この世界が嘘だったとしても
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
「……暑い」
不快な蒸し暑さで目が覚めた。ぼんやりした目に映るのはすっかり見慣れてしまった光景だ。
――あぁ、
目が覚めて最初に思ったのはそれだった。だって仕方ないじゃないか。四度目ともなれば、いい加減驚きもしなくなる。それにしても僕はどうして毎回机で寝ているんだろう。学校に用事があるわけでもないし、入ってもいない部活動のために登校したりもしない。でも、始まりは毎回必ずここだった。
蒸し暑くて不快な、そして誰もいない夏休みの教室から、僕の四度目の
自分が経験しているこの時間が初めてじゃないことに気づいたのは、八月に入った蒸し暑い日だった。最初は「なんか変だな」くらいにしか思わなかった。しかし三日も経てば不可解さの原因に気づく。
――僕は同じ
二度目の同じ時間がスタートした翌日、一度目と同じように夏期講習が始まった。見慣れたクラスメイトで席が埋まると、ますます教室が蒸し暑く不快になる。クラスメイトたちは「暑い暑い」と口にしながら、いつものことだと半分諦めたように教科書やノートを用意していた。
一見するとなんでもない光景のように感じる。けれど聞き覚えがあるクラスメイトたちの会話に僕は寒気を感じていた。覚えがあるのは会話だけじゃない。みんなの持ち物も動きも、なんなら窓の外の入道雲の形でさえまったく同じだと気づいた。
(……まさかな)
はじめは勘違いだろうと思った。夏の暑さと夏期講習のストレスから、予知夢のような妄想でも見ているのだろうとオカルト的な感想を抱いたりもした。それでも二日、三日と見覚えのある時間を過ごせば嫌でも不安は広がる。四日目、僕はついに諦めた。僕はいま紛れもなく
クラスメイトたちの会話を聞きながら、教師が書く黒板の文章を見ながら、記憶をなぞるような感覚に気持ちが悪くなった。当然、自分がそんな経験をしている最中だなんて周囲に言えるはずもなく、ただひたすら見知っている中で淡々と過ごすことしかできない。
(ようやく終わった)
同じ夏休みをくり返すようになって六日目、五日間の夏期講習が予定どおりに終わった。僕はいつもどおり寄り道もせず寮に帰った。
蒸し暑い教室を出て、まだ日が暮れるにはほど遠い夏の日差しを浴びながら校舎を横切り隣接する寮の建物に入る。いつもならホッとできるはずの寮監室前にある扇風機の風にも気持ちは落ち着かない。そのまま階段を上って自分の部屋のドアを開けた。途端にむわっとした熱気が体を覆った。この暑さまでまったく同じだ、なんて思いながら窓を開ける。
うるさいくらいの蝉の鳴き声を聞きながら扇風機をつけ、ベッドにごろんと寝転がった。無意識にそうしてしまったが、よく考えればこうするのも二度目だ。寝転がったまま、なぜ同じ時間をくり返すことになったんだろうと考えた。考えたところで理由なんてわからない。
(この時間はいつまで続くんだろう)
僕はこのまま二度目の時間を過ごすことになるんだろうか。そう思ったとき疑問が一つ浮かんだ。
(一度目はどこまで過ごしたんだろう)
六日前に二度目がスタートしたことは間違いない。ということは、一度目のどこかで二度目に戻った、つまりタイムループしたということだ。じゃあ、時間が巻き戻ってしまった一度目のタイミングはいつだったんだろう。
(……いつだったっけ……)
思い出せない。二度目の時間に精神をすり減らしてしまったのか、頭がぼんやりして何も考えられなかった。これは一度寝たほうがいいかもしれない。そう思った僕は、強気なままの入道雲を見ながらゆっくりと目を閉じた。
翌日の七日目も、覚えている限りは一度目と同じ行動をしていたと思う。一度目のときも夏期講習に疲れ、蒸し暑さに疲れて一日中寮の部屋でゴロゴロした。二度目も同じようにダラダラ過ごしていて……気がついたら、夏期講習が始まる前日に戻っていた。それが三度目のスタートだった。
(おかげで、いつからいつまでタイムループしているのかわかった)
僕はなぜか夏期講習の前日から終了後の翌日までの七日間をくり返している。でも、始まりと終わりの部分はぼんやりしていてはっきりしない。そもそもどうして夏期講習の前日にわざわざ登校し、蒸し暑い教室の机で突っ伏して寝ているのかがわからなかった。一度目のときにも同じことをしていたんだろうけど、その理由がさっぱり思い出せない。それに七日目のどこでタイムループになったのかも思い出せなかった。ただ寮の部屋でゴロゴロ過ごした、そういう大雑把な記憶しかない。
(これもタイムループのお約束なのかな)
以前読んだタイムループの小説を思い出す。そういえば、小説の主人公は途中で何かしら違う行動を取ってタイムループを抜け出そうとしていた。
僕は、二度目だとわかった後も一度目と同じ行動しかしなかった。くり返しているなんてあり得ないと心のどこかで思っていたからかもしれない。何か余計なことをしたら、もっとひどいことになるかもしれないという恐怖もあった。
(どうしよう)
小説の主人公のように何かアクションを起こすべきだろうか。大胆なことは無理だとしても、せめて周囲をよく観察するくらいはしたほうがいいかもしれない。もしかしたらタイムループに関係する何かを見つけられるかもしれない。
相変わらず蒸し暑く不快な教室でそんなことを考えながら額に浮かんだ汗を手で拭う。窓の外を見ると、もくもくと勢力を拡大している入道雲が目に入った。このタイミングで外を見るのもまったく同じだ。
(……もしいま窓の外を見なかったらどうなっていたんだろう)
そんな些細なことでも違う行動をしたら何か変わるんじゃないだろうか。いい考えだと思った。そう思ったのに、結局僕は三度目が始まっても何のアクションも起こせないままでいた。そもそも外を見るか見ないかなんて小さな違いで何かが変わるんだろうか、なんて疑問が浮かぶ。だからといって大きなアクションを起こすためのイベントや人間関係があるわけでもない。
(だからって、いまさら誰かと仲良くなるのもな)
僕は人と深く関わることが苦手だ。きっかけは小学生のときに遭った事故だった。
十一歳のとき父親の運転する車が事故に巻き込まれ、そのとき父親と母親は死んだ。奇跡的に軽傷で済んだ僕は親戚に引き取られることになった。もちろん氏名は公表されず、退院後の消息も詳しく報道されたりはしていない。
ところが人の口に戸は立てられないということか、早い段階で周囲に僕のことがばれてしまった。当時大々的にニュースで報道された事故の生き残りだとわかると、子どもも大人も興味津々な様子で僕を見た。子供心にそれが嫌で、それ以来僕は周囲と少し距離を置くようになった。
拒絶するわけじゃないけどクラスメイトとは浅く付き合う。必要以上に注目されたくないから教室の片隅でひっそりと一人で過ごすことが多い。そんな生活を高校に通うようになったいまも続けているから、アクションを起こすための他人との関わりなんてないようなものだ。
そんなこともあって、三度目の時間もただ同じことをくり返しただけで終わった。そうして僕はまたもや蒸し暑い教室で目を覚まし、四度目の時間をくり返すことになった。
四度目の夏期講習が始まった。クラスメイトたちの会話も教師の話も、そらで言えるんじゃないかというくらい覚えてしまった。もはや夏期講習を受ける必要すらなさそうだけど休むという選択肢はない。夏期講習は進学クラス全員が受けるもので、一人だけ休むのは目立つからだ。
(夏期講習を休むこともアクションの一つにはなるんだろうけど……)
いや、絶対に目立つからそんなことはできない。それでまた昔のように注目でもされたらたまったもんじゃない。ノロノロと次の授業の教科書を取り出したところで視線を感じて振り返った。
(……まただ)
斜め後ろの席に座る
四度目になって初めて気づいたことがあった。それはクラスの、いや学校一の人気者である
(どうして僕なんかを見るんだろう)
もしかしてこれまでも見ていたんだろうか。何度か視線が合ったことで見られていることには気づいたけど、正直戸惑いしかない。
にこりと笑う笹木から視線を外して前を向く。イケメンで人当たりのいい笹木は女子だけでなく男子からも人気があった。でも、僕は苦手だ。だって笹木に近づくだけで注目されるのだ。そこにいるだけで注目される笹木に近づくことなんてできるはずがない。もちろん会話なんてもってのほかだった。僕のほうはそうなのに、どうしてか笹木は僕に話しかけてくる。
(席が前後だったときならわかるけど……)
話すきっかけになったのは二年に進級したときの席順だった。五十音順だと笹木の前が
僕はできるだけ笹木に近づかないようにした。僕から話しかけるなんて当然しないし、話しかけられても極力短い時間で済ませる。そんな態度を見せられれば普通は話しかけられたくないんだと察するだろう。ところが笹木は変わらず僕に話しかけてきた。この夏期講習の間も話しかけられている。
(それどころかこうして見ているなんて、どういうことだろう)
さすがに笹木が何を見ているかまでは誰も気づいていないようだけど、いずれわかってしまうかもしれない。それは困る。すでに若干孤立気味なのに、ますます居心地が悪くなってしまうのは避けたかった。
僕は他人を拒絶したいわけじゃなく、ただ注目されたくないだけだ。ひっそりと空気のように人の中に混じっているのがいいのであって孤独が好きなわけでもない。ただでさえ天涯孤独なのに、これ以上の孤独なんて僕には必要なかった。
腕時計を見る。休憩時間の残りはあとわずかだ。いまからトイレに行ってすぐに戻ってくれば間に合うかと、この後の出来事を思い出しながら考えた。
(四度目の今度こそ行動を起こさないと……)
腕時計を見ながらそう思った直後、「紗倉」と声をかけられた。振り向くと笹木のイケメン顔が僕を見下ろしている。
(あぁ、また逃げられなかった)
二度目のときは気づかなかった。我ながら間抜けだと思うが、三度目になって初めて笹木に話しかけられるこのタイミングこそが状況を変えられる一歩かもしれないことに気づいた。
話しかけられる前にトイレに行けば“笹木と話をする”という出来事をキャンセルすることになる。僕一人しか関わらない出来事より誰かを巻き込む出来事を変えるほうが、きっと影響があるはずだ。だからといって僕にも笹木にも悪いことは起きない。それに、トイレに行くだけなら注目されることもない。
前回、このことに気づいたときにひどく後悔した。だからこそ今回はと思っていたはずなのに、どうして休憩時間が始まってすぐにトイレに行かなかったんだろう。
(わかってたのに、どうして腕時計を見るまで待ってしまったんだろう)
元々の行動をどうしてもなぞってしまのもタイムループのお約束なんだろうか。
「このあいだ話した小説なんだけど」
話しかけられているのに無視するわけにもいかない。視線を合わせないまま「うん」と小さく頷き返す。
「ちょうど読み終わりそうだから、明日には貸せると思うよ」
「そっか、ありがとう」
「紗倉もきっと好きだと思うから楽しみにしてて」
にこりと笑って笹木が席に戻っていった。このやり取りも四度目だ。笹木の言葉は一言一句同じで、僕の返事もほとんど同じだった。結局四度目もこうして同じ時間をなぞっていくのかと腕時計を見る。
(あれ?)
見間違いかと思ったけど、そうじゃない。三度目のときは一時半だったはずなのに腕時計は一時二十七分を指していた。三分も早く笹木に話しかけられたということだ。
(まぁ、三分くらいは誤差の範囲か)
多少の違和感を覚えながら、僕は四度目の同じ授業へと気持ちを切り替えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます