43話

 利玖は千堂に続いて柏名湖畔に降りて行った。

 木陰にはまだ雪が残っていて、そのぼんやりとした白さのせいで地形が判然としない。何度も足元を確かめながら、藪をかき分けて最短距離で岸に近づいた。

 命綱を結ぶ場所を探して湖岸を歩いていると、千堂がふと思い出したように、

「かなり水温が低いと思いますよ」

と声をかけてきた。

 気温の低い屋外に長くとどまる事に対しての備えか、彼は空気をたっぷりと蓄えられそうなダウン・ジャケットを着て、黒い手袋も嵌めている。一度は利玖と共に店の外に出たのだが、開口一番に、

「うわ、寒いですね」

と言って防寒具を取りに店に戻っていた。

「下にドライスーツを着てきました」乾いた砂の地面に膝をついて、木々の根元をつぶさに見ながら利玖は言う。「他にも、防水対策を色々と。即座にショック死するような事はないはずです」

 そう答えて立ち上がり、ズボンについた土を払ったが、正直な所、自信はなかった。何しろ、必要最低限の装備を、史岐に気づかれないように揃えるだけで精一杯だったのだ。厳冬期の湖に潜った経験なんて、勿論ないし、練習も出来なかった。ぶっつけ本番、一発勝負である。

 それでも、ここで蹴りをつけなければならない。史岐がこれ以上、事態に深入りする前にやり遂げなければいけない。ひりつくようなその思いが、今の利玖を突き動かしていた。

 もう猶予は残されていない、そう考えているせいで、焦っている自分を自覚もする。しかし、幸いな事に、たった一人で進めている事ではない。その気持ちが、わずかでもバランスを崩したら容易く折れてしまいそうなほど不安に浸食された利玖の心を、毛糸の靴下みたいにささやかに包んで温めていた。

 三メートルほど右に移動した所で、一際頑健な針葉樹を見つけた。枝もたわわに葉が茂り、幹の直径は、利玖が両腕を回しても抱えきれないほど太い。

 その針葉樹に命綱を結ぶ事に決めて、利玖はホームセンターで買ってきたロープをリュックサックから取り出した。船を港に係留する時の結び方を参考にして根元に結わえ付け、もう片方の端は、腰に巻いた安全帯に通して固定する。

 千堂は、ロープを結んだ針葉樹の背後、結び目が見える位置に移動してきて、動かなくなった。

「そこで良いんですか?」ロープの張りを確かめながら、利玖は訊ねる。「駐車帯か、橋からご覧になられた方が良く見えると思いますよ」

「利玖さんが湖に入られるまでは、近くで見届けるつもりです」

 つまりは、土壇場で自分が逃げ出さないように見張っているというわけか、と利玖は納得した。

 利玖は再びリュックに手を入れて、銀箭の体組織を採取する為の針をケースから取り出す。今日、この時の為に美蕗が用意してくれた特注の道具で、市場には流通していないが、見た目と機能から言えばせいけんと呼ぶのが近い。

 すぐに使えるように、針を前方にして腕と脇腹の間に挟んだが、カバーは填めたままにしておいた。千堂とはまだ十分に距離が離れていない。万が一、後ろから襲われて奪い取られたら、逆に自分を脅す為の武器として使われてしまう。

 生検針を挟んで固定しているのは、左手。右手はロープを握って、ゆっくりと湖に近づいていく。

 危険なものは湖の中に潜んでいるとわかっているのに、なぜか、途中で空が見たくなって、利玖は視線を上げた。

 夜空は抜群に澄んでいる。元々、潟杜市自体、六百メートル以上の標高がある。雲がなければ、月も星もよく見えるのだ。冬場は特に、空気が冷たく透きとおって、こうして街明かりを避けて高い所にやってくると、星の瞬きがきりきりと音を立てて肌を刺すように銀河の遙か彼方の光が間近に感じられる。


 銀箭に喰われるという事は、たぶん、普通の死とはだいぶ違うのだろう。


 利玖はまだ、彼にまつわる伝承のほんの一部しか知らないが、そこから想起されるものは、雨、閉塞感、息がつまるような冷たい泥、そういった要素の数々で、こんな風にあまねく生きものに開かれた眩しい星空とは無縁の世界であるような気がした。

(これが見納めだとでも考えているのでしょうか)

 存外にセンチメンタルじゃないか、と苦笑して、利玖は再び湖に目を戻し、ゴーグルを装着した。

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