた。
「そのことをずっと、誰にも言えなかった。夫にも……言えない。悔いているということは命を宿したことが間違いだった。そう受け取られても仕方がないだろうことを言っているからだ。だが、私は子どもを授かったことを後悔していない。心の底から嬉しかった。だからこそ、あの場所に、居られなかったことを今も悔いている」
八代は下腹に当てた手を握りしめた。その手は怒りで震えている。
「自惚れと言われても何でもいい。少なくとも、私が指揮官ならば、あんな事態を引き起こすことはなかった。澄人少尉も傷つかずに済んだ」
「八代……」
「高久。同じ〈白天ノ子〉だった者として、お前にお礼を言いたい。お前が〈軍葬ノ列〉をかき分けて、彼らの生還を喜んでくれた。あの行動に救われた者たちは多い。お前が居たからこそ、〈
八代の言葉に高久はあの日を思い出した。
人波を、かき分ける。
軍靴を鳴らし、走る。
軍歌は、残酷だ。勇ましい歌でありながら、彼らの無事を祈りはしない。あの歌は毒だ。死への恐怖を麻痺させて戦場に送る哀しい歌でもある。戦場に立てば戦意高揚の歌は現実を突き付ける刃となる。
自分を送ったあの歌を生きて帰った彼らはどんな思いで聞いていたのだろう。
涙しながら自分の感情に酔い痴れる人々を前に何を思ったのだろう。
生還した自分達を見て青ざめる群衆を前に何を感じただろう。
手を伸ばして自分に縋った彼らを高久は抱き締めると、心から叫んでいた。
――よくぞ、生きて帰ってくれた!
「お前は意図していなかっただろうが、私もお前の言葉に救われた一人だったんだよ」
八代が微笑みながら言ったことに、高久は目を丸くした。
澄人の心からの安寧を祈るように八代はもう一度、高久に頭を下げた。
「澄人少尉を……よろしく頼む」
それは部下の無事を心から願う上司の言葉だった。
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