堕天使は堕落を誘う ー2024/7/13 Sat 09:30


「店長、すみません。今日と明日のバイトは」

 電話をかけている間、ずっと榊の手がリードにかけられていた。間違えたことを言えば首が絞まる。


「よし、良い子」

 バイトを休め、それが命令だった。脅されながら電話をかける。急な予定変更だったが店長が出るそうだ。チクリと心が痛む。

 榊のあの様子だとバイトを辞めろと言いそうだったのでそこは安心する。そんな表情を読み取られたのか。


「本当は辞めてほしいけど、それはまた後でのお楽しみに取っておく。ちょっとかわいそうだものね。じっくり逃げ場を失くす方が楽しい」

 早急にどうにかしないといけない。社会的地位を脅かされている。

「というか誠也くんって別にバイトしなくても良いじゃない。伯父さんからお金もらってるんでしょう?」

「そんなこといいだろ」

「もう、つれないなぁ」

 距離を置かないとなにをされるか分からない。


「じゃあ、今日はもう外に出ないから」

 榊は俺が座っているベッドの上に乗り、よじよじと距離を詰める。え、固まって様子を見ていると自分の背後に陣取って背中側から抱きついた。

 榊のフローラルな香水の匂いがする。背中に柔らかい感触を受けカッと体温が上がる。

 ちょっと胸当たって……。


「え、なにっ」

「えへへー、ブラッシングしようかなって。誠也くんの髪の毛ふわふわだからやってみたかったんだよねぇ」

「はっ?」

 ふわっと笑う榊の顔は可愛い。思わずどきりと胸が高鳴った。右手には髪を梳かすブラシ。左手で逃げないように押さえ込まれ、ブラシを後頭部から頭の輪郭を沿うように動かされる。

 抵抗する間もなかった。いや、逃げられるはずがなかった。


「ほんと猫ちゃんみたい」

「……ぅ」

 あ、ちょっと良いかもしれない。すすーっと動かされるブラシは頭を撫でるように的確に自分のツボを刺激する。

「ふわふわ。柔らかい」


 ――あ、これ良い。榊の細い指が頭をマッサージするように動く。初めはぞくっと背筋になにかが走ったけれど次第に慣れてきた。

 ぽんぽんと叩かれたり、さわさわと撫でられたり。優しく優しく。甘やかされる。まるで恋人同士のスキンシップのように。頭が段々とぼうっとしてくる。あ、そうか、俺は榊の彼氏だから彼女はこうして甘やかしてくれるのか。あれ、なんだこれ。気持ち良い。

 俺、頭を撫でられるのこんなに弱いんだ。


「腰のところに手を回してくれる?」

 思考はすでに停止し、飼い猫を抱き上げるように持ち上げられる。指示されるがままに向き合って榊の腰に手を回す。顔が榊のお腹に押しつけられるようにされ、後ろ髪をブラッシング。


「ふふっ、気持ちいい? 甘えんぼさん」

 これヤバい。足を伸ばし、榊のお腹に顔を乗せる。お菓子みたいに甘ったるい女の子の匂い。

 香水の匂いと柔軟剤の香りが混ざって鼻から吸い込む。

 安心する。全身の力が抜けていく。


「あ、……うん」

 猫扱いも悪くないかも。意識はすでにとろとろと溶けていて、微睡の中にある。

 ヤバい、最高に幸せかもしれない。

「誠也くん。これ好き?」

「……ぅ、うん」

 ダメだこれ。悪くない。

 思えば誰かに甘えるのは久しぶりだった。幼い時に母が死に、父は俺を嫌っていた。頼れるものはいない。安心できるところもない。

 こんな風に誰かの体に身を預けるのはいつぶりだろうか。


「うん」

 ギュッと腕を絞ると榊の笑い声が聞こえた。

「可愛い。しがみついてる」

 耳元をふみふみと揉まれ頭がぼうっとしてきた。まずい、ここから逃げないといけないはずなのに。美味しいご飯と温かい毛布と、身体が溶けるほどの甘やかしと。

 ――ここから逃げないと。

 逃げないと逃げないと。


「ずうっとこうしてても良いんだよ?」

 それは最高かもしれない。俺、こういうの好きだったんだ……。ダメになりそう。こんなのを感じてしまったらもうどこにも抜け出せなくなる。だって向こうがこうしてくれるから。俺はそれに従ってるだけ。

 甘やかしてくれるのを拒否するなんて、できない。


「ふにゃふにゃになってきちゃったね」

 俺は伸びをする猫みたいに榊の上にぺったりと寝そべっていた。最高に気持ちが良い。身体に力が入らない。というかもう動きたくない。このままずっとこうしていたい。すりすり、頭をすり寄せると榊は手を乗せて撫でてくれる。


「うりうりうり。お耳の後ろ掻いてあげようか」

 別に猫じゃないんだからそこが気持ちいわけがない。けれど今ならきっと虜になってしまう。

 あ、ダメだ。思考が溶けてる。


 目の前にいるのは監禁魔なのに、俺を猫扱いしてるヤバい女なのに。首輪は引っ張られて苦しいのに。大学一の美少女が、とびきり甘やかしてくれるので俺はすっかり毒牙にかかった。

 ――もうここから逃げ出さなくて良いや。

 だって最高に幸せだし。

 というかなんで逃げ出さなきゃいけなかったんだっけ?

 もうどうでも良いや。


「私の可愛い可愛い猫ちゃん」

 飼い主は耳元で優しく囁く。その言葉は悪魔の囁き。堕ちろ堕ちろと誘う声。あぁでもさ? こんなに気持ちが良いならこのままでも良くないか? こんなに今、俺は幸せなのに。他にどこに行くというんだよ。

 幼い時だってこんなに甘やかされたことなんてないのに。


「大和くんが言ってたでしょ。君は誰も信頼できない。それは幼少期からどこにも安心できる場所がなかったから。だからね、きっとこういうのは弱いと思ったんだぁ」

 俺の弱点なんてお見通し。

「猫ちゃん扱い嬉しかった? ねぇ。ずっとこうしてあげるから」


 榊は俺の顎の下に手を滑り込ませ、クイッと持ち上げる。少し驚く。榊の声色が穏やかで耳をなぞるように囁かれる。

 もう俺は彼女の奴隷だ。

 命令に逆らえる気がしない。


「もう逃げ出しちゃ、ダメだからね」

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