「――おい、いいのか。息子だろう」

「んー?」

 ふわりと空気が揺れて、隠形した大嶽丸が横に降り立った。

 男は静かに髪を揺らし、眼下の景色を眺める。


 現、そして初代閻魔大王。


 数万年の時をかけて、たった一人地獄の頂点に君臨し続けた人物。

「手を貸してやらないのか?」

 その男はちらりと大嶽丸を一瞥し、再び眼下の戦と火亜に視線を下ろした。

「確かに私の業火があれば、彼女を助けることは簡単だ」

 そのてのひらに一瞬で火が燃え上がり、そしてパッとかき消える。

「だが、自分で助けに行きたいのだろう? 火亜」

 火を消した手でそのまま頬杖をつき、彼は立ちすくむ息子を眺める。

 その頭の中で、今、必死に最善策をたたき出しているのであろう我が子を。

「私が横からいらぬ世話をかけようものなら、ますます嫌われてしまう。それに、いい機会だ。――お前の『業火』を、見せてみなさい」



 パチッ。

 高速で回転していた頭から、策が弾き出される。


 火亜の瞳が、ふわりと開いた。



「全員、神殿の中に入れ!」

 聞こえていないはずの父の、閻魔大王の声に呼応するように、小さく息を吸った火亜の口から指示が飛んだ。

 その手には、白地に赤く【響】と記された札が握られている。

「神殿の中に、地獄の各階に通じる無間の穴がある! そこから等活地獄と黒縄地獄に避難を――絶対に塀の外には出るな!」

 火亜は矢継ぎ早に指示を出す。

「酒呑童子と大嶽丸は僕の護衛を離れ、避難する人の誘導と安全確保に全力をかけろ! ただの一人も怪我人を出すな!」

「お呼びのようだ。俺はもう行く」

 閻魔の隣の気配がざっと立ち上がり、そして一瞬のうちにかき消えた。

 大きく開かれた神殿の扉に押し寄せる人の大きな波にさからって、火亜はうずくまったままの戦に向かって駆ける。



「――戦」

 ……ああ。

 ああ、やっぱり。

 やっぱりこうして来てくれる。来てしまうんだ。

 私がどうしようもなく辛いときに、一番傍にいてほしくなくて、一番傍にいてほしいときに、いつもそうやって、駆けつける。

 それが嬉しくて、苦しくて、切なかった。

 どうしてそんなに、優しいのだろう。

 薄暗い感情と声に呑まれかけていた戦は、必死に口元を抑えたままぼんやりと顔を上げた。

 ふわりと優しい風が吹いて、火亜が息を整えながら袖を翻し戦の前にしゃがみ込む。

 確かに目線を合わせて、ぼやける輪郭を捕まえる。

「戦。手を離して」

「……」

 戦は視線を外して俯いた。

 ひあさまが、と、てのひらの向こうでそう零したのがわかった。

「僕は大丈夫だ。絶対に傷ついたりしない」

 小さく首を横に振る。唇を塞ぐてのひらに、ぎゅっと力をこめる。

「戦。僕は、自分の体に何かあれば、地獄を揺るがしかねないことをわかっている。だから簡単に自分を捨てはしないし、かすり傷ひとつ作るつもりはない。絶対に大丈夫だから――」

 戦の顔を覗き込む。言葉を探して、言葉を求めて、言葉を選んで、もがいて、掴む。

 不安そうに強張る瞳を、熱い火が静かに燃える瞳で正面から見据えた。



「ごめんね、戦。僕を許して」



 目の前に、火亜だけが居た。だから戦は、世界中から音が全部なくなって、目の前が真っ白に染まって、震えながら確かに響くその声だけが聞こえたような、そんな気がした。

 戦がぐっと涙を押しとどめる。

 てのひらを、はずす。

 けほっと黒い泡が吐き出された、その瞬間。

 戦の体を、どぷりと闇が吞み込んだ。

 霊が戦を取り込んで、荒れ狂う風とともに全身を現す。

「――――!」

 解放された霊は巨大な体を伸ばして、声にならない声を叫んだ。手を振り上げて叩きつけ、呪力を纏った長い爪が地面を抉る。

 爆風に火亜の髪が揺れる。

 火亜は微動だにせずしゃがみこんだままだ。乱れて踊る前髪の向こうから、澄み渡った瞳で真っ黒な巨大な体を見据える。その向こうにいるはずの、小さな体を。

 霊がもう一度腕を振りかぶる。

 火亜の唇が開いて、ふっと短く息を吸った。





『――やめろ』

 ありったけの言霊ことだまが、霊に叩きつけられる。

 一瞬で、耳鳴りがするほどの張り詰めた静寂が訪れた。

 嵐に嬲られて怒り狂っていた海が、一瞬で鏡の如く凪いだ時のような静けさだった。

 それは戦うすべを持たない火亜の胸に宿る、たったひとつの武器。

 火亜にしか出せない言霊だ。生まれ持った血筋ばかりでなく、人よりもずっと言葉を重く見て、大事に扱う火亜だからこそ。

 重さと深さを、最大限まで引き出された言の葉だ。

 風がやんで、霊が言葉に縛られたように止まっている。

 火亜はひとつ息を吸い込んで立ち上がると、霊の体内の昏闇に、ずぶりと足を踏み入れた。



「相変わらず、凄い言霊だな」

 閻魔大王の隣に、今度は役目を終えて隠形した酒呑童子がふわりと降り立った。

 閻魔大王は、火亜と戦を取り込んで動かない霊を見下ろしたままだ。

「あれほどの威力は、お前でも出せないだろう」

 そう続ける酒呑童子をちらりとも見ずに、閻魔大王が答える。

「当たり前だよ。私は嘘が好きだけど、あれは誠実だからね。いつも感謝と謝罪をひとつひとつ大切にして、言葉を積み重ねているから」

 そして何より、言葉に救われた過去があるからこそ。

 言葉が持つ力を、あれは誰より知っている。

「火亜は言葉を信じていて、言葉も火亜を信じている。だからいざというときに力を貸すんだ。あれは間違いなく、火亜が自分自身の手で掴み取った武器だよ」

 閻魔大王は、手の甲に顎を乗せて呟いた。

「それにしても、予想外だったな……」

「鬼頭の娘がか?」

 おもむろな頷きが返される。

「霊が彼女に取り憑いてしまうと、あとで息子が怖い」

「ただでさえ嫌われているのにな」

 酒呑童子が肩を揺らしてくつくつと笑った。

 とはいえ口では予想外と言っていても、戦の生死ではなく息子の反応を気にしているあたり、確実にどうにかなると思っている……いや、どうにかすると信じているのだろう。

「まあ、個人的にも、彼女はできれば巻き込みたくなかった」

「……ああ、そういえばそうか。それは悪いことをした」

 そう言いながらもまったく悪びれた様子がないのは、酒呑童子もなんとかなると思っているからだ。

「酒呑童子、なぜ彼女を中に入れた?」

 閻魔大王のといに、酒呑童子が隠形したまま、ふわりと首を傾けた。さらりと長い髪が揺れる。

「玉藻ちゃんが、入れてやれと言った。――それで十分だろう」

「ああ、なるほど、玉藻前が……それなら何とかなるか……」

 日本三大悪妖怪が一人、三千年近い時を生き続けた最強の妖狐・玉藻前――彼女がいざというときに、判断をたがえたことはない。

「まあ酒呑童子なら、何とかなる状況じゃなかったとしても断れなかったと思うけど」

「おい、どういう意味だ」

「え、言わせたいの?」

 酒呑童子の手元でキンッと涼やかに、鯉口を切る音がした。

「それにしても火亜はよくわかっている」

 閻魔大王は酒呑童子から目を逸らして、無理やり話題を変えた。

 そのまま、すっと真剣な気配を身に纏う。

「あの霊は非常に攻撃的で危険だ。自分に万が一のことがあれば、地獄は崩れかねない。けれどかといって、それを避けて安全な場所で立ちすくむだけでは、大事な人は救えない」

 閻魔大王が静かな声音で語るのを、酒呑童子は黙って聞いている。

「地獄やそこに生きる大多数と、自分の一番大切な人を秤にかけた場合、果たしてどちらを選ぶべきか。犠牲にすべきは多数の命か、少数の命か――それは人間にとって、終わることのない問だ。だが閻魔大王なら、その名を冠する者なら、その二択ではない選択を掴み取れる」

 閻魔大王は自分のてのひらを見下ろして、ふっと微笑んだ。

「どちらも救う――やはり、私の息子だね。思考回路が同じだ。問題は実現できるかどうかだが……なに、我が子の力を信じようじゃないか。、閻魔大王の座は、まだ火亜にある」

 できるさ。

 だって火亜は、まさにその秤から、初代閻魔大王の手で掴み取られて生まれてきたのだから。

――いや、

「私の手で、だね」

 地獄の頂点に立つ男は目を閉じると、左手の薬指に右手を添えた。

 肩まで伸びた緩やかな金髪が、はらりと紅い道服に落ちる。

 赤い瞳が、ゆっくりと開いた。


 閻魔大王。古代インドの神として伝わる彼は――


 本来の名を、ヤマという。

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