5
青年が出て行った入れ替わりに、一人の女性が顔を見せる。肩まで伸ばした髪に、質素な服装、化粧っけがない穏やかな顔立ち。今までの死者たちとは違った雰囲気の人だ。
彼女がおずおずと立ち止まると、火亜の口が開いた。
「司命、彼女の罪は」
火亜は仕事中は、叡俊と夾竹桃を役職で呼ぶ。叡俊が手元の巻物を開いた。
「
罪状と判決文を聞いた火亜は、佳穂に視線を合わせる。
「上原佳穂。最後に、僕――閻魔大王に話しておくことはあるかい? 罪状の免除を望むならそれもいいし、反論も聞く。判決に関わることではなくても、現世にいる人に言い残したこと、伝え忘れたこと、なんでもかまわないよ」
それを聞いて、佳穂は目を瞠った。薄い色の唇から、呆然とした声が漏れる。
「……なんでも、どんな願いでもいいのでしょうか」
またさっきの男のように言い訳をして、地獄行きを回避するつもりだろうと戦は思った。そういえば一人目の女性は、「なんで蚊を殺しただけで、地獄に行かなきゃいけないのよ!」と取り乱していた。
人間にとって害でも、そこには命があって、感情があって、生きている誰かがいる。それを火亜が説明しても全く聞かずに掴みかかろうとしていたので、その場で戦が大人しくさせた。ちなみに、どう大人しくさせたかについては省略させていただく。
戦が記憶を巻き戻している間、火亜は真剣な瞳で佳穂と向き合っていた。
「叶えられるかどうかは保証できない。でも、本当に伝えたいことがあるなら、僕は誠意をもって聴かせてもらう」
「……っじゃあ」
佳穂が、深く深く頭を下げた。
「お願いします……! 後からここに来る、私の子を……どうか、幸せな場所に、生まれ変わらせてあげてください……!」
いつでも火亜を護れるよう身構えていた戦は、その言葉に目を見開いた。
火亜は静かな瞳で、佳穂を見ている。優しいひとを見る目だった。
「その人が悪事を何もはたらいていないなら、問題なく地獄行きは回避できるよ」
「いえ、あの子は……あの子は、中学の時、同級生の子と喧嘩をしてしまって。でも、どうか、天国に行かせてあげてください……!」
佳穂は火亜を見ている。でもその瞳が見ているのは、佳穂が想っているのは、たった一人だった。
自分が天国に行けるかもしれないそのときに、迷いなく相手の未来を選べるほどの、なにより大切な家族だった。
「クラスの子を殴ってしまったのは、私のことを馬鹿にされたからなんです。自分のために暴力をふるったわけじゃないんです。だから、お願いします……地獄に、堕とさないであげてください……」
声を詰まらせながら、佳穂はお願いします、と何度も何度も頭を下げる。
「あの子は、私を守ろうとしてくれて……ただそれだけなんです……力の強い子だったけど、いつも、大切な誰かのためを想って、それで。頭に来たとか、自分勝手な理由で喧嘩したことなんか、一回もありませんでした。もしも会ったら乱暴に思うかもしれないけど、本当に、本当にあの子は、家族思いで……優しい子なんです……」
ぱしゃんと、小さな涙が床に落ちた。
佳穂は必死に願っていた。
それは言葉通り、自分の死の行く末を後回しにして、ここにたったひとつやってきた、命のすべてで。
「……自分の転生先や判決については、なにか言うことがないのかい? 本当に、それだけ」
「はい」
佳穂は嗚咽をのんで、火亜が言い終わらないうちにまっすぐに頷いた。
「自分の幸せよりも、ずっと――私は、大切な息子の幸せが嬉しいんです」
誰より幸せになってほしい。
自分のことなど、どうでもいいから。
あなたにだけは。地獄になんて行かずに、死ぬまでずっと、死んでからもずっと、ただひたすらに幸せになってほしい。
あなたの未来に、優しくて眩しくて穏やかな光が、ずっとずっと在ってほしいと。
心の底から、そう願っている。
「それを……幸せを願っている人がいることを、あなたの子がもしも死んでこの場にやってきたら、僕は伝えたほうがいいかな」
「……いえ」
佳穂は首を横に振ろうとして、だけどそこで立ち止まる。
「いえ、やっぱり……はい。ただ……ただ、お母さんはいつもあなたのことを想ってるよって、それだけ、伝えてください」
涙をぬぐい、佳穂は笑った。戦が知らない顔をしていた。母親の顔だ。
自分よりもずっと深く子を愛する、親の笑顔をしていた。
「あなたと出会えて、あなたのお母さんになれて、私は幸せだよって。本当に、嬉しかったよって。そう、言ってください」
「――わかった」
火亜がすっと立ち上がり、胸に手を当てて、小さく頭を下げた。
「上原佳穂さん。あなたの願いは、閻魔大王が聞き届けた。僕の力が及ぶ限り、あなたの息子が地獄には堕ちないよう、力を尽くそう。そしてもしも彼が、ここへやってきたら――あなたの言葉は、必ず伝える」
佳穂の目が、大きく見開かれた。ぼろぼろと、大粒の涙が、やせた頬を伝い落ちる。
「……よかっ、た……」
力が抜けたように、佳穂はその場で膝をついた。しゃがみこんで、止まらない涙を何度もぬぐって、小さな子供のように泣いていた。
「……ありがとう……ありがとう、ございます……」
「いいや」
火亜は目を閉じて、優しく微笑む。
「僕のほうこそ、ありがとう」
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