現代②

 有馬温泉には異なる泉質の温泉が二つ存在している。瑞鳳苑はその二つの温泉を同時に楽しめる数少ない旅館であり、数年前に宿泊客が足を滑らせて怪我をしたことをきっかけに大浴場を改装したことで、床石から総ひのき造りへと姿を変えていた。

 

 宿泊客のチェックインが始まるまでの間にすべきことは山程あり、春彦は馬車馬のように働かされていたのだが特に負担に感じていたのが、この大浴場の清掃作業である。


 常に中腰の姿勢でデッキブラシを手に念入りに汚れを落とさなくてはならず、細かい目地に洗剤や石鹸が入るとこれがまた面倒だった。

 少しでも手を抜こうとすると、刑務官のように抜かり無く監視しているゲンさんにこっぴどく叱られるうえに、基本的に体罰がセットになるので本気で取り組むしか選択肢はなかった。


 全身の筋繊維があげる悲鳴を聞きながら、横並びに配置されている檜風呂の内側を念入りに洗う。掃除中はお湯が抜かれた状態ではあるが、普段は「金泉」「銀泉」と見た目も泉質も全く異なる温泉を楽しめることで、お客からの評判は上々だった。


 後者の銀泉は無色透明でありながら、前者の金泉には大量の鉄分が含まれているため、空気中の酸素に触れることで酸化し茶褐色に変化する。この鉄分がなかなかの曲者で、一度浴槽に沈着してしまうとシミになってしまう為、より丹念に磨く必要がある。たかが清掃作業といえど気が抜けない作業だった。


「コラッ、もっと腰に力をよう入れて磨かんかい」


 金泉を溜めている浴槽の内側をデッキブラシで擦っていると、大浴場の壁という壁にゲンさんの一喝が反響して喧しいことこの上ない。同じ姿勢でいることに耐えかねて背中を伸ばしていると、「これしきの作業で」と昭和特有の精神論を口にするゲンさんに苛立ちを覚えないと言えば嘘になる。


「ゲンさん。それって今じゃ立派なパワハラなんですよ」

「ふん。けったくそ悪い。何がパワハラや。ええか、これが昔ならな」

「はいはい、当たり前のことだったんですよね。もう何回も聞かされて耳にタコができてますよ」

「わかってるなら口より手を動かさんかい。その調子じゃ日が暮れてまうで」


 少しでもゲンさんの不興を買うと、理不尽な鉄拳制裁が待ち構えていることは軟禁生活に近い住み込み生活で身を持って知っている。


 時にはほうきの柄で腰や背中を殴打され、時には口汚い罵詈雑言を浴びせられる。ゲンさん曰く、これでもまだまだ手心を加えているし甘いほうだという。いかに昔の日本では理不尽が罷り通っていたか、そらんじられるほど聞かされ続けて辟易させられていた。


「知っとるか。太平洋戦争真っ只中の日本の教育現場にはな、横柄な態度の軍人がやってきては怠けている生徒を見つけ次第、海軍精神注入棒っちゅう太いかしの棒で尻を叩くんや。樫の木は丈夫さかい、ちっとのことじゃ折れたりせん。まだ年端も行かない子供達が唇を噛んで耐え忍んでたんやで」


 初めて聞く単語を思い出した休憩中に、たまたまスマホで調べてみると想像の倍ほどの太さの木の棒が表示された。棒という表現では生易しい――木製のバットをさらに太くしたような威圧感のある棍棒に、墨で〝海軍精神注入棒〟と確かに記されていた。


 学校の教師が生徒の頭を軽く叩いた程度でワイドショーが賑わう昨今、到底考えられない軍国主義の時代に生まれなくて、心から良かったと安堵する。


「大浴場が終わったら、あとはボンに任せるわ」

「どうしたんですか? ゲンさんが俺から離れるなんて珍しいですね」


 春彦は壁にかけられた鏡の前に腰を下ろすと、そろそろストレスで髪の毛が薄くなりやしないか心配になる頭頂部を確認しながら鏡越しに返事をした。


 休憩時間を除いては基本的に二人一組で行動することが多かったが、その日の午後は珍しく半休を取って帰宅するという。それを聞かされた瞬間は、窮屈な監視から解放されると素直に喜んでいた。


「ほんなら後はよろしゅう頼むわ。ちゃんと仕事せんと、女将さんに給料下げてもらうよう進言するからの。気を付けておくんやで」

「はあ!? ちょ、それは無しですよ。ただでさえ雀の涙なんですから」 

「なら、黙ってきびきび働くんや。お金を稼ぐっちゅうのは簡単ではあらへんで」


 最後に不敵な笑みを残すと、ゲンさんは浴場から姿を消して足音が遠ざかっていく。

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