雁と都忘れ

LAST GEESE

雁と乙女

 友人を訪ねた帰りにバイト終わりの彼女と出くわしたのは、まったくの偶然だった。帰る方向も一緒だったし、安全のために途中まで送ることになった。

 わざわざ自転車から降りて、俺と並んで歩く。まるで飼い主にじゃれつく仔犬のようだ。しばらく俺は、まだあどけなさを残す彼女との何気ない会話を楽しんだ。

「ところで、明日って時間ありますか?」

 あどけない笑みを浮かべ、彼女が不意に訊ねてくる。隣を歩いていた俺はおもむろに彼女に視線を送った。白い瓜実顔の肌に微かだが、紅潮が浮かんでいるのを確認した。

「明日、か。どうだろうね」

 素っ気無い返事をした後で、向けていた視線を今度は夕暮れ時の空にやった。

 初秋を過ぎ、茜の色がより濃くなった空では雁が群れをなして飛んでいた。大きく翼を広げて雄大に飛んでいく彼らに、ふと思いを馳せながら

「この週末に仕事で海外に行くんだ。明後日までに準備を終わらせなきゃならんから、逢えるどうか約束はできない」

「お仕事、なんですね。どのくらい行かれるんです?」

「予定では半年から1年――いや、仕事の状況によってはさらに延びるかもしれん」

「それじゃあ、もしかすると来年まで帰って来れない、ということですか」

「あくまで場合によって、だがな」再び彼女のほうを向いて「来年の今頃は、もう大学生になってるだろうな」

「…………」

 悲愴な表情を隠そうともしない彼女は、何も答えないまま自転車を押し続ける。

 俺は急に重くなった空気に耐え切れず、無性に煙草が吸いたくなった。手が懐まで伸びそうになるが、必死で堪えていた。

 自惚れだと思うが、おそらく彼女は俺に好意を寄せているのだろう。しかし、俺とは歳が離れているうえ、未成年に手を出すような趣味は持ち合わせていない。それに俺は彼女から慕われるほど、立派な人間ではないのだ。

 いっときの間、二人とも黙したまま歩き続けた。

 

 元々、俺と彼女は家庭教師と生徒の関係だ。数年前、恩人である彼女の父親から勉強を見てほしいと頼まれたのが、最初の出会いだった。

 当初、俺はきっぱりと断った。人に何かを教えるのは苦手だったし、女が嫌いというわけではないが、あまり良い思い出はない。そのうえ年頃の娘ともなれば、どう接していいか、正直分からなかった。もっとと結果的に、恩人に押し切られる形で引き受けることになってしまったのだが。

 戸惑いがあったのは、彼女も同じだった。最初の頃、彼女はとても緊張した面持ちで、まるで小動物かのように怯える節があった。

 いまでこそ笑顔も見せてくれるようになったが、慣れないうちはそれもなかった。当然の話だ、見知らぬ男からいきなり勉強を教わるのだから。警戒しないほうがおかしい。

 ぎこちない家庭教師と生徒の関係は、時間をかけてゆっくりと馴染んでいった。そんな中で急に距離が近くなったのは、彼女がストーカー被害を受けてからだ。結論からいうと、犯人は案外すぐに突き止められた――彼女と同じ学校に通う同級生の男子生徒で、過去に告白して振られたのが要因だった。

 ストーカー被害のことを警察にではなく俺に相談してきたのは、彼女が親を心配させたくなかったからだろう。相談を受けた翌日、俺は探偵業を営んでいる友人に依頼し、彼女の身辺調査をおこなった。そして俺自身も遠巻きに彼女の護衛を兼ねて周囲を警戒していたのだ。 

 そしてすぐに犯人を捕まえたわけだが、しょせん相手は子供だ。無駄に暴力を振るったり金銭を要求せず、今後は彼女に関わらないようにとどめた。後から知ったが男子生徒はよほど懲りたらしく、彼女から半径一メートル以内に近づこうとしなかったそうだ。もちろん、嫌がらせやいじめの無かったのも言うまでもないが。

 それがきっかけだったのだろう、彼女が以前より俺に好意をさらに強めるようになったのは。


 分かれ道の目印である大きな古欅に差し掛かった時、ふと彼女の足が止まった。俺は少し進んでから、後ろを振り返り「じゃあ、元気でな」と声をかけて、そのまま自宅のある道に歩き出す。

 人通りの少ないうえ夕暮れの時間帯だが、数年前から近隣の住人たちが防犯パトロールで巡回している。それに何かあっても、自転車に乗って逃げてしまえば大丈夫だと俺は思った。

「篠原さんっ!」

 突然、彼女が大声で俺を呼んだ。聞こえているが、敢えて無視してそのまま進んでいこうとした。

「わたし……面倒な女ですか?」

 そんな言葉が耳に飛び込んでくる。

 俺はやれやれと思いつつ、踵を返して彼女の許まで戻ってきた。

「面倒だなんて、一度も思ったことないよ」

「それなら、どうして? どうして、いつも素っ気無いんです?」

 なんと返せばいいのか、思わず言葉に詰まってしまう。君の想いに応えられるような人間じゃない。はっきりそう言えばいいのだろうかと、胸の中で自問するが正解は見つけられない。

「篠原さんに渡したいものがあるんです。だから明日の夕方、この場所で待ってます。来てくれるまで待ち続けます。だから――」

「わかったよ、俺の負けだ」必死になって訴えてくる彼女の頭を優しく撫で上げる。「明日なんとか時間作って、逢いに行く。だからもう、そんな顔するな、せっかく可愛いのに台無しだぞ」

「エヘヘ」と嬉しそうに笑う彼女は、確かに可愛いく見えた。

 俺もまだまだ甘い人間だと、自嘲する。

「どんなに遅くなっても、待ってますから」

「おいおい、あんまり遅すぎると親御さんが心配するぞ?」

「その時は友達と勉強してて遅くなったと、話すつもりです」

「まったく悪い子だ」

 思わぬ回答に苦笑する。明日必ず約束は守ると伝えてから、もう一度、頭を撫でてやった。それが今の俺に出来る精一杯の事だった。

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