第10話いざ 還りなん




 図書館を訪れたのは学者だった。近隣の大学で教鞭を取る、宗教社会学の教授だと彼は名乗る。司書はそれに笑みを浮かべて歓迎の辞を述べた。

 その様子が、いつもとはどこか違う、とは無論のこと教授が気づくことはない。物陰で眉根を寄せたのは警備員だけ。それも教授の目には映っていなかった。

「早速だが――」

 案内をしてほしいと頼む姿も潔い男だった。若い司書、と侮る姿勢など微塵もない。司書こそがこの場の支配者と理解しているかのよう。

「大学の図書館もやはり司書さんの方がずっと詳しくてね」

 司書の背中に従いながら男は照れくさげに肩からかけた鞄を直す。首だけ振り向けた司書は微笑むだけで返答に代えていた。それも男には好感を持って受け入れられたらしい。

「先にご紹介しておきます」

 そして図書館となっている蔵の前、待っていた警備員を司書は紹介した。異様な風体だった。軽く一礼したところを見ればきちんとした人間なのだろうと教授は思うのだが、ふと眉を顰めてしまうような何かがある。深くかぶった帽子のせいかもしれないし、わずかに曲がって見える背のせいかもしれない。

「やぁ、よろしく頼みます」

 だが彼は屈託なく警備員に片手を上げた。もう一度頭を下げる警備員に司書が微笑む。そして三人で図書館へと。内部は男が想像していたより遥かに広かった。否、広いとは違うだろう。空間的なそれではなく、感覚的なもの。天井まで伸びた書架が林立するさまは圧迫感がある。が、教授にとっては落ち着く景色だった。

「素晴らしい……」

 感嘆の響きに司書も悪い気がしない様子。先に立って歩く姿も楽しげだ。そう、見せているのかもしれない。警備員ならばそう言うかもしれない。

「お探しのものは、ありますか?」

「そうだね。私の専門分野の書籍があれば、まずそれを読みたいものだが」

「ここは――そうですね、宗教関係の書籍が多いので、一概にどれとお勧めすることが難しいのです」

 唇に笑みを含んだ司書に男は照れて笑う。それを目的に訪れたのだから当然だった、と思い至ったように。司書はそんな男に笑みを崩さない。いつも通りに、だが普段とは違って。初対面の客に区別がつくものではなかった。

「参考までに宗教社会学とは、どのような学問なのでしょう」

「そうですね。宗教の側面から社会とは何か、を考える学問でしょう。信仰を同じくする集団にとっての共同体とは何か、人間にとって共同体の意味を問う学問です」

 語りつつ、男はふと違和感を持った。司書は、理解している気がした。決してメジャーな学問ではない。こうして説明しても一度で飲み込んでもらえたことはない。けれど司書は語るより先に理解、否、端から知っていた、そんな気がする。

「ありがとうございます。では……様々な教団の解説をしている書籍を当たってみましょうか?」

「それはどのような?」

「いまは失われた古い話ばかりです。かつて存在した教団の歴史と共同体、その信仰と儀式を記したものがあります」

「素晴らしい!」

 目を輝かせた男だった。警備員はすでに書架の陰へと戻っている。客があるときの常だったが、男を窺う目はいつになく鋭い。好奇心旺盛な姿など信じないとでもいうように。

「こちらをどうぞ」

 司書が引き出したのは一冊の本だった。図書館を訪れる客には多くの本を勧める司書であったのに、教授にはただ一冊のそれを。

 黒い革装丁の書籍だった。古い本なのだろう。手擦れした革の佇まいも男にとっては慕わしい宝物のようなもの。受け取り撫でさする男の目は輝いてはいなかった。淀んだ熱が閃くかの眼差し。

「あちらでごゆっくり」

 書き物机に案内される間も惜しいとばかり男は本を開きながら歩いていた。ぱらぱらと捲るだけで胸がときめく。そんな顔をしていた。

 辞書の要を問われたけれど男は謝絶する。研究者として、この程度は読めた。さすがに古い時代の書籍だけに言い回しに慣れるのに時間はかかる。だが読めなくはない。

 時折手が止まるのは、ドイツ語の翻訳に手間取るせいではなく、あまりにも見事な挿絵に目を奪われるせい。精緻で素晴らしい版画だった。ゆえに、悍ましい絵画だった。

 ――これは。

 この世のものなのだろうか。男はしばし版画を見つめたまま。それから首を振り翻訳に戻る。この図書館の本を読み解けば、偉大な業績を掴めるだろう。

 そう思うのも不思議ではなかった。まだほんの少し読んだだけでも、いままで知られていなかった事実とわかる。絵空事ではない迫力を感じた。否も応もない、これは事実だと。疑うべくもない力強さで迫ってくる。

「なんと」

 悍ましい話かと思った。宗教のくせに血腥いなどとは言わない。あるところにはある、そのようなものだ。だとしても、文字から血臭が漂ってきそうなほど、全編が血に塗れている。犠牲、生贄、人肉食、死体損壊。口にするのも悍ましい所業の数々。ほう、と男は息をつく。

「司書さん」

 用があれば声をかけてくれ、と言われていた。聞こえるところにいるのだろうと呼べば司書は現れる。影から滲み出るような司書だった。

「少し図書館内を見てまわりたいんだが、いいかな?」

「もちろんです。どうぞご自由に」

「ありがとう。歳だね、読み疲れてしまったよ」

 闊達に笑う男は初老にはまだ早いといったところか。司書は曖昧に微笑むだけで何を言うでもなかった。それからふと思い出したよう司書は口を開く。

「母屋にお持ちになってもかまいませんよ」

「ほう、それはありがたい話だ」

 実に嬉しそうに笑う男に司書は念のため、と持ち出し禁止を再度告げ、教授もまた諾う。貴重な書籍と理解している証のような態度だった。

 男は疲れを癒そうとのんびり図書館を見てまわっていた。書架しかなくとも、本がある。見慣れない背表紙は見ているだけでずいぶんと楽しい。

 奥に進むうちに、男の目が変わってきていた。奥、ではないかもしれない。司書の目が届かない場所になった、の方が近い。素早く周囲を見回すなど先ほどはしなかったものを。

 男は本を探していた。司書に語ったような本ではなく、だがここにあると疑っていない書籍を。あれはどこにあるのだろうか。まるで見当もつかない書籍の量に困惑する。

 書架には隙間があった。むしろ隙間の方が多いのではないか。奥までくるとなおのことそうなってくる。隙間から向こうの窺える書架は物寂しい。あちら側を覗いて男はかすかな溜息をついていた。

 ――致し方ない。彼には、わかるはずはない。

 内心に呟き、男は書き物机へと戻っていく。途中で司書に会えればと思ったのだが、当の司書は机の側で本を読んでいた。男の姿に気づくなり眼差しをあげては微笑む。見たことがある、不意に感じた男だったが初対面なのは間違いがない。知人に似てでもいたのだろう。

「なにか?」

 客の視線に司書は首をかしげていた。その佇まいも静謐にすぎて、年齢以上の落ち着きを感じさせる。青年としか言いようのない年齢だろうにひどく老成した雰囲気だった。

「雑談相手になってもらってもいいかな?」

「僕でよろしければ」

 にこりと笑って司書は机の傍らへと踏み台を持ってきた。臨時の椅子ということか。男はそんなやりように声をあげて笑っていた。

「すまないね。なんだかとても楽しかったものだから。懐かしい、と言った方がいいかな」

「と、言いますと?」

「知人がね、そんな人だったんだ」

 目を細めて男は微笑む。懐古を語りつつ、口調には違うものが滲んでいるとは本人も気づかずに。熱っぽく潤んだ目をしていた。

「つかぬ事を尋ねるが……図書館長は別にいらっしゃるのかな?」

 立ち入ったことを尋ねる無礼を詫びて男は司書を見やっていた。真正面から真っ直ぐとは見ずに。顔色を窺う己と気づいているのか、どうか。

「この屋敷は……知人が住んでいたものだから」

「そうでしたか」

「いや、知人は亡くなったらしいのだがね。大学の同僚だったんだ」

 あまりに急な死、しかも葬儀が執り行われることもなかったせいで、いまだ信じがたいのだと男は語る。無論、亡くなるような年齢でもなかった。

「見てまわった限り、やはり彼の蔵書のようだったから」

 詮索するつもりはないけれど、知人の係累が運営しているのならば話がしたかった、訥々と男は言う。真摯な姿だった。懐かしい知人を偲ぶ態度も好感が持てるだろう。だが司書はほんのりと微笑んでいるのみ。物陰から警備員は目を光らせ続ける。

「もし、もしよかったら、なのだが。――君から、館長さんに話してはもらえないかな」

「どのようなご用件でしょう?」

「この図書館の蔵書を、できることならば引き取らせていただきたいんだ。もちろん無償でとは言わない」

 熱心に口説いているつもりだろう男に司書は笑みを浮かべ続けていた。それが無表情と同義である、とは男は気づかない。己の希望を述べるのに必死だった。それでいて男は冷静に悠然と語りかけている、と思っている様子。司書の唇に笑みではないものがちらりと閃いた。

「私が勤める大学に形の上では寄贈、ということにしてもらうのがいいと思う。大学の方から幾許か『お礼』ということでお支払いさせていただくのはどうだろうか」

 すでに男の中では計画が出来上がっているらしい。とすれば、はじめからそれを企図して訪れたものか。物陰の警備員の眼差しが鋭く光り、司書の視線に止められていた。

「少し、お伺いしても? ――当図書館の蔵書のどこにお心惹かれるものがあったのでしょうか?」

「それはもちろん。既知の知識体系とは違う、この素晴らしい蔵書の数々をこうして……言葉は悪いが埋もれさせてしまうのが惜しいからだ。研究者ならば……」

「いいえ、そうではなく。お客さまご自身が興味を持たれた『本』を伺いたいのです」

 微笑む司書だった。だがしかし、男は不意に背筋に痺れを感じていた。何が起こったのか、自分でもまるでわからなかった。けれど、厳然と肉体は反応している。見れば、手指が細かく震えていた。

「いま、ご覧になっている書籍では、ありませんね?」

 すぅ、と司書の目が細められていた。鋭くはない。それなのに、突き刺すような、抉るような。男の肉体はいますぐこの場を離れろと叫んでいる。聞こえるほどの耳を彼は持ち合わせてはいなかった。

「そ、それは――」

「ご興味をお持ちの本は、この図書館でご覧になったものではありませんね?」

「そんなことはない。そんなことは――」

 司書は、いったい司書は何を知っているというのか。知るはずはない。あの場にいたのは自分と、亡き同僚だけだ。しかも同僚は見られたと気づいた途端に本を片付けてしまった。片付けられたからこそ、気になった。

 ――あれが。

 はじまりだった、と男は思い起こす。着実な実績を上げていた、比較宗教学の教授。研究室も隣に位置していて、分野も近い。互いに競い合う気持ちがなかった、とは言わない。

 ――違う。張り合っていたのは、私だけだ。彼は私など気に留めていなかった。

 別の何かに。学問ではない何かに熱狂していたのではないだろうか。それなのに成果を上げていた同僚。ならば、あの本を貸してくれてもいい、そう思ったのがはじまり。

 研究室にはいつも大学院生や助手がいて、中々に機会は訪れなかった。その日、同僚が助手を伴って学会へと出席しているのは知っていた。だがよもや研究室は無人ではないはず。そう思いつつ覗いた室内には、なんの因果か誰ひとりとして。

 ある、とは思っていなかった。同僚とて放り出してはおかないだろう。そう思うのに、手が自分のものではないかのよう、同僚の机を漁っていた。そして、見つけてしまった。

「いま、お持ちなのでしょう?」

 司書の声に正気づく。この青年は、何を知っているのか。もしかしたら、自分が盗みを働いたことまで知っているのか。そう思ったときには、崩れ落ちていた。男の手がおずおずと鞄を探り、書籍を取り出す。

 男は知らなかった。図書館を訪れる客は誰しも手荷物を母屋に置くよう言われるとは。鞄の持ち込みは断じて許さない司書とは知らなかった。

「なるほど」

 ふと微笑んだ司書だった。男が差し出した革装丁の書籍の艶めかしさ。あまりに惹きつけられて、悍ましさすら感じる。

「これを、これを……返したかった」

 がくりと肩も頭も落とした男の姿は、図書館に来たときとは打って変わって力ない。

「嘘ですね」

 まるで、断罪するかのような司書だった。愕然と顔をあげた男はそこに青年を見る。けれど、これは本当に青年だろうか。いまになって怖気が止まらない。

「そんなことはない!」

「いいえ。あなたは残りを読みたかった。下巻がどうしても欲しかった」

「私、は……」

「読みたかったのでしょう?」

 お伽噺にいう悪魔の誘惑とはこれだと思った。微笑む司書に男は気づけばうなずいている。それこそが、望みであったのだから。亡き同僚の自宅であった屋敷が私設図書館となっている、耳にしたとき考えたのは紛れもなくそれだった。続きが読める、と。欲しい、己のものにと。

「こ、ここに、ここに、ある、のか? あるのだな?」

「ありますよ」

「ならば――!」

「僕はずっとあなたを待っていた」

 気勢を削ぐ司書の声、響き。いつの間にか、警備員が司書の背後に立っていた。それにも目をやらず、男は司書ひとりをまじまじと見つめる。微笑む青年を。どこかで見たことがあるような、初対面の青年を。

「失われた本がありました」

 司書の手が書籍を示した。微笑みながら、題字も記されていない本を、いまだ開いてもいない本を消えた上巻と看破して。

「こればかりは、見過ごせない。僕は、僕らは平穏に暮らしたいだけなので。こんなものが出回っていては、到底望めなくなってしまう」

 ふふ、と笑った司書だった。男には通じないと知ってて、それでも語りかける己を嘲笑うかの。背後の警備員がかすかに肩をすくめた。

「それは、どういう……」

「亡き教授がお持ちであった本が失われたのは、いつか」

 男の戸惑いに司書は答えず独語する。大学の研究室で失われたはず。教授が精巧な鍵へと付け替える以前のことに違いないと。まるで知人のような語り口だった。

「探さなくてはならない。僕と一族の平穏のために。こうして図書館として待っていれば必ず来る、そう思っていました」

 案の定でしたね、司書は男に笑いかける。いまはもう、男の震えは体中に及び、座った椅子さえ音を立てていた。机に置いた手はじっとりと汗ばみ、天板に濡れた染みを作る。ごくりと唾を飲んだ音がいやに響いた。

「返していただきます」

「待て。待ってくれ! その前に、下巻を。返せというならばもちろん返す。だから――」

 立ち上がった司書に男は追いすがった。恥も外聞もなく取りすがる。膝をつき伏し拝めというならば躊躇なくそうしただろう。

「頼む――」

 お断りします。司書の言葉に拳を握る。念願が叶うかどうかの瀬戸際。こんな若造ごときに阻まれてなるものか。せめて上巻だけでも取り返さなければ。真っ白になった頭の中、それだけが鮮明に。だが全身が粟立った。

「あ。な……は……?」

 おずおずと足元を見やる。そのときになって鼻をつく強烈な異臭に息が詰まる。異臭の源は、男の足から腿へ、腰へと這い上がり見る見るうちに男を飲み込まんと。泡立ち揺らぐ悍ましい粘性が、虹色に照り返す粘性が、己を飲み込み喰らおうとしている。理解したとき、男はようやく悲鳴をあげることを思い出した。

 だが、遅かった。そのときには男の口許まで覆い、飲み込み。開いた口の中へと粘性は入り込み、肉体の内側からも男を喰らった。テケリ・リ、テケリ・リ、と鈴のような、だがしかしあまりに悍ましい啼き声をあげつつ。

 床にわだかまるのみになった粘性を見やった司書は警備員へと微笑んだ。応えて警備員もうなずく。嘲るよう帽子を脱ぎ、すでに影もない床の上へと投げ出した。その警備員の顔は、姿は。突き出した丸い目、肌には鱗が。首には鰓が。人に似て人ではない異形が。

「さぁ、還ろうか」


 図書館は、人知れず閉館していた。そのようなものがあったなど誰も知らない。荒れ果てた蔵はがらんと何ひとつ残っていなかった。




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図書館奇譚 朝月刻 @asagi_ryo

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