第32話



 ワレスは迷った。見たい瞬間は二つある。どちらも同時に脳裏に浮かんだ。ルーシサスを亡くしたあの瞬間。それに、ハシェドとの未来だ。


(おれはやはり、いつもの運命どおり、ハシェドを失うのか? それとも何かの方法でやりすごすのか? それがはたして、できるのか?)


 でも、もし、ハシェドを殺す運命であるなら……。

 未来を見るのは怖かった。それを見る勇気が出ない。もし、ハシェドが明日にでも死ぬとわかれば、ワレスは生きていられない。そのくらいなら、何も知らないほうがいい。未来を変える方法があるというのなら、話は別だが。


(未来を変える? 未来を……過去を?)


 過去を変える? ルーシサスを死なせない方法は一つだけある……。


 そう思うと、もうとめられなかった。けんめいに周囲の窓に目を走らせて、その瞬間を探した。

 皇都でジゴロをしていたワレス。ジェイムズと再会する前の五年間。さらに前のすさんでいたころ。野良犬みたいに毎晩、街路をさまよっていた。子どものワレスが軽蔑しきっていた父親のように、あびるほど酒を飲み、誰彼なくケンカをふっかけ、いかがわしい薬にふけっていた。それでも、ルーシサスを亡くした悲しみはまぎらわせなかった。


(もっと前だ。学校を卒業して半年だけ官吏をしていた。学校の卒業式。すでにルーシサスは死んでいる。あと少し。太陰の月。ルーシサスの誕生日。十六の誕生日をルーシサスは生きて迎えられなかった。年初め。喪に服した太陽の月。年の瀬の冬休み。アウティグル伯爵家ですごした長い休暇……)


 順を追って時間をさかのぼる。ふいに、涙がこみあげてくるのを感じた。


(いた……)


 ルーシサス——

 ワレスが愛したままのあの少女のような繊細な姿が、そこにあった。あの日だ。ワレスがルーシィと言葉をかわした最後の日。川べりで少年のワレスと話している。


(会いたかった。ルーシィ……)


 ずっと、ずっと、おまえに言いたかった。

 あのとき間違えた答えを。ほんとの言葉を。


 ワレスはその一瞬をいつくしみ、光の球の外縁を両手でなぞった。すると、それは水面のように、やわらかく、さざなみだった。なぞる手が水鏡に映る景色のなかへ沈んでいく。


(こえられる)


 行ける。球のむこうへ。

 ワレスは確信して、思いきって窓枠をこえていこうとした。外縁に足をかけ、そのなかへとびこもうと——


「いけません!」


 その瞬間、誰かの手がワレスの腕をつかんだ。とつじょ、夢からさめたように、ワレスは石造りの城の一室にいた。青い光の球は消えている。


「おれは……」


 もう少しでとどきそうだった。あの日、失われた大切なもの。だが、目の前にハシェドの顔を見ると、むしょうにホッとしたのも事実だ。


「……してはいけないことだったか?」


 たずねると、ロンドは覆面をむしりとった。カンカンになっている。真顔で怒るロンドを見るのは初めてだ。


「あなたは今、時間を翔ぼうとしたんですよ!」

「じゃあ、やっぱり、あれで時間をこえられるのか」

「そういう問題じゃありません。行きはいいですよ。帰りはどうするつもりだったんですか? 今は五感がふさがれていたから時間軸を見つけられたんです。そうじゃなければ、魔法に不慣れなあなたじゃ見つけられません。行ったきりになるところだったんですよ?」

「別に……それでもかまわなかったが」


 ジゴロ時代にワレスが二人いることになってしまうが、ルーシサスが死なずにすむのなら、その価値はあった。

 だが、そう言いつつ、さっき自分がなぜハシェドを見てホッとしたのか、それでわかった。帰ってこられなくなる可能性を、心のどこかで考えていたのだ。


「十年ぽっち、帰ってこられなくてもたいした問題じゃない。それに、砦まで来れば、その時間の司書長がいただろう? なんとか助けてくれたんじゃないか?」

「でも、過去に細工したら、今のこの時間が変になっていたかもしれません」

「そうだよな。おれはきっと、今、砦に来てはいなかった」


 ハシェドとの日々は最初から存在しなかったことになる。


「まったくもう。だいたい、さっきのあなたは意識体だったから、行っても、まわりの人には見えてませんよ。こっちに残された体だって魂がぬけちゃって、もぬけのカラに……」


 ロンドは急に黙った。


「なんだ?」


 ワレスがたずねても考えこんでいる。


「え? いえ、まあね。とにかく、あなたの時間軸のおかげで、彼の命は救われましたよ」


 ラグナの傷は完全にふさがり、流れていた血の一滴も見あたらない。服は裂かれたままだが、胸は安定して上下している。


「よかった」

「また命を狙われると困るので、彼は近衛隊にでも、あずかってもらったほうがいいでしょうね。あそこなら同じ病気の患者がいますしね」


 さっきから、ロンドの言葉がえらくだ。ロンドの目の色は正常な人格のときのグレウスのそれになっている。よほど重大な事態なのだろうか?


「なんなんだ? さっきから」


 聞いても、そっけない。


「わたくし、いったん帰ります。司書長に相談ができたので。ジュール、あとを頼む」


 返事がないと思えば、ジュールはロンドに見とれている。なるほど、コイツもふだんのクニャクニャのロンドが好きなわけではないのかと、ひじょうに納得した。


 ロンドが退室すると、こらえきれなくなったようにハシェドがふきだす。


「あとを頼む、でしたよ。あのロンドが」

「だな」


 ワレスも笑った。過去を変えられなかったのは残念だが、今この瞬間をなくさなくてすんだのは、とても嬉しい。


「ラグナを近衛隊に移そう。死体ってことにして、担架で運ぶんだ。おまえとユージイでやれば秘密が守れる」

「わかりました」


 ハシェドが出ていくと、四号室にはジュールと二人きりだ。ミレインはともかく、クルウが来ていない。とっさの場合だったので追ってきているのか確認していなかった。しかし、いつものクルウなら変事を見とどけるために来ていたはずだ。ミレインを監視する目的で残ったのだろうか? それとも、別の思惑が……?


(やはり、怪しい……)


 晴れないもやが、ワレスの心を重くおおっていた。

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