第4話
月曜日、出勤した会社の俺の椅子の上にはカバンが置かれていた。金曜の夜に一緒にいた誰か預かっていたものを持ってきてくれていたようだ。中を見ると荒らされたり取り出された様子もなく、ほっと一安心。もちろん、見られて困るものなどは入っていないが、プライベートを覗かれてはあまり気持ちの良いものではない。今回は、被害者ということもあって警察も中身まで確かめるということもなかったようだ。
昨日、旧友の刈谷に送ったメールにまだ返信は来ていない。奴は、霞が関で財務官僚をしている東大出のエリート。かなりの激務と聞いている。だが、秘密を守ってくれるという意味において最適の友人でもある。官僚として活躍する中で、いざというときに助けてくれるような人脈も多少は築いているかもしれない。そういう下心も多少あっての相談のつもりだが、俺として最も頼りになる相手が彼なのは間違いのないことなのだ。
「昨日、大変だったな」
後方から、営業の中谷先輩が声をかけてきた。その様子から、なんとなく先輩がかばんを持ってきてくれたと察することができた。
「かばん、中谷さんが持ってきてくれたんですか?」
「おう、それくらいしかできずに悪かったな」
「いえいえ、ありがとうございました。持ってきていただいただけでも助かります」
「いいってことよ。それで、あの後どうなってたんだ?」
「あの後って、逃げた後ですか? 追いかけっこは何とか逃げ切ったんですが、携帯はあいつらに取られたままです。参りました」
「何にしても無事でよかった。緊急連絡用に、営業用の携帯を貸し出せるように総務に行っておく。でも、まさか店の中にあんなにチンピラたちが揃ってたとは、さすがに俺も思わなかった。すまん、助けられなくて」
「携帯は次の週末になんとかします。それにしても、先輩方も絡まれなくてよかったです。警察も入ったみたいだし、多分大丈夫でしょう」
中谷先輩は、元ラグビー部で相当に体格が良い。普通はチンピラでも絡みたくないような人である。だからという訳ではないが、金曜の夜に最初に絡んだチンピラに仕掛けたのも中谷先輩。ただ、手をつかまれて怯えていた女性を助けようとチンピラの手を抑えたのは俺で、そのまま俺が外に引きずり出されてという流れ。その事を気にしているのだろう。
「俺たちも警察に事情聴取されてな。お前のことを聞いたんだが、その時には詳しくは教えてもらえなかった。昨日ようやく入院していたと知ったんだが、大丈夫だったか?」
「入院て言っても念のためって感じで、大丈夫です」
そこに、後輩女子社員で当日の飲み会にもいた菱山香織が中谷先輩の前に割り行ってくる。いつもながら、かなり距離が近い。後輩とはいっても、支店での経験は彼女の方が長い。彼女は地元採用の事務職で、総合職の俺とは採用条件や勤務内容も異なる。俺には転勤はあるが、彼女には転勤はない。その分、俺の方が少し給与は高いといった感じ。タイプでいえば美人系だが、行動力はかなりアグレッシブ。静かにしていた方がモテそうに思う。
「梶田先輩、入院してたって本当ですか?」
「ああ、菱山か。金曜の夜にチンピラとチキンレースやって、ちょっとな。でも、特に悪いところはない。ってか、ぴんぴんしてる」
「土曜日、家に行ったらいないし、携帯にかけても連絡取れないし」
「おいおい、お前に俺の住所教えていたか? ってか、そもそもなんでお前が俺の携帯番号を知っている?」
「えっ、みんな知ってますよ」
まさかと思い中谷先輩の顔を見るが、どうやら察しろという合図。菱山の奴、会社の個人データから勝手に調べたらしい。普段の行動からするに悪い子ではないが、このあたりの常識に欠けるというか、パーソナルスペースが近いというか、やりすぎというか。もう半歩行けばストーカーだぞ。
俺がこの支店にきてまだ数か月なんだが、結構距離が近い。というか、近すぎる。俺に離れた彼女がいるというのはオフィス内では公言しているのだが。
その後も話を聞いた人が次々と集まってきて、俺はちょっとしたアイドルのように扱われていたが、始業のベルとともに急速に鎮火。何も言わなかったが、じっとこちらを見つめていた課長の目が怖かったというのもあるだろう。
業務に戻れば日常が始まる。俺の体の問題は心の中で燻っているものの、こうした日常に戻れたことは悪くない。何より安心できるじゃないか。落ち着けるということが、人生において最も重要な要素だと俺は思う。午前中に課長に簡単に状況報告をしたが、それ以上は特に問い詰められることもなかった。勤務時間外なので特にいうこともないという感じなのだろう。
昼休みにも食堂で何人かに話を聞かれたが、とは言え人の噂も75時間。情報の多い現代社会では、多少面白いネタであってもすぐに消化される。というか、大したネタですらないのだから、さもありなん。時間がすべてを覆いつくしてくれる。これで、警察からの新たな問題の連絡もなければ本当の意味での安心である。
と、そうは問屋が卸さないらしい。わざと意識から外していたものがきちんと回収されるのも世の常なのだ。
「梶さん、3番に外線」
斜め前の同僚から、電話の連絡。
『もしもし、帝国建設の梶田です』
『わたし、覚えてる?』
その声は忘れもしない。市民病院の看護師である飯田さん。だが、同僚の目があるときに変な話もできない。そもそも、病院から公式の連絡ではなく看護師からの個人れなくなのだ。変に勘ぐられるのも困る。
『はい、よく存じ上げております』
『市民業院の飯田サキよ、わかっているわよね。ってか、なにそれ? 変な言い方。まあいいわ。それより、ちょっと今晩会えない?』
『いえ、その件はもう終了していると思うのですが』
『ああ、会社だからそんな話し方なんだ。でも私、病院名をさっきの人に言っているよ』
『なるほど』
『ってか、あんたそれより自分の体のことをもっと知りいとは思わない?』
『それはどういう意味でしょうか?』
『あんたの能力? 力? まあ、いいや。知りたくない?』
どうやら、あのリリという研修医が俺の血を調べたみたいだ。この情報が飯田と二人の間だけなのか、もっと広がっているのかについては確認しておいたほうがよさそうだ。
『わかりました。何時ごろがよろしいでしょうか?』
『何時ならいけるの?』
『19時過ぎなら大丈夫です』
『なら、19時半に駅前の喫茶店〇〇で。って、あんた携帯なくしていたんだよね。連絡取れないから、ちゃんと来てよね。一応私の携帯番号伝えるから、控えておいて』
どうやら、俺の血か体がおかしいことには気づかれたらしい。多分、俺から採取した血液で何らかの実験をしたのだろう。だとすれば、その情報がどの程度拡散されているのかも含めて確認する必要があるし、それより何より病院で行ったであろう実験結果を知りたい。俺がどうなっているのか、俺のこの能力はいったい何なのか。その上で、多少の脅しも必要だろう。俺の個人情報を勝手に広められても困る。病院で情報拡散をできないようにするところまで対応できなかったので、この呼び出しは俺にとっても都合がいい。もちろん行くさ。待ち合わせ場所の喫茶店なら場所を知っている。
電話を取りついだ同僚から曖昧な笑顔を向けられたが、それを会釈で流した。この程度のことでは、それほど疑念を抱かれるような感じでもないだろう。何もなかったように仕事に戻る。ただ、夕方以降のことを意識すると、午後の仕事に今一つ身が入らなかったのは仕方のないことだと思う。
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「お、来た来た」
駅前の喫茶店の奥の席にいたのは、当然のごとく飯田とリリ。密談しやすいようなボックス席だ。俺にとっても都合がいい。席に着きながら、俺は問いかける。
「俺をどうするつもりだ?」
「何を深刻ぶっているのよ。って、今更建前はいいわ。まずは、飲み物でも注文して。それとも何か食べる? 注文が来てから具体的な話をしましょ。店員にも聞かれないほうがいいでしょ?」
「ああ、わかった」
奥にリリ、手前側に飯田が座っている。飯田は小さく低めの声で俺を促した。頼んだアイスコーヒーが来て、店員が去っていくとやはり小さめの声で飯田が切り出した。
「梶田さん、私はちょっとビジネスをしたいと思うのよ」
「ビジネス? それはどういう意味だ。俺のことをばらされたくなかったら金を出せという、つまり脅迫か?」
「違う違う、私たちは良いパートナーになれるんじゃないかと思うの」
今ひとつ、狙いが読めない。個人情報流出にくぎを刺すつもりだったが、話が飛躍しすぎて切り出せないでいる。まずは、大人しく話を聞いておいた方がいいだろう。
「もう少しわかりやすく、最初から説明してくれ。なぜ、ビジネスが関係する?」
「……サキ、先走りすぎ」
リリが飯田に向かって注意している。そうか、電話でも言っていた。字はわからないが「飯田サキ」というのがこの看護師の名前のようだ。
「じゃあ、リリから説明して」
「……気づいているだろうけど、あなたの血は特別。これは昔から?」
「俺に対する質問の前に教えてくれ。何が分かった?」
「……それを聞くということは、最近現象が現れたということ、……わかったのは、あなたの血が傷や疾病を急速に治すこと。信じられないくらいのスピードで」
「と言うということは、俺以外にも効果があるということか?」
飯田が口をはさむ。
「やっぱり、自分でも試したみたいね。自分で傷つけてみたの?」
俺は返事をしなかったが、否定しない沈黙が答えを表している。
「じゃあ、話は早いわね。リリと私で確認した結果だけど、あなたの血は他人にも効果がある。必要量や効果の具合についてはこれから確かめないといけないけど、凄いものよ。マウスだけど癌細胞すら消滅させてしまったのよ」
「……ただ、理由がわからない。分離も結合もしないから検査できない。顕微鏡で見る限り普通」
リリとサキは完全に情報を共有しているようだ。リリの言葉は常に言葉足らずで、少し考えないと認識が難しい。その先は、サキが続けた。
「つまり何が効いているのかわからないのよね。ただ、あなたの血をほんの少し使っただけで、私が昔付けた手の傷も一瞬で治ったし、リリが試した癌化して死にかけのマウスもおそらく完治。しかも信じられない速さで。気持ち悪いくらい」
「そんなにいろいろと調べたのか。思い切りよすぎだろう」
「へへ。調べないわけにはいかないでしょ」
「ところで、この話はどこまで広がっている?」
「気になる? もちろん、今は私たち二人だけよ。あなたが誰にも話していなければ、三人ということになるわ。どう、安心した?」
「どこに安心できる要素がある?」
「だからビジネス。きちんと契約して、これを利用したいとは思わない?」
「どういうことだ?」
「まだ、確かめるべきことは山ほどあるのも確かだけど、上手く行けばあなたの血液は世界中の重病患者や重傷者の希望になると思わない? 特に大金持ちの」
「ちょっと待て! 俺の血だぞ」
「でも、それにあなたは値をつけることはできないでしょ? 知り合いに格安で使うの? でも、そんなことしてもいつかは噂になる。そして、どこか権力組織に見つかれば、モルモットに一直線♪」
「笑い事じゃない! というか、お前たちならこれを金に換えられるというつもりなのか?」
「ええ、偶然にしろこれを見つけたのが私たちでよかったと思うわ。あなたもきっとすぐそれを実感できるはず」
「どういうことだ」
「さすがに医療機関では、こんな無茶はできないでしょう? 病院で、訳の分からない血を塗りたくる、あるいは飲ませる。できるわけがないじゃない。さらに、医療機関で使えばすぐに公知になる。つまりあなたの存在が見つかってしまう。だから、それ以外で可能な場所で使うのよ」
「それ以外? 人の命を救う上で?」
「そういう場所だからこそ、合理的にお金にできる。わからないかしら?」
目の前で不敵に笑うサキ。俺は必死に頭を巡らせる。
「宗教か!?」
「ご名答。実は、リリの両親が大きな宗教団体の教祖なの。これはよかったと私が言う理由の一つ。彼女は嫌がってたけど、彼女も中心人物として認識されている」
サキは俺でも知ってる宗教団体の名前を挙げた。確かに、宗教は政治や経済界とも結びついているし、関与する金持ちも少なくないだろう。そもそも、神秘ということで誤魔化せる可能性も高い。そして、寄付として合法的に金を集められる。俺にどのように還流させるかはわからないが、集金体制は悪くない。
「……私は宗教が嫌い。けど、あなたの血は世界を変える」
「さらに言えば、私の父は与党の有力政治家なの。いろいろあって姓は違うけどね」
そこで出てきた名前も俺は良く知っている。マスコミにもよく登場する大物議員だ。すなわち、顧客も容易に用意できるということのようだ。政治界や経済界に顧客を持ち、宗教を隠れ蓑にして俺の素性を隠す。スキームをイメージできなくもない。
しかし、二人とも大物の娘とは驚きだ。
「ただ、そんなに上手くいくだろうか?」
「だから、ビジネスパートナー。成立させる方法を考えましょうよ。あなたの秘密を守りながら、私は儲ける。リリはあなたの血を増産する方法の研究。当然、リリが増産の方法を見つけるまでは、あなたが最も利益を得ることになるでしょうね。そんな方法を発見できるかどうかもわからないけど」
俺の頭の中で様々な考えが生まれては消える。ただ、面白いと考えてしまった。化け物として虐げられる、モルモットとして利用される。その危険性は俺の体質が元に戻らない限り常に付きまとうことである。だとすれば、それを逆手に利用するというのは悪い話ではない。
「なるほど、概ね理解できた。俺の秘密が最優先になるならいいだろう」
「もちろんよ。それがなければ成立しないもの。あなたは今の仕事を続けながら普通に生きて。ちょっとしたサイドビジネスをするだけ」
「だが、動く金はかなりでかい。それを隠す方法は?」
「こんなの表ざたにできないお金だしね。現金も銀行も大きくは使えない。仮想通貨にするか、貴金属や宝石にするか。そのあたりは要相談かな」
「捕まりたくないから、足がつかないように上手くやってほしいが」
「でも、まずは体制作りからかしら。儲けの分配は経費を除いて、私が3、リリが2、あなたが5でいかがかしら?」
「リリは了解しているのか?」
リリがこくんと頷いた。
「それなら、分配はそれでいい。ただ、俺が貧血で倒れない程度に絞ってくれよ」
「当然ね」
世の中の金持ちは、病気の治療に一体いくら払うのだろうか。それには全く想像がつかないでいた。
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