6
「――おい、いいのか。息子だろう」
「んー?」
ふわりと空気が揺れて、隠形した大嶽丸が横に降り立った。
男は静かに髪を揺らし、眼下の景色を眺める。
現、そして初代閻魔大王。
数万年の時をかけて、たった一人地獄の頂点に君臨し続けた人物。
「手を貸してやらないのか?」
その男はちらりと大嶽丸を一瞥し、再び眼下の戦と火亜に視線を下ろした。
「確かに私の業火があれば、彼女を助けることは簡単だ」
そのてのひらに一瞬で火が燃え上がり、そしてパッとかき消える。
「だが、自分で助けに行きたいのだろう? 火亜」
火を消した手でそのまま頬杖をつき、彼は立ちすくむ息子を眺める。
その頭の中で、今、必死に最善策をたたき出しているのであろう我が子を。
「私が横からいらぬ世話をかけようものなら、ますます嫌われてしまう。それに、いい機会だ。――お前の『業火』を、見せてみなさい」
パチッ。
高速で回転していた頭から、策が弾き出される。
火亜の瞳が、ふわりと開いた。
「全員、神殿の中に入れ!」
聞こえていないはずの父の、閻魔大王の声に呼応するように、小さく息を吸った火亜の口から指示が飛んだ。
その手には、白地に赤く【響】と記された札が握られている。
「神殿の中に、地獄の各階に通じる無間の穴がある! そこから等活地獄と黒縄地獄に避難を――絶対に塀の外には出るな!」
火亜は矢継ぎ早に指示を出す。
「酒呑童子と大嶽丸は僕の護衛を離れ、避難する人の誘導と安全確保に全力をかけろ! ただの一人も怪我人を出すな!」
「お呼びのようだ。俺はもう行く」
閻魔の隣の気配がざっと立ち上がり、そして一瞬のうちにかき消えた。
大きく開かれた神殿の扉に押し寄せる人の大きな波にさからって、火亜は
「――戦」
……ああ。
ああ、やっぱり。
やっぱりこうして来てくれる。来てしまうんだ。
私がどうしようもなく辛いときに、一番傍にいてほしくなくて、一番傍にいてほしいときに、いつもそうやって、駆けつける。
それが嬉しくて、苦しくて、切なかった。
どうしてそんなに、優しいのだろう。
薄暗い感情と声に呑まれかけていた戦は、必死に口元を抑えたままぼんやりと顔を上げた。
ふわりと優しい風が吹いて、火亜が息を整えながら袖を翻し戦の前にしゃがみ込む。
確かに目線を合わせて、ぼやける輪郭を捕まえる。
「戦。手を離して」
「……」
戦は視線を外して俯いた。
ひあさまが、と、てのひらの向こうでそう零したのがわかった。
「僕は大丈夫だ。絶対に傷ついたりしない」
小さく首を横に振る。唇を塞ぐてのひらに、ぎゅっと力をこめる。
「戦。僕は、自分の体に何かあれば、地獄を揺るがしかねないことをわかっている。だから簡単に自分を捨てはしないし、かすり傷ひとつ作るつもりはない。絶対に大丈夫だから――」
戦の顔を覗き込む。言葉を探して、言葉を求めて、言葉を選んで、もがいて、掴む。
不安そうに強張る瞳を、熱い火が静かに燃える瞳で正面から見据えた。
「ごめんね、戦。僕を許して」
目の前に、火亜だけが居た。だから戦は、世界中から音が全部なくなって、目の前が真っ白に染まって、震えながら確かに響くその声だけが聞こえたような、そんな気がした。
戦がぐっと涙を押しとどめる。
てのひらを、はずす。
けほっと黒い泡が吐き出された、その瞬間。
戦の体を、どぷりと闇が吞み込んだ。
霊が戦を取り込んで、荒れ狂う風とともに全身を現す。
「――――!」
解放された霊は巨大な体を伸ばして、声にならない声を叫んだ。手を振り上げて叩きつけ、呪力を纏った長い爪が地面を抉る。
爆風に火亜の髪が揺れる。
火亜は微動だにせずしゃがみこんだままだ。乱れて踊る前髪の向こうから、澄み渡った瞳で真っ黒な巨大な体を見据える。その向こうにいるはずの、小さな体を。
霊がもう一度腕を振りかぶる。
火亜の唇が開いて、ふっと短く息を吸った。
『――やめろ』
ありったけの
一瞬で、耳鳴りがするほどの張り詰めた静寂が訪れた。
嵐に嬲られて怒り狂っていた海が、一瞬で鏡の如く凪いだ時のような静けさだった。
それは戦う
火亜にしか出せない言霊だ。生まれ持った血筋ばかりでなく、人よりもずっと言葉を重く見て、大事に扱う火亜だからこそ。
重さと深さを、最大限まで引き出された言の葉だ。
風がやんで、霊が言葉に縛られたように止まっている。
火亜はひとつ息を吸い込んで立ち上がると、霊の体内の昏闇に、ずぶりと足を踏み入れた。
「相変わらず、凄い言霊だな」
閻魔大王の隣に、今度は役目を終えて隠形した酒呑童子がふわりと降り立った。
閻魔大王は、火亜と戦を取り込んで動かない霊を見下ろしたままだ。
「あれほどの威力は、お前でも出せないだろう」
そう続ける酒呑童子をちらりとも見ずに、閻魔大王が答える。
「当たり前だよ。私は嘘が好きだけど、あれは誠実だからね。いつも感謝と謝罪をひとつひとつ大切にして、言葉を積み重ねているから」
そして何より、言葉に救われた過去があるからこそ。
言葉が持つ力を、あれは誰より知っている。
「火亜は言葉を信じていて、言葉も火亜を信じている。だからいざというときに力を貸すんだ。あれは間違いなく、火亜が自分自身の手で掴み取った武器だよ」
閻魔大王は、手の甲に顎を乗せて呟いた。
「それにしても、予想外だったな……」
「鬼頭の娘がか?」
おもむろな頷きが返される。
「霊が彼女に取り憑いてしまうと、あとで息子が怖い」
「ただでさえ嫌われているのにな」
酒呑童子が肩を揺らしてくつくつと笑った。
とはいえ口では予想外と言っていても、戦の生死ではなく息子の反応を気にしているあたり、確実にどうにかなると思っている……いや、どうにかすると信じているのだろう。
「まあ、個人的にも、彼女はできれば巻き込みたくなかった」
「……ああ、そういえばそうか。それは悪いことをした」
そう言いながらもまったく悪びれた様子がないのは、酒呑童子もなんとかなると思っているからだ。
「酒呑童子、なぜ彼女を中に入れた?」
閻魔大王の
「玉藻ちゃんが、入れてやれと言った。――それで十分だろう」
「ああ、なるほど、玉藻前が……それなら何とかなるか……」
日本三大悪妖怪が一人、三千年近い時を生き続けた最強の妖狐・玉藻前――彼女がいざというときに、判断を
「まあ酒呑童子なら、何とかなる状況じゃなかったとしても断れなかったと思うけど」
「おい、どういう意味だ」
「え、言わせたいの?」
酒呑童子の手元でキンッと涼やかに、鯉口を切る音がした。
「それにしても火亜はよくわかっている」
閻魔大王は酒呑童子から目を逸らして、無理やり話題を変えた。
そのまま、すっと真剣な気配を身に纏う。
「あの霊は非常に攻撃的で危険だ。自分に万が一のことがあれば、地獄は崩れかねない。けれどかといって、それを避けて安全な場所で立ちすくむだけでは、大事な人は救えない」
閻魔大王が静かな声音で語るのを、酒呑童子は黙って聞いている。
「地獄やそこに生きる大多数と、自分の一番大切な人を秤にかけた場合、果たしてどちらを選ぶべきか。犠牲にすべきは多数の命か、少数の命か――それは人間にとって、終わることのない問だ。だが閻魔大王なら、その名を冠する者なら、その二択ではない選択を掴み取れる」
閻魔大王は自分のてのひらを見下ろして、ふっと微笑んだ。
「どちらも救う――やはり、私の息子だね。思考回路が同じだ。問題は実現できるかどうかだが……なに、我が子の力を信じようじゃないか。泰山府君に就任していない今、閻魔大王の座は、まだ火亜にある」
できるさ。
だって火亜は、まさにその秤から、初代閻魔大王の手で掴み取られて生まれてきたのだから。
――いや、
「私たちの手で、だね」
地獄の頂点に立つ男は目を閉じると、左手の薬指に右手を添えた。
肩まで伸びた緩やかな金髪が、はらりと紅い道服に落ちる。
赤い瞳が、ゆっくりと開いた。
閻魔大王。古代インドの神として伝わる彼は――
本来の名を、ヤマという。
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