22話

 三人は和室を出て、廊下を奥へ進んだ。

 美蕗を先頭に、年齢順に並んで歩いていく。あの印象的な木製の螺旋階段が、初めは背後に見えていたが、廊下がゆるやかに左側へ曲がっている為、途中からは陰に隠れた。

 その辺りから廊下の造りも変わって、庭に向かって開けていた右側がぴったりと木の板で覆われ、光が入って来なくなる。明かり取りの小窓さえない。板の継ぎ目から辛うじて外光が射し込むが、今は雨が降っている為、ほとんど歩く助けにはならなかった。

 利玖の目には、前を歩く美蕗のセーラー服の襟に入った白いラインがぼんやりと浮かび上がって見える。真紅の打掛は闇に馴染み、暗く沈んでいた。

 誰も口をきかずに、百メートルほど進んだ所で美蕗が足を止めた。

 壁の方を向いて、セーラー服の胸元から細い鎖を引っ張り出す。最初に和室に来た時から首に下げていたようだ。鎖の先には、小さな輪がついて、金属で出来た鍵のような物と繋がっている。

 まるで彼女にだけ見える鍵穴が、そこにはっきりと現れているかのように、美蕗は何の迷いもなく鍵を壁に差し込んで回した。

 リーン、と澄んだ鐘のような響きが一度、どこかで鳴った。

 それが合図のように、壁に直線の亀裂が走り、周囲の板からずれた。ちょうど扉一枚分ほどの面積が、向こう側に押して開けられるようになっている。

 美蕗が先に中へ入っていき、扉を大きく開いて後ろの二人を招き入れた。

 飾りのない階段がまっすぐに下へ続いている。しかし、それ以外の事は──その階段がどこまで続いているのかも、周囲の造りがどうなっているのかも──まったくわからない。この足場から下には、光を透過しない潮が満ちているかのような、途方もない暗闇だった。

 美蕗が扉を押さえ、その間に利玖と史岐は通路の中に入る。先には進まずに、その場で立ち止まって、扉を閉めた美蕗が先頭に戻ってくるのを待った。

 廊下のわずかな明かりさえ入って来なくなっても、自分の爪先と階段の輪郭ぐらいは何とか見えた。あれほどまでに廊下が暗かったのは、この環境に早く目を慣れさせる為だったのかもしれない、と利玖は思う。

「下りたら完全な暗闇になるわ」美蕗が二人を追い越しながら言った。「右側の壁に触れられる? ……そう、二人とも、それで良いわ。階段が終わるまでは、そうして手をついたまま進みなさい。何が起きても、わたしが近くにいますから、決して騒いだり、後戻りしない事」

 進み始めると、美蕗の言った通り、格段に闇が深くなった。すぐそこにあるはずの自分の指先すら定かに見えなくなる。

 階段はずっと下っているが、いつまで経っても末端が見えない。勾配はさほど急ではないが、途中で何度か方向を変える。しかし、いずれもランダムな角度で、最初の入り口から正味どれくらい逸れたのか、すぐにわからなくなった。

 出来る事なら、右手も壁に沿わせるのではなく、前に突き出して進みたかったが、我慢して美蕗の言い付けを守った。感触は滑らかで、木に近いが、ほんの少し熱を持っているように感じる。

 せめてどのくらい時間がかかるのか聞いておけばよかった、と思ったが、そんな口を挟む暇などなかった気もする。しかし、いつまでもこの状況に考えを巡らせていると、恐怖で足がすくんでしまいそうで、利玖は思い切って息を吸い込み、タロット・カードを裏返すように思考を転換させた。


 現実から遮断され、ぽっかりと空いた意識の穴に、喫茶ウェスタで見た彗星の絵が現れた。


 やはり、魚の事がどうしても引っかかる。

 銀箭。潮蕊湖に封じられた、いにしえの神。

 それなら、やっぱりあれは、空を見て描かれたものではないのかもしれない。

 水の中……。

 そうか。

 湖の中を、巨大な光の球が尾を引いて漂っていたら、水中の生きものやごみが照らされて、あるものは影のように黒く、あるものは星のように光をはじいて瞬くのではないか。喫茶ウェスタの絵は、その光景を描き取った物なのかもしれない。


 鮮烈なコバルト・ブルーの色調が、記憶の底からもう一つの景色を汲み上げた。

 最初に蘇ったのは、その時、読んでいた本の感触。

 装丁は革だった。栞代わりに使う細い紐が、背表紙から下に垂れていた。

 それが何色をしていたか、思い出す前に、すぐ近くで起きた強烈な発光が記憶の大半を占有する。

 気付いた時には、自分の両手はもうその本を支えておらず、固い岩盤の地面に押しつけられていた。

──いったい誰に?


 ふいに清澄な空気が頬をなでた。

 はっと息をのみ、反射のように瞼を開く。

 いつの間にか目を瞑っていたらしい。力み過ぎていたのか、こめかみの辺りに、どく、どくん、と疼くような鈍痛があった。

 視界が戻るのと同時に、異常に速くなっている脈と呼吸に気づく。

 後ろから、小さな声で史岐に名前を呼ばれて、利玖は顔を半分だけそちらに向けた。

「大丈夫?」

 言葉で答える事は出来なかった。

 ぐったりとしたまま、一度だけ頷いて、利玖は前に目を戻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る