六
「どうしたの? 難しい顔して」
「え……いや、なんでもない」
逢坂に会った翌日。仕事が休みだった美智子さんと共に自宅にいた貞春は、制作途中のキャンバスに向かうも脳裏に残る言葉の数々が邪魔をして、何度も手が止まってしまった。
異変に気がついた美智子さんに何があったのか尋ねられ、筆を置いた貞春は迷ったが正直に昨日の出来事を伝えた。
「あのさ、実は昨日美智子さんの叔父さんを名乗る男性と遭ったんだ」
「え……雅史叔父さんが? 何でここが分かったの!? ゴホッゴホッ」
大声を上げて驚いた拍子に、激しく咳き込んだ美智子の背中を擦った。
近頃風邪が長引いてるのか、風邪薬を飲んでもなかなか咳が収まらず心配をしていた。
「落ち着いて聞いて。美智子さんが話していた不審者のことなんだけど、どうやら叔父さんのことらしい。福島から迎えに来たって話してたよ」
「もしかして、私のこと、詳しく聞いたりした?」
「……うん。勝手に聞いたりしてごめん」
「ううん。ずっと黙っていた私が悪いの。隠し事なんて、いつかバレる時が来てしまうのに」
美智子さんは自分の言葉で、上野に辿り着くまでの話を初めて語った。
逢坂家の実家では自分の意思は完全に無視され、モノのように扱われる日々に限界を感じていた。そんなある日、見ず知らずの――逢坂家にとって都合のいい――二回りも年上の男性とお見合いをすることが決まった。
相手は美智子さんの若さと美貌を気に入っただけの男性で、すぐにでも見合いの席を設けたいとご執心であることを知って、我慢の限界を感じて家を飛び出したという。
「まさか一年以上も経ってるのに、叔父さんもお見合い相手の方も、まだ諦めてなかったとは思いもしませんでした」
咳が落ち着くと、逢坂雅史という人物の人となりについて語りだした。
なんでも逢坂は若い頃から働きもせず、昔から問題ばかり起こす厄介者だったという。
恋愛には柔軟な考えを持っていると本人が語っていたが、さんざん女性を騙し泣かせて、その都度父親や兄が火消しに奔走したというのだからなんとも救いがたい人であることはわかった。
「あのさ、万が一にも実家に帰りたいなんて言わないよね?」
見合い相手がいると聞いてから、ずっと胸の中に抱いていた不安をぶつけた。
「そんな真似しませんよ。だって、私は貞春さんとずっと一緒にいたいんですから……」
咳き込んで青白くなっていた頬に、朱色が重なる瞬間だった。その言葉を聞いて、展覧会が終わったらとか、熱海の旅行でとか、何かにつけて覚悟を先延ばしにしていた自分の小ささを恥じた。
こんなときに、こんな場所で伝えるつもりはなかったけれども、自分の口からするりと本音が飛び出る。
「美智子さん」
「なんですか?」
「僕は、美智子さんのことが大好きです。どうか、一生隣にいさせて貰えませんか?」
「それって……そういう意味なのかしら?」
「はい。僕と、結婚してください」
貞春の言葉を合図にするように、外から一斉に鳩が飛び立つ音が聴こえた。
二人して窓の外を眺めると、これからやってくる平和な時代を象徴するように白い鳩の群れが一斉に羽ばたいていった。
二人の間に余計な言葉はいらず、未だに手をつなぐもなかった二人は初めて夜を共にした。何から何まで初めてのことだったけど、人生で一番幸せな時間であることは確かだった。
翌朝、何とも言えない気恥ずかしさを噛み殺しながら朝食を共にしていた貞春は、前々から気になっていたことを伝えた。
「一度ゆっくりと休暇をもらって、休んだほうがいいんじゃないかな。いつまでも咳が治らないから心配だよ」
話をしている間もしつこい咳をしていた。病院に行くことも勧めたが、もとから体が弱いだけだと微笑みながら、食器を片付け始める。
ふいに台所に立つ後ろ姿が、透けて見えたような気がした。言いようのない焦燥感に駆られ、自分でも訳がわかないまま背後から抱きしめた貞春は、耳元でまだ早い来春に旅行に出かけようと誘っていた。
「冬が過ぎて春が来たら、二人で新婚旅行にでも行きませんか」
「まあ。ええ、もちろん。絶対に行きましょうね」
顔は見えないが、声色からは喜んでくれていることだけはわかった。
愛しい女性を力いっぱい抱きしめて、少しずつ近づいてくる得体の知れない足音から耳を塞ぐ。
幸せの終わりはすぐそこまで訪れていたともしらずに――。
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