現在とは過去の結果である。
山田花子
第1話 レース後、午後16時
──十二月二十五日、十六時三分。
この国に未来はない。
べつに今日のメインレースを外して、なけなしの五万円が冬の空に溶けていったからでも。
クリスマス当日に、ひとり寂しくコンビニに向かっているからでもない。
断じて、そんな理由じゃない。
この国にはもう、クリスマスの朝に枕元を期待する子どもも、年の瀬に新しい一年を思って胸を躍らせる大人もいない。視界の先にあるのは、暗闇だけだ。
超高齢化と少子化は街から賑わいを奪い、資本主義の袋小路──格差社会は、雇われている限り埋まらない溝を生んだ。
一つ三万円のパンケーキを毎日食べていると豪語する議員がいる裏で、一日三百円で生きる庶民がいる。
税金は呼吸にまで課され、いまでは一日五十円。
ただ生きているだけで金が減る。「生きること」は罪。
稼げば罰金のような所得税。買い物をすれば罰金のような消費税……etc。
睡眠にすら税金がかかる。睡眠一時間十円。避けようがない徴収だ。
年金支給はついに八十五歳。月三万円。平均寿命七十八歳の国で。
もちろん定年なんて概念はもう無い。六十で仕事を退いて生きていけるのは勝ち組だ。そんな生き方を俺は、創作の中とテレビでしか知らない。
一方、嗜好品──とくにアルコールは税率が下がり、補助金まで入り、年齢制限もなくなった。
ビールのロング缶は五十円。ストロング缶は三十円。
朝の通学路では小学生がストロング缶をあおっている。
街は一日中酔っ払いで溢れ、電信柱の脇には吐しゃ物。
痛みを忘れるためだけに酒を胃に流し込み、転がるアルミ缶のカラカラという音を聞くたび、今の「当たり前」を思い知る。
ゆがんだ視界で、濁った思考で。
俺たちは何を考えるべきなのか。
もはやこの国で頼れるものはない。誰も当てにしてはいけない。誰かに期待してはいけない。誰かを望んではいけない。
国を握る連中はカルトと癒着し、富の独占と権力の維持だけが仕事になった。
どう逃げ切るか──それだけ。
誰しもがもう変わることを諦めている。
ちなみに今の総理大臣はカルト宗教の元首の孫だ。
その総理の政策と言えばギャンブル推進。
持たざる者は酒とギャンブルに溺れ、一発逆転の夢を見る。
そうしてすり減った人間をカルト宗教に落とすつもりなのだろう。
“信じれば救われる”。
かつての教訓じみた言葉は、人を陥れるための罠になった。
ふいに、目線がずっとつま先ばかりを見ていることに気づいた。
すり減ったコンバース。泥だらけ。
いい加減買い替えたいが、俺の金はついさっき消えたばかりだ。
顔を上げると、パリッと張ったスーツを着た老人が俺に手を振っていた。
どこのブランドかは知らないが値は張るだろう。
俺の苦悩なんて一生わからないに違いない。
「やあ、そこの君。そう、君だ。浮かない顔をしている。負けたんだろう? 今のレース」
親しげに話しかけてくる老人の顔は、逆光でよく見えなかった。
「今日も、私の話を聞いてくれないだろうか?」
……今日も?
俺は面倒な予感がして視線をそらし、胸ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出す。
「おいおい、無視しないでくれ。このジジイの話を聞いてほしいんだ。それに……」
老人は言いかけて口を閉じた。白い手袋の手が震え、額には大粒の汗。
「……君にとって、有意義な時間になる」
絞り出すような声だった。
もちろん、見ず知らずの老人の話に付き合うタイプではない。
俺はアポ無しの来客に絶対対応しない。NHKの徴収員も保険代理店も、最近では来なくなった。
うつむいて大股で老人の脇を通り過ぎようとした時、老人の声が背中に刺さる。
「単勝1.7倍、負ける要素はなかったはずだ。調教も良い。臨戦過程も完璧。当日のパドックで勝利を確信しての頭固定──三連単十点、五万円勝負。……だが十六着。自暴自棄にもなるさ」
俺の頭の中を読まれている。
「『俺の頭の中を読まれている』」
老人がそのまま言った。
コンバースから老人へ視線を上げる。逆光が痛い。目をこすっても顔は見えない。
「取り戻したいと思わないかね?」
──ああ、そういう事か。
一瞬湧き上がった期待が霧散した。
当てはまることを言っているだけの、よくある手口。バーナム効果。
期待した自分が急に恥ずかしくなる。
「残念だが、バーナム効果じゃない。本当にできるんだよ。私や──君のような人間ならね」
そんなうまい話があるものか。
「『そんなうまい話があるわけがない』」
また言った。
老人は続ける。
「まあ、その通り。こんなうまい話が転がっていたら人生苦労しない。この時間帯は特にね。駅前で座談会に来ませんかと五分に一回声をかけられる。私もここへ来るまで五回誘われたよ」
老人は遠くを見た。その顔はいまだ見えない。
「時に──君は、この世界をどう思っている?」
「……地獄のような国。未来がない、終わった国です」
「概ね正しいだろうね。……これでも昔よりは良くなったのだが」
「俺は昔のほうが──」
「そうでもない。昔がどこを指すかにもよるがね」
老人の目は、街全体を見て泣いているようだった。
「さて、本題に入ろう。取り戻したいと思わないかね?」
……いいえ、と答える奴がいるだろうか。
老人はくつくつ笑う。
「私も初めて言われた時、そう答えたよ。だから君の気持ちは分かっている」
そう言って老人は胸ポケットから一本の万年筆を取り出した。
金色。背の部分にはダイヤル。
やけに長い。
「言いたいことは分かっているよ。本当は目の前で証明したいが、難しくてね。なにせ、誰かに話したのは君が初めてだ」
「……どうして俺に?」
「どうして、か……」
老人は白髪をかいた。
「たとえば、どこか遠い目的地へ向かうとしよう。飛行機で向かう人もいれば、新幹線の人もいる。どれも、いずれは目的地に着く。……だが、私は“新幹線”だった」
意味が解らない。
「分からなくていい。いずれ分かる。ここが、私にとっての目的地なんだ」
この路地裏が?
俺があたりを見渡すと、老人は続けた。
「ここが“目的地”ということに意味がある」
「……やっぱり分かりません」
「だから君が受け取るんだよ。そのペンを」
皺だらけの手が、万年筆を俺の手に押し込んだ。
「このペンで、過去へ行ける」
「は?」
「過去へ行けるんだ」
老人は繰り返した。
「こんなものがタイムマシンだと?」
「そうだ。使い方は分かるかね?」
首を振る。
「ダイヤルを行きたい“過去の時間”に合わせ、行きたい場所を思い浮かべる。そして五秒、目を閉じる。すると君はそこに現れる。……今はやらないように。まだ重要なことがある」
「重要なこと?」
「ルールだ。これだけは破ってはいけない」
老人は静かに言った。
俺は息を呑んだ。
「一つ。未来へは行けない。だから戻る時は、必ず“出発した瞬間”に戻ること」
「なぜです?」
「二つ目に関わる」
老人は続ける。
「二つ。過去の自分に接触してはならない。君は、今日──この時刻にタイムマシンの存在を知った。つまり“今”が生まれた瞬間だ」
乾いた笑いが出た。
「過去の自分と出会えば矛盾が生じ、世界の修正力によって君は消える。つまり死ぬ」
俺は背筋が冷えた。
「三つ。過去で深く認識されてはならない。名指しで大きく注目されるな、ということだ。指名手配、有名人……そのへんは危険だね」
「曖昧すぎません?」
「曖昧だよ。だから探ってみるんだ」
「命がけじゃないですか!」
「命がけだとも」
老人は笑って、水を飲んだ。
「最後に……“過去で人を殺すな”。これは必須ではないが、守ったほうがいい」
「バタフライエフェクト」
「そう。何にどう影響するか分からない」
「じゃあ俺が馬券を当てても──」
「影響がないとは言えない。ただ、私にも分からない。神ではないからね」
老人は話を締めに入った。
「……ところで君の名前を聞いてなかった」
「山田楓です」
「そうか、山田君。いい名前だ」
「どこにでもある名前ですけど」
「そうだね」
否定はしないのかよ……と思ったが飲み込んだ。
老人は立ち上がる。
「私はそろそろ行くよ。疲れてしまってね」
「最後に──名前を教えてください」
「私かい? そうだな……サンジェルマン、とでも呼んでくれ。愛をこめて」
「ふざけ──」
言葉の途中で夕陽が目に入った。まぶしさに目を閉じる。
再び開くと、そこには誰もいなかった。
「……どう見てもアジア人の顔つきだったよなぁ」
現在とは過去の結果である。 山田花子 @newdayz
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