逢坂に与えられた猶予は三日間――。

 悩んでる間にも刻一刻と時間は経過していき、あっという間に二日目の夜を迎えた。


 自分にできる限りの金策に奔走したが金額は微々たるもの。トタン屋根を驟雨しゅうが叩きつけていた。

 一人きりの部屋で頭を抱えていると、最悪な未来ばかりが脳裏をよぎる。ふと視線を上げると、白地のキャンバスに死化粧を施した美智子の顔が写っているように見えて恐怖を覚えた。


 その時、扉を叩く音が聞こえ、時計に目を向けると時刻は既に十時を回っていた。


 こんな時間に誰だ? ドアノブを回すと眼の前に立っていたのは、すっかり風貌が変わっていた友人の姿だった。


「よお、久しぶりだな」

「張じゃないかッ! いったいどこで何してたんだよ!」


 上等なストライプ柄のスーツを着ていたものの、本人の顔は酷くやつれて骨ばっていた。額には尋常ではない汗をかき、ポマードで後ろに撫でつけた髪はところどころほつれて、むしろ清潔さとは程遠い印象を見るものに与える。


 突如クラクションが闇夜を切り裂き、張の背後に目を向けると不審なアメ車が停車していた。運転席から感情を窺わせない瞳でこちらをじっと見ていた男が、張を催促するようにもう一度クラクションを鳴らす。


 とりあえず中に入れようと勧めるも、ここでいいと頑なに足を踏み入れようとはせず、玄関に立ったまま部屋の中を見渡していた。


「そうか。お前にはやりたいことが見つかったんだな」

「なに感傷に浸ってるんだ。お前には言いたいことがたくさんある。どうしてヒロポンなんて世に広めたんだッ」


 感情任せに襟を掴むと、されるがままに弱々しく答えた。かつての筋肉は嘘のようになくなり、揺さぶる体は空気が抜けたように軽かった。


「それしか、生きる道がなかったからだ。一時期は真っ当に生きようとしたこともある。だが俺が残留孤児だったことと中国人との合の子であることが発覚すると、どいつもこいつもすぐに目の色を変えて追い出しやがる。そんな事を何度も繰り返していくうちに、気づけば肩までどっぷり裏稼業に浸かっていたのさ。しまいには俺も〝コレ〟だ」


 そう言って袖を捲ると、かつては一回り以上も太かった腕は肉が全て削げ落ちたようにか細く、目を疑うほどの注射痕がびっしりと残っていた。


「どうしてこんなになるまで……。俺を頼ってくれても良かったじゃないか」

「そんなこと出来るか。俺と違って、太陽の下でまともな生活を送ってるお前に頼ることはしたくなかった」

「なら、今すぐにでも自首して薬を抜かないと! このままじゃ廃人になっちまうぞッ」


 張はそれでも首を縦に振ろうとしない。今更刑務所に入っても、自分を狙っている人間に殺されるだけだと覇気のない声でつぶやいた。


 かつて張は、地元のヤクザを無視してヒロポンで荒稼ぎした結果、命を狙われる事態に陥った。それはちょうど貞春の眼の前に現れた次期と重なる。

 殺される一歩手前まで私刑リンチを食らった張は、すきを見て命からがら大阪まで逃げると、今度はかつて接触したことがある鞍馬組を頼って身を隠した。

 盃を交わして一からのし上がろうと決意し、上の命令で対立組織の組幹部を殺害してこいと大阪を飛び出して、鉄砲玉として再び東京に戻ってきたという。


「後ろの車に乗ってるのは俺の兄貴分だ。まあ、俺が逃げ出さない為の監視役ってところだな」

「そんな……。ふざけるなよッ! お前のことは親友だと思っていたし、どこで何をしてるのか心配していたってのに、どうしてこんなことになるまで引き返すことが出来なかったんだ!」


 そんな危険な役目を背負わされては、無事に帰ってこれる保証などどこにもない。

 しかし張は、貞春が涙して語る言葉にも動じず、裏社会にしか自分の生きる場所はないと覚悟を決めている様子だった。


「さて、本当は久しぶりの再会を祝いたいところだが、そうそう長居する時間もないからさっさと本題に入るぞ。お前、逢坂雅史という男を知っているよな」

「なんで、張がその名前を知ってるんだ」


 突然飛び出てきた名前に驚いていると、逢坂がどんな人間なのか語りだした。


「奴は賭け事にてんで弱いくせに、日本各地の賭場で派手に散財するもんだから裏の人間にカモとして広く知られてるんだよ。そんで大阪の賭博にきたときに、ウチの組員に小声で話してたらしい。『もうじき姪を売っぱらって大金が手に入る予定だ』とな」

「逢坂がそんな事を言ってたのか!?」


 だから福島からわざわざ美智子を探しに来たのか――。表向きお見合いという形を取ってはいるが、その実態は金欲しさのための人身売買と知り怒りに震えた。


「どうだ。金も権力もない奴はよ、今の日本じゃ何もできやしねえ。誰も救えねえ。誰も幸せにすることすら出来ねえんだよ」


 そう言うと、懐から茶封筒を取り出して貞春の胸に押し当てた。無理やり手渡された封筒の中身を確認すると、出てきたのは逢坂雅史の名義で借りた借金の借用書だった。


「これは?」

「やつがウチの系列の賭場でこさえた借金の借用書だ。膨れに膨れて実家の土地を処分しても間に合わないだろうな」


 この、たった一枚の借用書が存在する限り、どこへ逃げようが逢坂は組から追われる運命であることに変わりはないらしい。


「別に逢坂ってヤローがどうなろうと関係ない。ただ、ヤツの姪と貞春が親しい関係であることを知ってな、組長オヤジに何度も頭を下げてなんとか妥協案を引っ張りだした」

「妥協案? おいまさか、それって……」

「逢坂に言ってやれ。見合いを破棄すると約束するなら、抱えている借金はチャラにしてやってもいいとな。恐らく喜んで受け入れるはずだぜ」

「待ってくれ! もしかして、その妥協案というのは、自分が鉄砲玉になるって約束のことじゃないか!? なんでそこまでするんだよッ」


 貞春の追求に答えることはなく、踵を返して玄関の外に広がる闇夜に目を向けた。


「俺たちはもう二度と交わっちゃならねえ。だけど最後に、お前に会って起きたかった。俺に出来るのはここまでだ。あとはどうするか、好きなように決めるんだな」  


 一歩二歩、停車してある車に近づくと、立ち止まった。


「あの日の蜜柑。美味しかったぞ」


 その言葉を残して車に乗り込むと、テールランプを残して去っていった、

 その後、張が再び貞春のもとに現れることは二度となかった。

 あの夜に鉄砲玉となって死んだのか、それとも生還して組の幹部まで上り詰めたのか、はたまた日本に別れを告げて中国に帰ったのか――。今となっては真相を知ることはできない。


        ✽✽✽


 昨晩から降り続けていた氷雨は、朝を迎えても止むことはなかった。

 自分が下した判断に、これで良かったのかと何度も自問自答を繰り返す。


 あれほど創作意欲に燃えた油絵も今となっては絵筆を取る理由も分からないほど、描く気力が削がれていた。

 キャンバスの前でぼうっと丸椅子に腰掛けていると、美智子さんと過ごした日々が蘇って目頭が熱くなる。いつの間にか嗚咽を漏らして泣いている自分がいた。


 荒々しい音でノックもなしに玄関の扉が開かれると、伊藤夫妻が揃って現れた。

 全身ずぶ濡れになりながら部屋に上がりこんできて、鬼のような形相で距離を詰めてきた伊藤さんに貞春は初めて硬い拳で殴られた。

 制作途中で筆が止まっていた大作にぶつかりながら、派手な音とともに床に倒れる。


「貞春! お前、あの逢坂って男に何を言ったんだ! 美智子ちゃんの退院を勝手に決めて実家に連れて帰るつもりだぞッ」

「貞春。何があったのか私達に話しなさい」


 二人の声も、今はろくに貞春の耳に届かなかった。丸椅子に体重をかけて起き上がる。おぼつかない足取りで押入れに向かって襖を開ける。中には美智子さんにプレゼントするために秘密にしていた白いワンピースが、購入したままの状態で二度とこない役目を待っていた。


「これで、良かったんです」


 自分がなんのために絵を描きたいのかがわからなくなった貞春は、最後にけじめをつけるためにイーゼルに新しいキャンバスを立てかけ、その前に腰を下ろした。


「悪いですが……もう一人にしてください」


 そう答えるのが精一杯だった。

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