DAY6407
〈シュルフトゲーデンケン〉
ラーサが〈グローリア〉を出発してからすでに半日が経過していた。一夜を野宿で過ごした。久しぶりの野宿は――彼女の身体は地面の硬さや凹凸なんてものともしないはずなのだが――ふかふかのベッドが恋しくなって、妙に落ち着かなった。それでも、身体はすぐに今まではこの地べたに腰を下ろして木に寄りかかって休息を取るのが当たり前だったことを思い出したようにその感覚に順応して、気がついたときには彼女の意識は微睡の中に落ちていた。
「っん」
顔を照らす朝日の温かな光を感じて、ラーサは瞼を開けた。山間の隙間から太陽が顔を覗かせていた。
〈フェルモント〉と〈オリジナーナ〉。北と南を隔てる巨壁のように横たわる山脈を構成する山岳の一つだ。麓近くまでやってくれば、コロニーから遠目に眺めていたときよりもよりはっきりと二つの山岳の威容さを実感できた。
〈フェルモント〉は標高三九〇〇メートルを誇る山岳で、ナイフのように切り立った山影をしている。その大部分は草木も生えない不毛の大地であり、硬い岩肌の黒い地面が露出していて、全体的に硬質な印象を抱かせた。山頂付近には、もはや地球上では一部の高地でしか見ることのできない雪がうっすらと積もっていた。
〈フェルモント〉のすぐ隣に聳える〈オリジナーナ〉は、〈フェルモント〉よりも標高がさらに高く、五一〇〇メートルもある。〈フェルモント〉と同様に草木は生えていないが、雪の降り積もった斜面はなだらかな部分が多く、一見しただけでは〈フェルモント〉の方が高さがあり、険しい山のようにさえ見える。しかし、それは堆積した雪がそう見せているだけのまやかしなのだ。雪は降り積もり、固められて氷のように硬くなっているが、その下には無数のクレバスが口を開けて待っている。〈オリジナーナ〉は無数の穴開きの山であり、何人も寄せ付けないのだ。
その二つの山岳の間に挟まれた渓谷――〈シュルフトゲーデンケン〉を目指して、ラーサは森の中を進んだ。一緒についてきたテラはまるで疲れ知らずで、ずっと彼女の前を先行して歩いていた。立ち止まるのはラーサが道中で採ってやった木の実やティグヌスから出発前に譲り受けた干し肉などを食べるときくらいだった。
次第にラーサたちが歩く道は勾配が急になってきた。〈シュルフトゲーデンケン〉は標高二〇〇〇メートル付近にある渓谷だった。向かうにはちょっとした登山をしなくてはならなかった。
道なき坂道を登るにつれて、徐々に木々の数は少なくなっていった。やがて、ついに視界が開けるほどまで緑の数は減り、見当たるのは乾燥した地面に生える草花や緑を落とした低木だけとなった。
ラーサは足を止めて後ろを振り返った。ついさっきまで歩いていた森林はすでに眼下になっていて、下から見上げるほど高かった樹木も今は樹海の一部となっていた。彼女が登っている山脈以外、辺りに高いものはなく、遥か彼方まで見通すことができた。彼女の優れた視力が、樹海の中で一際大きくてっぺんが突き出した樹木を捉えた。方角からして、おそらくあれが長老と一体になっている雪花樹だった。
彼女の脳裏に浮かぶんだのはクロウの顔だった。もう少しだ、と彼女は思った。もう少しでクロウの呪縛を解けるかもしれないのだ。
「待っててね」
ラーサは再び歩みを再開した。
砂利と岩ばかりの急な坂道を登っていると、時折遠くから遠吠えが聞こえてきた。見やれば、一〇〇メートル以上離れた岩場の上に灰色の毛皮にしなやか肉体、くねくねと曲がりくねった角を持つ生き物がいた。一見するとヤギのように見える。けれど、実際は羊の仲間であるハイイロシープだった。ラーサは以前、別の場所でもハイイロシープを見かけたことがあった。彼らは山岳地帯に主に生息していて、切り立った岩壁でも軽々と登って移動することができるのだ。
「グフッグフッ」
テラが唸るように吠えた。視線はハイイロシープに釘付けになっていて、尻尾をしきりに左右に振っていた。ラーサの許しさえあればいつでも飛びかかって狩りを始める用意ができているという風だった。
ラーサは苦笑した。視線を岩場に戻すと、すでにそこにハイイロシープの姿は見当たらなくなっていた。どこかへ移動したらしい。彼女はテラの背中を撫でつけた。
「今日は我慢して。先を急ご」
* * *
やがて、辺りの風景はまた変わりだしていた。周りには、山頂から落石などで落ちてきたのだろう大きな岩がゴロゴロと転がっていた。ラーサの背の二倍以上ある巨石もいくつもあった。それらの間を縫うように、彼女は道なき道を進んでいた。途中でどうしても岩に行手を阻まれることもあったが、そういうときは強引に岩をよじ登って乗り越えた。
巨石の迷路をグルグルと進むうちに方向感覚も怪しくなっていた。それでも迷わずに目的の方向へ歩くことができたのは背丈よりも高い巨石群に囲まれていても〈フェルモント〉と〈オリジナーナ〉の山頂を望むことができていたからだ。
それと、もう一つ。
巨石に時折巨石に打ち込まれている杭も目印として大いに役立っていた。杭の頭にはオレンジ色のリボンが付けられていた。明らかに人為的で、目印として設置されたことが明らかなそれは、おそらく以前に〈シュルフトゲーデンケン〉を目指した〈グローリア〉の人々のうちの誰かが道標として打ち込んだものだろう。もしかしたら、クロウの父親――ヴァリアント・ネスが設置した可能性だってある。長い年月に晒されて、岩の位置が変わってしまったり、杭が外れてしまったりしたのだろうと思われる箇所も時折見かけたが、ラーサが迷路で迷子にならずに済んだのは、間違いなく先人たちの道標のおかげだった。
そうしてやっと、二つの大山に挟まれた渓谷〈シュルフトゲーデンケン〉にたどり着いたラーサは目の前の光景に息を呑んだ。
「……まーじか」
彼女は渓谷といえば、その深さの程度はさまざまあれど、人が通るのに適したいわゆる道という範囲はそれほど広くないと考えていた。両側の壁が切り立った絶壁なのか、あるいは緩やかな傾斜で頑張れば登れそうな斜面なのか、といった違いはあれど、結局のところ歩くのは渓谷の中心の平坦な道の上だからだ。
しかし、今、目の前に広がっているのは道幅が優に三キロ以上はありそうな広大な渓谷だった。渓谷の中に足を踏み入れれば、そこだけで独自の植生を生み出していそうなほど低木や高木が群生していた。おかげで渓谷の両端の切り立った壁は見ることができなかった。この中で一〇年も前に行方不明になった調査隊の手がかりを見つけるというのは、不可能なように思われた。
「捜索隊の人たちが見つけらんなかったのはこれが原因か……」
ラーサは自分が極めて困難な任務に挑戦していることを改めて実感した。〈シュルフトゲーデンケン〉は捜索範囲が広く、その上樹木が生い茂っているという複雑な地形をしているのだ。どういうルートを通ったのか、事前に知らなくては捜索が難航するのは必至だった。
「グフッ」
足元でテラが小さく吠えた。
ラーサは一つ頷いた。
「わかってるって。泣き言なんて言ってる場合じゃないもんね。クロウくんのために、絶対に手がかりを見つけなくちゃ!」
渓谷の中には、渓谷の外では見かけなかった動植物を多く見かけた。特に多かったのが鳥だった。木々の至る所に小鳥が留まっていて、耳に心地いい囀りを奏でていた。上空ではさらに大型の肉食の黒鳥が悠々と空を旋回していた。木々から飛び立って空の上に躍り出た小鳥を捕まえるべく、今か今かと目を光らせているのだ。
クロウくんのお父さんもこの光景を見たんだよね……。ヴァリアントさんはどーいうルートでここを通ったんだろ? ラーサは想像を巡らせる。なに一つ手がかりを持っていない彼女に唯一できることといえば、優秀なハンターだったという彼ならどういうルートを選んだのか、現在の地形から想像することくらいだった。
想像の中の複数のヴァリアント・ネスは、同時にいくつものルートをバラバラに選ぶ。その中から、どのルートを本物のヴァリアント・ネスが選んだのか、可能性が大きそうなものを選ぶ。基準は自分のこれまでの旅の経験と直感だった。
渓谷の中をしばらく進むと、大きな魚の背鰭のように切り立った岩壁が現れて道が二手に分かれる場所に出た。ここでもラーサはどちらの道を選ぶべきか、選択を迫られた。彼女は右側のルートを選んだ。特に悩まず、いささか適当なほど気軽に道を選んだのは、たとえこの道が見当違いであったとしても、そのときは引き返せばいいだけの話だと思ったからだ。
分かれ道を過ぎたころから辺りの風景が変わり出した。木々や植物の姿は目に見えて数を減らし、代わりに砂利や表面を研磨したように滑らかな丸石が散見されるようになったのだ。
さらに進むと、ラーサは唐突に行き当たりにぶち当たった。大規模な落石が行手を阻んでいたのだ。
「うーん。こっちの道は失敗だったかな……」
ラーサは呟いた。問題はこの落石がいつあったのか、ということだった。ヴァリアント・ネス一行がこの道を通った後にあったのなら、彼らの手がかりはこの先にあるかもしれなかったらだ。しかし、そればかりは知りようもない。せめて向こう側の様子を確認できればなぁ……。ラーサは首を巡らせた。なにか、落石を乗り越えるいい方法はないかと思ったのだ。
彼女が見つけたのは、数メートル上の崖の岩肌を平坦な道のように歩くハイイロシープの群れだった。家族なのだろう、大人のハイイロシープが前と最後尾を歩き、その間に小柄な子どもが挟まって――大人に比べると心許ない足取りで――よちよちと歩いていた。
ラーサはてっきり、彼らがそのまま落石の上を乗り越えて進むのだと思った。けれど、そうではなかった。一行は崖に開いた小さな隙間の中へと消えて行ったのだ。
もしかして……。ラーサは岩壁に手をかけて、崖を登り始めた。一瞬、テラがついてこられないのでは? と不安になったのだが、振り返ればこの小さくて逞しい相棒は彼女よりもよほど身軽に登りやすい足場を見つけては、飛び移るように登って行っていた。
ほぼ垂直に近い岩壁を登るのは、数メートルのこととはいえ容易ではなかった。やっとの思いでハイイロシープの家族が消えていった穴にたどり着くと、そこには確かに奥に続く横穴が続いているようだった。ラーサでも這ってであれば通り抜けができそうな穴だった。中からは風が絶え間なく吹き出していた。風穴だった。彼女は躊躇いなく風穴の中に体を潜り込ませて奥へと進み入った。
暗くて狭い通路は岩壁の中を曲がりくねりながら奥の奥まで続いていた。途中でいくつもの横道が現れた。どうやらこの岩壁の中には蟻の巣のように自然の侵食によって生じた細い通路が無数に走っているようだった。ハイイロシープの家族の行方はすでに見失っていた。
ラーサは満足に身動きの取れない風穴の中で瞼にかかる髪を手の甲で払い除けた。脳内に風穴に入ってからの動きを思い描き、自分が今、岩壁の中のどの位置にいるのかを把握しようとした。できることならこのまま岩壁の中を通って落石で塞がれた道の反対側へ出たかった。しかし、真っ暗な岩壁の中では方向感覚を失うのにそう時間は掛からなかった。
脳内で広げた地図が正しいのかも確証が持て無くなったころ。
「クンッ!」
とテラがラーサの数メートル先で一声した。風穴の中ではラーサよりもテラの方がよほど身動きが容易に取れたので、這って進むのに難儀していた彼女の横をすり抜けて、いつの間にかテラが先行する形になっていたのだ。「クンッ!」ともう一度、テラが吠えた。曲がり角があり、再び風穴の通路が分かれているようだった。テラは、ラーサが追いついてきたと見るや、曲がり角を曲がって彼女の視界から消えた。
「あっ!」
ラーサは声をあげて、テラの後を追いかけた。道がすっかりわからなくなっていた彼女は、今ではすっかりテラのお尻を追いかけるばかりだった。彼女が曲がり角に辿り着き、横を見やると、通路の先がほんのりと白く輝いているのが見えた。光だ、と彼女は思った。出口があるのだ。
ラーサは地面を掻く両腕に力を込めて、より一層急いで外界の光を目指した。
岩壁に開いた穴から上半身を外に投げ出すと、一瞬世界が真っ白に包まれた。目が太陽の光になれるに従って、外の世界の様子がはっきりとしてきた。彼女が今いるのは地上から六メートルほどの高さにある岩壁に開いた穴の中だった。右側にはずっと渓谷の道が続いていて、顔を左に巡らせると、落石で塞がれた道があった。彼女は驚いた。ハイイロシープの親子を追って岩壁の中には潜り込んだときは、落石が岩壁から見て右側にあった。つまり彼女はいつの間にか落石という大きな障害物を超えていたのだ。
「やったぁ〜……」
ため息のような声が、疲労感とともに滲み出た。
ラーサは急傾斜の岩壁を滑るように降りると、改めて落石がうず高く積み上がった壁を見やった。ハイイロシープに感謝だね、あの子たちがいなかったらあの抜け道を見つけらんなかったもん……。
「よしっ」
ラーサは気を取り直して先に目指そうとして……足元に光る物を見つけた。それに目が止まったのは本当に偶然だった。拾い上げてみて、彼女は息を呑んだ。
それは雪の結晶の形をしたネックレスだった。
ラーサの手が無意識に自分の首元へと動いていた。そこにあるのはついこの間、彼女が長老から受け取った雪花のネックレスだ。
まったく同じだった。
そして、これを持っているのは長老から直接受け渡された〈グローリア〉の人間しかありえない。
「やっぱり……クロウくんのお父さんたちはここを通ったんだっ!」
ラーサは確信を込めて呟いた。
最初にやってきた捜索隊がこれを発見できなかったのは、そのときにはすでに落石が起こっていてここまで辿り着けなかったからだろう。彼らはラーサが見つけた抜け道を見つけられなかったのだ。
有望な手がかりを発見して、ラーサの気持ちは俄然明るくなった。もしかしたらこのままヴァリアント・ネスの手がかりも見つけられるかもしれないと希望が湧いてきていた。
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