第25話

「大丈夫、目を開けてみて」


のほほんとした喜八きはちの声で言われて、守流まもるは言われた通り目を開ける。


目に映るのは変わらずまだらに濁ってうねる泥水であるのに、自分の周りの僅かな空間だけは、微温ぬるい湯が揺蕩たゆたっているようだった。

あれ程苦しかったのに、今は少しも苦しくない。

何故か湯船に浸かっているような感覚で、身体がふわふわとした。


「……夢?」


不思議と声も出せた。

籠もった変な声だったけれど喋れて、空気もないはずなのに、息も詰まらない。


「……もしかして、僕はもう死んでる?」

「違うよ、マモル。ちゃんと生きてる」


笑いながら言われた言葉にハッとして、守流は急いで喜八の姿を探す。

濁った視界の中に、垂れた細目の喜八の顔が、うっすらと見えた。


しかし、その姿はいつも用水路で見ていた少年の姿ではなかった。

ザンバラ髪に、小さな皿があるのは同じだが、白い身体は透けていて、体操服はもう身に着けていない。

それどころか、顔も身体もと分るのに、その輪郭はあやふやで今にも溶けて消えそうだった。


―――まるで、もう見える身体が消えたみたいに。


「喜八…、その姿……もしかして……」

「へへ、、ずっと早く動けるんだもん」

「じゃあ、僕を助けるために……?」

「うん、マモル、助けてって呼んだでしょ」


今までの姿では、同じ町内くらいなら移動出来るが、それ以上は簡単に移動出来ないのだと言っていたはずだ。

喜八は守流を助けに来るために、人間に見える姿を捨ててここに来てくれたのだ。


「また元の姿に戻れるんでしょ?」

「戻れるよ、マモルもチヤコも、河童オレのこと信じてくれてるからね。でも、もう戻らない」

「どうして!?」

「あの姿を無くしても、皆が繋がってるって分かったから」



喜八は垂れた目尻を一層下げて笑った。



「姿を消して、水に溶けて、分かったんだ。皆、にいる。仲間も、カンシチも」


喜八はゆらゆらと消えそうな胸を両手で押さえた。


「マモルも、チヤコも、タクトも、町田のじいちゃんも皆。大事だよって思われた気持ちは、ずっとなくならずに一緒にあるんだ。世界中、皆、こうやって想いは繋がるんだね」


笑う喜八の顔は、濁った水の中だというのに、とても輝いて見えた。


「だから、寂しくない。寂しくないよ、マモル。オレは大丈夫。マモルとも、ちゃんと繋がってる。これからも、繋がってるよ!」




喉が詰まったみたいに、何も言葉が出ない守流の手を、喜八が握る。

じんわりと温かな感触があった。

どこかで触れたことがあるような感覚。


「さあ、へ戻ろう」


喜八が手を引くと、守流の身体を後ろから同じような感触のものが押す。

喜八の仲間達のような気がしたが、勘じいちゃんの大きな手のような気もした。

そして、母さんの柔らかな手、父さんの固い手、望果みかの少し小さな手のような気も。




繋がってる。

誰かの気持ちが、全部、全部。

僕を、僕の生命を、応援している。




「…………思い出したよ、喜八」


言いたいことがあまりにもたくさんありすぎて、考えがまとまらず、何を口にすれば良いか分からない。

今までなら口を閉じてしまっただろう。

それでも、守流は必死に言葉を探した。

とにかく、伝えるのだと、口を開く。


「僕、勘じいちゃんのことを思い出したんだ。全部思い出した。喜八のおかげだよ。ありがとう」

「良かった。カンシチ、喜んでるな」


喜八が再び手を引くと、守流の足が一歩前に動いた。

ぐんと引かれて、更に一歩出る。

周りの濁流をものともせず、守流は喜八に引かれるまま、後ろから温かな何かに押されるまま、足を動かした。


「マモル、走って」


守流の足は、前へ前へと動く。

濁流に逆らい、それでもスピードを上げて、前へ前へ。


「喜八。喜八! 僕、喜八が大好きだよ!」


喜八は、くふふ、と嬉しそうに笑う。


「オレも! マモルが大好き!」




ぐんぐんスピードを上げる守流に並び、喜八は楽しそうに声を上げて笑う。


かけっこだ!

マモル、かけっこだよ!

一緒に走れて、オレ嬉しい!


うん、僕も嬉しい。

ありがとう。

ありがとう、喜八。

ずっと、ずっと忘れないから――。


守流は走った。

喜八の手が離れても、自分の足で、力一杯に。






―――守流が目覚めたのは、用水路に落ちた日の夕方で、病院のベッドの上だった。


大きな怪我や身体に異常がないと分かると、父さんに散々叱られて、母さんと望果に散々泣かれて、そして無事で良かったと、恥ずかしい位に抱きしめられて撫でられた。



守流が用水路に落ちた時、たまたま橋の上を歩いていた人が目撃して、110番通報してくれた。

泣き叫ぶ望果に気付いて、町田さんや近所の人も出てくる中、橋の下に用水路が潜る寸前の道路に、守流は自力で手を掛けて水中から顔を出したのだという。

消防士が駆け付けた時には、守流の身体を近所の人達がアスファルトの上まで引きずり上げたところだった。


自力で水面に顔を出さなかったら、引き上げが遅くなって助からなかったかもしれない。

そんな話を聞かされたが、守流は喜八と必死に走ったところまでしか覚えていなかった。


勿論そんなことは、母さんと、見舞いに来てくれた拓人たくと以外には話せなかったが。




守流は念の為一日入院して色々と検査をし、翌日の夜には自宅に帰った。


家に帰ってすぐ、守流は母さんに頼んで、アルバムから一枚の写真を貰った。

学習机の前の壁にその写真を貼り、写真の中の大好きな人に向かって言う。


「ただいま、勘じいちゃん」


大きく口を開けて、勘じいちゃんは笑っている。




∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷∷


次話で完結です。

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