第5話


 黙って差し出された河崎の手。日向は一度驚き、にやりと笑う。握った手は乾いて熱い。河崎もまた引き攣るよう笑んだ。

「知らなくていいことを知る羽目になる」

「元より承知の上ですね」

「どうだかな」

「あの彫像を見たんですよ? 慶太が狂ったと言ったのは河崎さんでしたよ」

 不敵な日向に河崎は溜息をつく。そのようなものでは足らないのだと、いまの日向は知らない。言って聞かせてわかるものでもない。ならば事実を、本当の事実を語るだけ。

「チャイチャイの従業員は、人間じゃない。ブラックロータスもだがな」

「はい?」

「人間に、見えるだろう? だが、やつらは人間じゃない。チョー=チョー人というらしい、な」

「それは、民族の名称とかそういうことではなく、ですか」

 予想された反応だと河崎の唇は笑いに歪む。誰が「あいつは人間じゃない」と言って信じるものか。頓着せずに続けた。

「彫像を見たと言ったな。あれが、やつらの神、チャウグナー・フォーン」

「待ってください、話が見えない」

「なら、ここで止めるか」

 河崎の目を日向は見ていた。嘘や戯れではない、それくらいは見ればわかった。同時に、これが事実だと。日向は襲撃されたときのことを思い出す。小柄なスーツ姿の男に感じた違和感がいまにして蘇る。

 ――辻褄は、合う。

 合うだけかもしれないが、それにしては合いすぎる。自分が感じた感覚と河崎の言葉と。日向は信じざるを得なかった。ために途轍もない悪寒に襲われたとしても。知らず噛み締めた唇に血の味、気づけばがたがたと震えていた。

「狂ったチョー=チョー人が……という表現はおかしいな、そもそも生まれながらに狂っているものらしいやつらだ。そいつらが、忌まわしい邪神を奉じていた」

 そうと知らず、ただの薬物事件と思って乗り込んでしまったのが運の尽き。囚われ慶太は狂った。淡々とした河崎の声音を日向は震えながら聞いていた。追い詰められた獣の気持ちがわかる気がする。

「なぜ、けーちゃんは」

「邪神、と言っただろう。像を覚えているか」

 言葉に日向は出したままのスマホを操作し、あのとき保存した別の写真を表示する。それに河崎が顔を顰めて、日向もまたこれがやつらの神なのだと理解してしまう。

「そう、これだ。この、象に似ている鼻があるだろう? 奇妙に先端が開いているだろう?」

 聞きたくない、日向は感じたはずなのに、身を乗り出していた。己の意思とは別の部分が河崎の真実を聞けと叫ぶ。正気を保つために、あるいは正気を揺るがせるために。

「これを――」

 まるで開いた先端のよう、河崎は自分の掌を日向の前に突き出した。そして、そのまま彼の顔を片手で覆う。かすかにくぐもった悲鳴。日向が理解した証として。河崎もまた、あの日の光景を眼前に見ていると同然だった。

 ――慶太。

 こうして、彼は狂っていったのだと。拘束され、何もできず。ただそれを見せられていた不甲斐ない己がいた。

「何を吸われるんだろうな。俺にもわからん」

「それで、けーちゃんは……」

「邪神と言った。それで済むと思うか? 馬鹿な。何かを吸われるたびに、慶太は変わっていった。少しずつ、少しずつ、この邪神と同じ姿に」

 河崎の指が邪神を叩く。スマホの画面がこつん、と鳴った。そこにかぶさる日向の悲鳴。今度は完全なそれだった。押し殺すことすらできず、高い悲鳴をあげた彼を河崎は見ているだけ。

 ――これで、帰るなら、それもいい。

 悪夢にはうなされるだろう。だが、それだけで済む。ここから先に進ませることをためらう気持ちはまだあった。それを嗤う己と共に。

「けーちゃんが。けーちゃんが……」

 象のような耳になって鼻が伸びて。でも象ではなくて、もっとずっと忌まわしい何かに似ていって。呟く日向の脳裏に浮かぶのは、検索したときに見た写真。ガネーシャ像にしてはおかしい、そう思っていたことを思い出す。

「……道理で。道理で変だと、思ったんだ……画像検索かけて、ブラックロータスの像しか引っかからないなんて、妙だと思ったんだ。これが、ガネーシャ像じゃないからだ。当たり前の神像と同列に語るなんて侮辱だ冒涜だ――あぁ、そうだ。思い出した……夢、見たんだ。けーちゃんがこの吸盤に吸い付かれる夢……あれは本当なんだ、ほんとにあったことだったんだ……!」

 ぽんと頬を叩かれ、苦い顔の河崎が視線を合わせてきて日向ははっとする。

「深呼吸しろ」

「河崎さ――」

「いいから言うことを聞け。吸え――吐け、全部だ。もう一度」

 彼の低い声と共に日向は言われるまま息を吸い、吐く。何度か繰り返すうちに呼吸が静まり狂乱も静まる。けれど、狂気はそのままに。内に潜んだそれと日向ではなく理解したのは河崎の方。

「まだ、続ける気か」

「当然です――これを知って、止まる選択肢はない」

「かかわられるのが面倒な俺が嘘をついたのかもしれない」

「嘘にしては独創的すぎますね。だったら河崎さんは作家になるべきだ。流行りますよ」

 にぃと笑った日向に河崎は肩をすくめる。これが作り物であったならば。そう思っていたのはいつだろう。たった数年前が遠かった。

「人間じゃないなら法律も関係ないですね。殺人にもならない。好都合というものでしょう」

 嘯く日向に狂気を感じた。鏡を見ているようで、それが不快ではある。止めようもなく、止まる気もないとはこういうことをいうのだと、客観的に見ればずいぶんと笑える、そう河崎は笑う。

「それにしても邪神、ね……」

 鼻で笑う日向は何を思うのか。河崎にはわかりえない。ここに来たときには、真っ直ぐと慶太を案ずる青年が。たった半日と経たずにここまで堕ちた。

「河崎さんには対抗策がある、そういうことでしょう?」

「ある、と言ったら?」

「頼もしいですね」

 にやりと笑う日向を河崎は穢した気分だ。否、慶太を再び狂気に落とした気分だ。目の前でまた彼が狂っていく。今度は自ら望んで堕ちていく。長い溜息は人間らしくて河崎はそれに笑った。

「敵の詳細を聞かせてください」

「何をするつもりだ」

「知らなかったら戦えない。そうでしょう? 河崎さん、よもや話し合いなんて考えていないでしょう。乗り込んで殲滅して。そのつもりでしょう? だったら、俺にも聞かせてください。言ったはずです、俺は記者だと。情報収集なら任せてくださいと言いました」

 そのために事前情報がいる、日向の言っていることは正しい。歪んだ目さえなければ。河崎はしばし考える。だが躊躇の末、日向を立たせた。

「どこに?」

「蔵がある。そこに、魔道書がある」

「ゲームみたいですねって言ってられたら幸せでしたね」

「まったくだ」

 軽やかな笑い声が狂っている。そのうちに落ち着くだろうと河崎は案じてはいない。自分もそうだった。狂うならば、狂ったところで安定する。それが日常になる。いずれ巻き込んだ。もう遅い。

 ――ならば、知っていた方がまだましだ。生き残る確率が上がるだろう。

 生き残っていいことがあるかどうかは、わからないが。この世ならざるものを知り、生きていけるのだろうか。河崎には答えられなかった。背後から歩んでくる気配があまりにも慶太に似ていて、答えられないのかかもしれない。

「ねぇ、河崎さん。なんで相楽さん、薬物のことを隠蔽したんでしょうね」

「さてな」

「その理由を調べた方がいいような気はするんですよね」

「興味ない。相楽の理由がどうであれ、やつらに繋がっている形跡はない、それで俺には充分だ」

「確定です、それ?」

 相楽が人外の存在と結託してはいない、と。河崎の背中に向けて問えば軽くすくめられた肩。退職しても河崎には調査するだけの伝手があったのだろう。

 ――相楽さんは公安だからって信じた。河崎さんは元公安だって、信じていいのか? いや……けーちゃんが信じた人だ。

 最後のところで日向の意識は慶太に戻る。それが信用に根拠を与えるものと、以前の自分ならば考えたかどうか。その意味で二人は同類だった、慶太に、その運命に執着するという意味において。

 裏口から出た先、蔵がある。二棟もの蔵があることがまず驚きだった。そして、扉が開かれる。ぎしぎしと軋んだ音が妙に陰鬱に響く。それも、正しかったのかもしれない。

「なんだ、これ。すごい……」

 壁一面どころではない、全面が書架となり、そのすべてに収められた本の数々。無数と言いたくなる書籍の山に日向は感嘆していた。

「こんな蔵書量、個人では無理でしょう。どうやって、河崎さん――」

「集めたのは俺じゃない。この家は、とある大学教授の持ち物だった」

 そこにどうして河崎が住むことになったのか、彼は言わなかったし日向も聞かなかった。ただ相楽の手配で住めたのだとだけ。

「面倒見のいい人ですね、相楽さん」

 ふと日向の言葉に違和感を覚えた。以前は感じていたそれだと遅れて気づく。なぜ、相楽はここまでしてくれるのか。戻る気などないと身に染みて理解しているだろうに。同時に日向もまた。どんなによい上司だったとしても、相楽が手を貸し続けるのは不思議だと思う。面倒見の一言では片付けられない奇妙さを感じていた。

 言葉になり得ない感覚未満のそれなど、この書籍の前では霧散する。河崎は無造作に一冊の本を抜き出した。手に取ると仄かに冷たい。馴染んだ感覚に安堵するだけ、抜け出せない深みにいる。

「座れ」

 机の横に踏み台を置き、河崎はそちらに腰をおろしては日向を椅子へと促す。それに日向がかすかに笑った。

「こういうとこかな。けーちゃんが河崎さんに懐いてたの」

「……どういう意味だ」

「河崎さん、何も考えずに自然にしたでしょ、いま」

 踏み台を示されてはじめて気づいた河崎は顔を顰めていた。正にその通り。無意識のなせる業とは恐ろしい、苦く笑った。

「いいから読め」

「無茶言わないでください、これ何語ですか」

「あぁ……そうか。これがノートだ」

 原書を傍らに日向へと翻訳を渡す。河崎の癖のある字は読みにくかった。それは、彼の元の癖ではない、すぐさま日向も悟ることになる。

 ――狂ってる。

 チョー=チョー人のこと、チャウグナー・フォーンなる神のこと。河崎の手によって翻訳されたそれが、どれほど彼の精神を削ったのか。

 ――読んでるだけで、頭が。

 おかしくなりそうだ。日向の額にいつしか脂汗が滲む。それを河崎は横で見ていた。吐き気をこらえ口許を押さえる姿に懐かしさすら覚える。

 ――慶太。

 彼と同じ顔でそれをされる。堕として穢しているのは慶太のよう、再び感じ。だがしかし、それに奇妙な喜びも覚える己はやはり、狂っている。そう彼は笑う。




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