【終章 げに恐ろしきは、人の形をした獣に劣る鬼の業なり】
己を人ではなし、と評した少年を、上から下まで眺め回した炎の青年は、にっこりと笑って――炎に焼かれて溶け落ちた顔であるのに、確かに笑ったことが分かった――少年に向かって「ふうん。面白いね」と言った。
そして、二人の間を隔てるようにして立ち塞がっていたがらくたの山を難なく飛び越えると、少年の目と鼻の先まで顔を近づける。少年もまた、青年のぼうっと浮かぶガラス玉のような虚ろの瞳を見つめ返した。
「でも、君は悲しそうだね。人じゃなくなるのは、怖い?」
青年はそう問いかけた。優しい言葉遣いだが、どことなく意地の悪い気持ちがうっすらと感じ取れるそれに、少年は細い眉をすっとつり上げる。
しかし、口を開いて出てきた言葉は青年を詰るものではなく、困ったような、或いは途方にくれたような、頼りのないものだった。
「人じゃなくなるというより……他人と違うのが怖いのかもしれない」
青年は何度か首を捻る。少年の発した言葉の真意が、掴めなかったためだった。
「最初から違うくせに?」
少年はきゅっと唇を噛み締める。青年はわらった。
そして、瞳の奥を見透かすためなのか更に顔を近づけると、内緒話でもするように、少年に向かって囁く。
「でも独りじゃないでしょう」
少年は大きく瞳を見開いたあと、泣き笑いの表情を浮かべて、そして俯いた。
青年は彼の旋毛をじっと見つめながら、尚も言葉を続ける。
「俺ももう人じゃないから――ああ、君に甦らせてもらったから、という意味じゃない。それを殺したから――」
少年は頷いた。さらさらとした濡羽色の髪の合間から、形のよい耳が覗く。
「うん、殺したから、甦ったのかもしれないね。人ではなく、鬼に成ったから――」
ぱっと顔を上げた少年の瞳は、薄暗く、青年と同じくらい虚ろで寒々しいものだった。
「まあ、どうでも良いか」
がらんどうの人形が、がらんどうの人形に向かってそう言った。青年は含み笑いをする。あの日、今と同じく炎の中で幻視した少年は、青年と同じところまで堕ちてくれた。
だから、青年は少年に告げる。人の心を失ってしまった彼を安心させるために、己も鬼に成ることを。
「『鬼ハ帰ナリ』。中国の鬼は死者の魂が帰ってきた形と信じられていた。かの有名な折口信夫先生は、オニとはカミであり、カミとはオニであったと説く。『鬼』を『カミ』とは呼ばないが、『畏るべきところ』として『オニ』を『カミ』という場合が存在したらしい。また、鬼は於爾であり、陰の訛りであるとね。或いは大人であり、巨人であるとも。鬼の分類として、馬場あき子先生の『鬼の研究』では五つとされている。曰く、『(1)に日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)を最古の原像としてあげることができる。さらには、(2)この系譜につらなる山人系の人びとが道教や仏教をとり入れて修験道を創成したとき、組織的にも巨大な発達をとげてゆく山伏系の鬼、天狗が活躍する。(3)別系としては仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼の跋扈も人びとをおそれさせた』。残りは二つ、『人鬼系といおうか、放逐者、賤民、盗賊などで、彼らはそれぞれの人生体験の後にみずから鬼となった者であり、兇悪な無用者の系譜のなかで、前記三系譜の鬼とも微妙なかかわりあいを見せている。(5)ついでは変身譚系とも名づくべき鬼で、その鬼への変貌の契機は、怨恨・憤怒・雪辱、さまざまであるが、その情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることをえらんだものである』。醜く、体の部分が損なわれている異形のモノや、形がなく感覚的な存在や力、それこそ神と対をなすモノ、外の世界の住人、死の国――根の国や黄泉の国に近しい国へ導くモノとしての意味合いもある。『不吉な不安が秋風とともに人びとの心をかすめるような夕ぐれ、遺骸を運ぶ喪の列を、深々とした大笠の下からじっと見ていた鬼がいた』――。『斎明記』の七年七月、天皇の崩御を記した奇妙な記事に登場する鬼だな。これは討伐されて帰服した鬼なのか、はたまた山人なのかは判明していないが、鬼とはつまり、勝者が拒絶した己の世界以外に住まう、人間とは認められなかった人びとの総称だ」
「よくもまあ、そんな長々と覚えているものだな」
少年が呆れたように肩をすくめると、「こういう話、好きだから」と青年は炎をまとった微笑みを浮かべた。
「俺も君と一緒だ。鬼だ。俺たちの祖先は民俗学的なオニであり、それにつらなる子孫の俺たちも組織されたオニであり、復讐者になった俺たちは変身したオニなんだ。そして同時に、拒絶されて生まれ落ちたオニでもある。どうあがいても、人じゃあない。だから怯えなくて良い。卑屈になる必要もない。俺達は同じだ。生まれた理由も、育った環境も、得意なことも苦手なことも人間関係も全て異なるけれど――同じなんだよ。何処までも。何時までも」
少年がいれば、青年の理想郷は完成する。誰もいない、たった独りだけで構成された理想郷。世界は二人で創るものだが、それは全く別の他人でなければいけないという道理はない。
本当は少年だけで良いのだけれど、それであると彼はいずれ心を病んでしまうだろうから、他の自分――民俗学的なオニであり組織されたオニであり憎悪と恥辱によって変身したオニ――
青年の理想郷を実現させるためならば、何だって捨てられる。家族に暴力を奮う父も、父の言いなりになる母も、表面上の友人も、何も知らない仕事仲間も、後見人になってくれた叔父も、幼馴染みで親友である、最期まで味方でいてくれた親愛なる従兄弟の彼も――。
全て要らない。自分以外の他人は、須く青年の理想郷には必要ない。
「ところで、君の反魂術は実に奇妙だね」
少年はぱちぱちと長い睫毛を瞬かせながら、青年の放った言葉の意味を考えていたが、すぐに意図を理解したようだった。
「ああ……。『天の数歌』と西行法師の秘術だから?」
「そう。何で組み合わせたの?」
「うーん……」と少年は腕を組み、暫しの間黙考した後、ぽつりぽつりと話し始める。
「『天の数歌』だけだったんだ。最初は」
同じく反魂の術である祝詞の名前を出した少年は、過去の日々を思い出すような遠い目をしながら、青年を見つめていた。
青年もまた、思い返していた。かつて大切にして、そして奪われた、取り戻したかった沢山の宝物のことを。
「でも上手くいかなかった。魂だけを呼び戻しても、定着させる器がなければ意味がなかった。例え器が見つかっても、魂が馴染まず直ぐに駄目になった……」
何度も失敗したのだろう。少年の口調は、苦渋に満ちていた。しかし、彼が西行法師と異なるのは、何度失敗しても同じ方法を繰り返し続けた異常性だ、と青年は思った。
すると、唐突に少年の瞳に光が差す。
「そうしたら、教えてもらったんだ。西行法師が伝授された、鬼の蘇生方法を」
ふと、青年の脳裏に、口煩くも何度も世話になった、信頼している幼馴染みの顔が浮かび上がった。
少年は眉を――眉はとうに焼け落ちているが――しかめる青年に気がつくことなく、年齢よりも幼い表情で顔を輝かせながら、話す。
「魂を呼び戻す呪術と、器を造り出す呪術。二つを組み合わせたら、上手く出来た」
俺は全部取り戻せたよ、と笑った少年をじっと見つめたあと、青年は端的に訪ねた。
「ねえ、それ、誰に教えてもらったの」
「幼馴染み。六連だよ。お前のところにも、いるだろう?」
少年は曇りなき眼で、青年の問いに答えた。青年は、ふうん、と気のない返事をすると、むっつりと黙りこんでしまった。
少年は青年の顔を、恐る恐る覗いた。
「……さっき聞いたお前の夢の話、とても素敵だと思う」
青年は不機嫌な気持ちと、己に対する嫌悪感でいっぱいになった。自分よりも幼い子どもに気を遣わせていることが、本当に嫌で仕方がなかった。
だから、ご機嫌取りをしようとしている少年に謝罪しようとして、目を合わせて――はっと息を飲む。
「だから、協力するよ。一緒に叶えよう」
少年の瞳が、まっすぐ青年を射抜く。どこまでも清み渡っていて、純粋で、狂気にかられた、見るものの心を惑わせる瞳だった。
「俺に気を遣わなくても良いよ」
「そんなこと、するわけないだろうが。何を遠慮してるんだ」
「じゃあ、何で?」
「俺の夢でもあるからさ」
呆れたように青年を見ていた少年が、ふっと微笑する。それをみとめた瞬間、背筋がぞわぞわするのと同時に、どうしようもなく、青年の魂は歓喜に包まれる。
ずっと欲しかったものに手が届き、しっかりと握りしめていて、もう二度と離れることはない。
今まさに、青年の心情はその通りだった。
「それに、お前は俺の能力を恐れもしなければ、馬鹿にもしなかっただろう?」
焔だけの世界に、二人きり。
世界を観測するには、二人以上の人間が必要だ。
しかし、二人以上の人間が、全くの他人である必要性はない。
同じ人間でも、生まれ、環境、生育状態、性別、その他諸々いろいろな事柄が――世界が異なれば、所詮他人なのだ。
「俺と家族になろう、スバル」
少年はそう言うと、焼け焦げて元の顔立ちも分からなくなった青年に向かって、躊躇なく手を差しのべる。
青年は視線を落とすと、己の炎に包まれた体を眺めた。
イチゴ、ハコベ、サイカシとムクゲの葉、フジのつると糸、そして沈と乳の香木によって再び甦らせられた、鬼の体。
業にまみれながらも、たった独りしか存在しない理想郷を夢見た、罪深い己に相応しい器だと嗤う。
あの西行ですら失敗した上に愚かしき所業であることに気づきその後二度と行わなかったというのに、そして同じ時代を生きた土御門右大臣もそのおぞましさに打ち勝てず反魂の術を記した書物の焼却を行ったというのに、目の前の少年は何度も失敗しながらもとうとう成功させてしまった。そして、これからも鬼の所業を繰り返し、何度も自分自身を甦らすのだろう。
青年は唇を歪める。己の浅ましさと、少年の愚かしさと、二人の鬼の悍ましさに。
青年は視線を少年へと転じた。
そして、爛れて腐り落ちた瞼から繰り出された、丸いガラス玉のような瞳でじっと差し出された少年の掌を見つめたあと、とても幸せそうに微笑んで、滑らかなそれを握り返したのだった。
終わり
神崎スバルの永い一日 冴島ナツヤ @saezimanatuya0728
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