昭和二十一年②
一
昭和二十一年五月三日。極東国際軍事裁判が開廷し、合衆国を含めた十カ国を原告とする起訴状が、
翌日に第一次吉田内閣が成立したものの、同月十二日、十九日と依然深刻な食糧危機が続く中で、根本的な問題の解決に至らない政府を糾弾すべく東京の皇居前広場に約二十五万人もの人々が集結した食糧メーデーが開催された。
事前にデモ行進があることを聞きつけていたヒロヤンは、一人様子を見に出かけると数時間後に帰ってくるなり、店じまいをしていた二人に目に焼き付けてきた光景を熱く語りだした。
「圧巻だったぞ。皇居の前に
「信じられないな。去年までなら脱帽のうえ、敬礼が当たり前だってのに」
「戦時中までなら特高に拷問されて殺されるだろうよ。皮肉なもんだな、
人集りの先にはトラックの荷台に組まれた足場にモンペ姿の女性が立ち、背中に我が子を背負いながら「米をください」と、腹の底から絞り出すような叫び声を、天皇が住まう
その様子を想像するしかない貞春も、亡き貞夫の面影を思い出して胸に迫るものを感じた。一方で無用な争いを生んだ人間がのうのうと生きていると思うと、やりきれない怒りが今も込み上げてくる。
集会後にデモ隊は二手に分かれたようで、一方は警察と押し問答の末に皇居内に侵入した。大人達に混じっていたヒロヤンも、褒められる行為ではないが黙って後についていき、そこで見た光景に言葉を失ったという。
デモ隊は宮内省当直高等官室で窮状を訴える「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか台所を見せてくれ」と要求し、流石に天皇の台所と呼ばれている
そこに積み上げられた食料の豊富さに、度肝を抜かれなかった者はいなかった。
「お役人でさえあんだけ恵まれてんなら、天皇は推して然るべしだな」
五十坪ほどの調理場に百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれていた。
当時の一般庶民にはご馳走の山、いや、お宝の山に等しい光景に、我を失った一人が駆け出すとタライに手を突っ込んでゴハンをわしづかみにした。一拍遅れてその場にいた全員が、我先にと殺到し口にほおばり、その場で慌てておむすびを握り着物のソデにたくし込む女性もいたという。
「そう考えると、僕たちはまだ恵まれてるよね。お店の売上があるし、少なくとも食べることに不自由はなくなったもん」
シゲチーは闇市で大量に購入した芋飴を口の中で転がしながら言った。
「まあな。今は道徳より、眼の前に垂れ下がる蜘蛛の糸を掴んだもん勝ちの世の中だ。俺たちには頼れる大人もいなけりゃ、戦争孤児を見捨てた国も当てになりゃしない。どうなるか未来が見通せないぶん、これからも稼いで稼いで成功への足がかりにしないといけないんだ」
「あまり欲をかきすぎても良いことはないよ。それより、最近駅前の三角地帯に新しく近藤産業マーケットって看板が出てたろ」
貞春は売上金を収めたアルミ缶を大事に抱えながら話題を変えた。近頃ヒロヤンが仕入れてくる品は多岐に渡っていて、そのどれもが砂糖に負けない価値と希少性でいずれも出処のしれない怪しげな品ばかりだったことが気がかりだった。
真っ当な商品でないことは、今更口喧しく咎めるつもりはなかった。既に配給が十日に一度と、もはや国を頼っては命をつないでいくことすら不可能な状況で、ヒロヤンの言う通り道徳を重んじてばかりいればかつて餓死した教育学者と同じ道を辿ることとなるから。
とはいえ、儲けばかりを優先して積極的に犯罪の片棒を担いでいい道理もなく、考えの違いから口論を交わす回数が増えていたのも事実だった。
「マーケットか。あれは台東区長と上野警察署所長の肝入り事業らしい。仕切っているのは自動車修理工場の経営者で
「だからか、最近警察の手入れがやけに多いのは」
今朝も店頭に商品を並べていたところ、遠くから複数の怒号と悲鳴があがり、またいつもの
店の前を風呂敷や背嚢を抱えた人たちが顔色を変えて駆け抜けていき、何事かと通りがかった一人に声をかけると、警察による抜き打ちの手入れだと叫んで駆け抜けていった。
視線の先の通りの向こうにトラックが何台も横付けされ、警官が慈悲もなく闇市の店主たちを引っ捕らえられては荷台に載せていく光景を目撃した。
統制品を見つけるなり野盗のように押収し、運悪く警官の目にとまった買物帰りの主婦は問答無用に手首を捕まれ引き摺られていく。
「そこの坊主ッ、お前たちも止まれッ!」
貞春とシゲチーは、警官の手に捕まる寸前に商品を抱え逃げ切ることに成功したが、逃亡に失敗して警察署に連行された人たちのことを思うといたたまれない気持ちになる。
「同じ闇市で商売をしてようが、しょせんそいつらは他人に過ぎないだろ。俺らには関係ない話だ。なにより商品が無事で良かったじゃないか」
あまりに他人事で、素っ気ないヒロヤンの口調に貞春はいい加減我慢の限界を迎えた。
「そんな言い草ないだろ。捕まった人たちだって、法律を犯さなきゃ生きていないんだぞ。捕まればすぐには出てこれないし、残された家族はどうなる。なあ、最近のヒロヤンはおかしいよ。口を開ければ金、金、金、お金以外なにも信用してないみたいで気分悪いよ」
「なんだと? 俺がいなきゃ今頃、お前たちだけで何が出来たって言うんだよ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないはずだが」
「二人とも落ち着きなって。そうだ、お腹が減ってるからイライラするんだよ。僕の芋飴分けてあげるからさ、ケンカはやめよう」
そう言って差し出された飴を、ヒロヤンは振り払うと無言で上野駅の方角へと足早に去っていった。出会ったばかりの頃なら、落ちた食べ物ですら躊躇せずに口にしたというに――。
落ちた飴に蟻が群がる。
いつの間にか見上げた空に曇天が広がり始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます