第6話 せっかくの旅行だから最後までエスコートさせて
「真子ちゃん、待った?」
「いいえ、ちっとも。」
「はい嘘。30分前には来てたくせに。」
「見てたんですか!」
「うん。」
忙しい歌のお姉さん業のつかの間の休日。
「可愛かったなー。待ち合わせ場所でそわそわキョロキョロしちゃって。」
「希さん…早く来ていたのなら声をかけてください。」
「ごめんね。あまりにも可愛かったから。」
「そういうお世辞は結構です。」
「お世辞じゃないよ。」
今日は旅行。やっとで手に入れた休日。滅多に休みらしい休みなんてない私にとっては奇跡ともいえる休日。それも二連休。前に飲んだ日からどれくらいの日が経過しただろう。
思い返すこと約二週間前。休みが決まったら教えて、と言われていた私は二連休が貰えると分かったその日に、一応希さんに連絡を入れたのだ。
希さんは私に合わせて休みを取ってくれて、一泊二日旅行に行くことになったのだ。ちなみに、『行きたい場所があるから、もしよかったら旅行の計画を任せてほしい』と言われたので、特に行きたい場所もなかった私は、そのまま希さんに旅行の計画をお願いしてしまったのだ。
「今日、楽しみだったんだ。真子ちゃんは?」
「……少し楽しみでした。」
「少し?30分も早く来て?」
「なっ、30分前行動が身についているだけです!」
「それって普通10分前行動って言わない?ふふっ。まあいいや。真子ちゃんが言うならそういうことでいいよ。」
「もうっ何なんですか!」
希さんは笑いながら車を走らせた。
実はこの旅行。行き先をまだ聞いていないのだ。希さんには、国内でそんなに遠くない場所。とだけ告げられているのだが…。
「あの、何処に行くんですか。」
「それはついてからのお楽しみ。」
鼻歌交じりで車を走らせる希さん。運転姿が様になる。思わず助手席から見とれてしまう。希さんは私の視線に気づいてか、ふにっと口角を上げた。
今日の希さんの恰好は、淡い色のボウタイのシャツに浅葱色のジャケットとパンツという爽やかな組み合わせ。カジュアルな中に少しかしこまった感じもあって…なんというか、カッコイイ。それに比べて私は、とりあえず家にあるワンピースを着てみたけれど、自分の背が低いせいか、それとも童顔なせいなのか、はたまたワンピースの形のせいなのか、子どもっぽく見えてしまうような気がする。
ちなみに、仕事の衣装がここ最近は特に奇抜かフリフリのお嬢様!の二択みたいになっていた。それに対する反発心なのか、自分の普段着はシルエットがぼんやりとしている素朴なワンピースが多いのだ。それも地味な色合いばかり。今日だって着古したくすんだアイボリーの服だ。言い訳かもしれないけど、なかなか服を買いに行く暇もないのだ。
でもまあ……希さんみたいにもっとかっこよくて爽やかな色合いの服にすればよかったかなとほんの少し後悔してる。なんていうか、綺麗な百合の花の隣に雑草を置いたような…そんな感じ。
「真子ちゃん、今日のワンピース可愛いね。」
「そうでしょうか。……地味ですよね。」
「地味というより素朴な感じかな。私は嫌いじゃないけど?」
「私は少し後悔してます。」
「どうして?」
「それは希さんが思った以上にちゃんとした格好でかっこよくって……って!何でもないです。」
「ふーん。」
希さんは機嫌良さそうに相槌を打った。
「本当に何でもないですから!」
「分かった分かった。あ、もうすぐ着くからねー。」
なんだか軽くあしらわれたような気がする。
いつの間にか車は山の中に入っていた。緑の木々が生い茂っている。
「さて、着いた。」
駐車場に車を停めた希さんは車から降りると、助手席まで回ってドアを開け、手を差し出した。まるで紳士のエスコートだ。なんだか照れくさい。
私が手を取るのを躊躇していると、希さんはスッと私を握って引き寄せた。強制的なエスコート。でもその手つきは繊細そのもので…おまけに距離が近いせいか動く度にいい匂いまでして…なんていうか希さんを直視できない。
「さあ行こうか。」
エスコートされるままに車から降りると、そこは自然に囲まれた中にある可愛らしい家があった。山の中とはいえ、少し開けた場所になっている上に、こまめに手入れされているのか、雑草も刈り取られているし、花壇に植えられている花は気持ちよさそうに風に揺られている。綺麗な景色も相まって、まるで絵本の中のようだ。
「可愛らしい家ですね。」
「ここ、私の秘密基地なんだよね。」
秘密基地?秘密基地というにはいささか豪華というか、普通に人が住める家に見えるのですが。
「といっても、厳密には友人の別荘なんだけどね。時々使わせて貰ってるんだ。」
「そうなんですか。」
「ああ、心配しなくても良いよ。ちゃんと真子ちゃんと泊まること伝えてるし、別荘の物は何でも好きに使っていいって言われてるから。」
どんな友人なんだろうなんて考えてしまう。別荘を持ってるってことはお金持ち…なのかな。そもそもどうして友人の別荘なんだろう。もしかして急に決まった旅行だったから宿が取れなかったとか…?
「真子ちゃん、こっち。」
希さんに手招きされる。別荘に入ると、玄関口から新築の匂いがした。
「なんだか新築の匂いが…。」
「あー、そういえば真子ちゃん連れて行くこと言ったら、ついでに少し手入れしておくとか言ってたなー。よく見れば前来た時とは壁紙の色も違うし、家具も電化製品系も一新してる。」
それは少し手入れってレベルではないのでは?いったいどんな友人なのかさらに気になる。
「……すごいお友達ですね。」
「まあ、社長やってるからね。」
「社長!?」
「うん。」
けろっとした顔で答える希さん。
「で、どうしてこの別荘に連れてきたかというと……。真子ちゃんこっちきて。」
希さんが手招きをする。それについていくと、希さんはある部屋のドアノブに手をかけた。
「さあ、どうぞ。」
ゆっくりドアを開く希さん。その先に広がっていた光景に私は息をのんだ。
広い部屋に大きな窓。そして部屋の真ん中にはグランドピアノが置かれていた。埃一つも被ってないグランドピアノ。希さんはそのままピアノに近づいて、椅子に座って手招きをした。
「これは…?」
「すごいでしょ?この部屋。ちなみに防音になっているし、ここ山の中だからどれだけ大きな声で歌っても大丈夫だよ。」
希さんはにっこりと笑って、鍵盤に手を置いた、そしてスーッと息をすうとピアノの前奏を始めた。あ……もしかしてこの曲……。
私はこの曲を知っている。この曲は、私が一番好きな曲で……歌いたかったのに伴奏を言い渡された曲で……。
ピアノを弾く希さん。伏し目がちで、長い睫毛。鍵盤の上で流れるような指先。小さく揺れる服のボウタイ。その姿はまるで貴公子だ。希さんピアノ弾けるんだ…知らなかった。思わず見とれてしまう。
「真子ちゃん、歌ってね。」
「え?」
「真子ちゃんの歌、聞きたかったから。」
もうすぐ前奏が終わりそうなタイミングで声を掛けられる。彼女はあまりにも綺麗な笑みを浮かべている。
「ほら、もう前奏が終わるよ。」
「え、ちょっと…。」
「さあ、どうぞ。」
合図に合わせて私は大きく息を吸い込んだ。瞳を閉じて、大好きなあの曲を。一番好きなあの曲を。両手を胸に当てて歌い出す。
優しいピアノの音色に合わせて、最初は緊張していたはずなのに、ピアノのせいなのか、それともこの開放的な広い空間のせいなのか、……希さんのせいなのか。
いつの間にか緊張は解れて、強張っていた両手が広がる、目いっぱい空気を吸い込んで伸び伸びと歌えている私がいた。
時折希さんを見れば、にっこり笑い返しながら私に合わせて伴奏をしてくれる。それが妙に気持ちが良くて、嬉しくて、何よりも心地よく歌えている自分がいる。
曲が終わると、ふーっと息をついて希さんを見た。希さんは満足そうな笑みを浮かべていた。
「すごいなあ、歌のお姉さんは。生で聞いたら感動しちゃった。」
「すごいのは希さんです。ピアノ弾けるなんて知らなかったですし、いつの間に私の好きな曲を…。っていうか私この曲が好きって言いましたっけ?」
「んー?飲みに行った日に楽譜を落としたときに言ってたよ。忘れちゃった?」
「……言われてみればそうだったかもしれません。」
「私が立派な大人だって証明します!って私にキスしてきたのも覚えてる?」
「それは忘れてください。」
「ふふっ、それはしっかり覚えてるんだねー。」
クスクスと笑う希さん。カアッと顔が赤くなる私。
「せっかくだから、好きな曲を歌う真子ちゃんが見てみたかったんだ。ここの別荘にはピアノがあるし、誰もいない上に静かだから存分に歌が聞けるかなって。一人で特等席で聞いちゃった。ありがとね、真子ちゃん。」
「お礼を言うのは私です。……なんていうか、歌っててすっごく気持ちよかったです。」
「それは良かった。真子ちゃんが喜んでくれて私は大満足。」
「なんか、至れり尽くせりですみません。」
「謝らないで。私が聞きたかっただけだから。」
歌いたかったのに歌えなかった、伴奏だったんです、あの日のこと覚えていてくれたんだ。その優しさに胸がキュッと締め付けられる。泣いてしまいそうだ。
「あの、いろいろしてもらってありがとうございます。」
「どういたしまして。」
「もし、希さんがしてほしいこととかあったら言ってください。私に出来ることならしますから!」
「ほんと?」
「はい。もちろんです。」
「そっか。それは嬉しいな。じゃあ、まずは。」
希さんはにっこり笑って立ち上がると、部屋の隅に置いてあった荷物から何かを取り出した。
「今日の夜はこれを着てね。」
彼女が私に広げて見せたのは……えらくメルヘンなブラジャー……。わー妖精みたいっていうかそれ所々結構透けてません?
「このベビードールもね。」
わーお、こっちはそれ以上にスケスケじゃないか。何ですかこれ。可愛いですよ?胸元には花模様のレースなんてあしらわれていて可愛いですけど、完全にそれは勝負下着と部類と言いますか…。ちょっとセクシーすぎやしませんか。これを着ろっていうんですか!?いやいやいや、ここは丁重に断らねば。
「してほしいこと、何でもしてくれるんだよね?」
「えっと、そうは言いましたが…あ、ほら!サイズとか合わないかもしれませんし?」
「ああ、それに関しては大丈夫。私見ただけでサイズ分かるから。」
「はい?」
「職業柄なのか見ただけでバストサイズ分かるんだよね。ちなみにバストだけじゃなくて洋服のサイズも大体わかるよ。そしてこの下着はうちの店で結構売れてる商品なんだよね。可愛い上に着心地も良いと評判!」
「こんなセクシー下着が結構売れてるなんてそんな馬鹿な!」
「事実だよ。そして可愛い真子ちゃんにはきっと似合う。」
「着ませんよ?」
「……何でもしてくれないんだ?」
上目遣いに見てくる希さん。うっ、そんな目で見ないで。
「えーっと、………分かりました。」
「やった。ありがとう。」
「でも一瞬ですから!一回着て見せたらすぐに脱ぎますから!」
「それはすぐにでも抱いて欲しいということかな?」
「何でそうなるんですか!」
「え?違うの?だって、下着を着てすぐに脱ぐってことはそういうことかと。」
言葉では驚いているように言っているが、表情が完全に悪戯っ子な顔をしている。わざとだ。
「はあ…さっきの感動を返してくださいよ…。もしかしてピアノも全部この下着を着せる為ですか?」
「ううん、それは違うよ。歌が聞きたかったのは本当。下着はおまけみたいなものだよ。真子ちゃんテレビでも歌が上手いなーってたし、生で聞いてみたいとずっと思ってたからね。」
「そ、そうですか。」
「あ、照れた?」
「照れてません!もうっ。」
ひょいと投げられる下着をキャッチする。手に取ってみると分かる。やっぱり透けてる…だけど、胸に直にあたる部分は柔らかい素材が使われていて、肌にも優しそうな印象を受ける。
「気に入ってくれた?」
「どうでしょう。」
「その顔は気に入ってるみたいだね。」
「そんなことないですから。」
「真子ちゃんは顔に出やすいからなあ…。まあいいや。じゃあ、そういうことだから、夜までまだ時間もあるし、少しこの辺りを散策しようか。すごくいい景色の場所があるんだ。」
それから希さんと一緒に外に出て、暮れていく日と綺麗な景色をぼんやり眺めたり、そのあたりを散歩したり、別荘に戻ってゆっくりお茶を飲んだり、本当にのんびりとした休日を謳歌した。日々慌ただしく生活していた身としては、これだけのんびり過ごしたのは本当に何年ぶりだろう。
そして一緒に夕飯を食べて…ちなみに希さん、料理も出来るなんて…。しかも美味しかった。ピアノも弾けて料理も出来て、エスコートも完璧で、この人に苦手なものって何一つないんじゃないだろうか。
そして夜が近づいて来た。つまり、あの下着を着る時間も近づいて来たということで…。なんだか私の方がそわそわしてしまう。
「真子ちゃん、お風呂湧いたよー。良かったら先にどうぞ。」
「希さんが先でお願いします!」
「そう?じゃあ、お先に。」
希さんが脱衣所に向かったのを確認して、もう一度下着を広げてみる。これを着るのか…大丈夫だろうか。これを着て……。希さんに抱かれるのを想像すると、体の奥がざわつく。ああ、だめだめ!何考えてるの私。欲求不満みたいじゃない!
とりあえず下着を畳んでテーブルの上に置いて、私はソファーのクッションに顔を埋めた。
そしていつの間にかそのまま意識を手放してしまっていた。
「上がったよ。次真子ちゃん……って、あれ?寝てる?」
「ちょっと疲れちゃったかな。いつも忙しそうだもんね。」
「お疲れ様。」
ああ、なんだか心地よい夢を見ている気する。ふわりと浮かぶような感覚。シャンプーのいい匂い。温かい手のひらの感触。まるで雲の上にいるような…いい夢だなあ。
「ん……。あれ?」
ゆっくりと目を開けば、私はソファーで寝ていたはずなのにいつの間にか寝室のベッドで横になっていた。傍には誰もいない。一人だ。あれ?希さんは?
起き上がってキョロキョロと見渡すけれど、希さんの姿がない。ドアからはほんの少しだけ明りが漏れていた。
私はゆっくりドアを開く。薄暗い廊下を歩き、明かりの元をたどっていく。
「この部屋?」
ドアに手をかける。この部屋は、日中に歌ったピアノの部屋だったよね?確か。
ドアを開いた瞬間、ふわっと風が吹き込んだ。窓が開いていたんだ。
「あれ?真子ちゃん起きたの?」
窓を開けて、ピアノの椅子に座ったままぼんやりと外を眺めている希さんがそこにいた。
「ここにいたんですか。」
「うん。」
部屋の時計を見れば深夜1時を回っていた。
「運転もしてもらった上に料理までしてもらってますし、疲れてますよね?早く寝た方がいいと思いますよ。」
「うーん、寝たいのは山々なんだけどね。」
「何ですか?枕が変わると寝られないとかそういう感じですか?」
「いや、もともとだよ。あんまりぐっすり眠れることってないんだ。」
「不眠症ってことですか。」
「それに近いのかもね。」
眉をハの字にして笑う希さん。
「2~3時間おきには目が覚めちゃうんだ。」
「それは……つらくはないですか?」
「もう慣れちゃった。」
真子ちゃんは寝た方が良いよ、と希さんは立ち上がって私まで歩み寄り、私の両肩を持ってくるりと半回転させて部屋へ戻るように優しく押した。
いろいろしてもらっているのに、寝れない希さんを置いて自分だけ寝るのはなんだか申し訳ない。何か出来ることはないだろうか。何か…何か…。
起きたばっかりの半分寝ぼけているような頭で考える。いい方法…希さんが寝られる方法…。
「……子守歌…とか。」
「何?真子ちゃん?」
「えっと、子守歌とか歌ったら寝れたりします?」
何言ってるんだろう私。こんな子供っぽい扱いされて喜ぶ大人がいるわけないか。大体大人に子守歌って。何寝ぼけたこと言ってるんだろう私よ。
「ごめんなさい、今のは忘れてください。」
「真子ちゃんが歌ってくれるの?」
「へ?」
「真子ちゃんが歌ってくれたら寝られるかも。」
「まさか。」
「試してみない?」
「え。」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど、良いんですか?」
「何が?」
「子供扱いするなとか思ってません?」
「思ってない思ってない。むしろ真子ちゃんが歌ってくれるとか大歓迎。」
ふふっと希さんは嬉しそうに微笑んだ。そして二人で寝室に移動した。希さんは当然のようにさっきまで私が寝ていた寝室に入った。そして私が寝ていたベッドに腰かけた。
そしてその傍をトントンと叩いた。座るようにってことなんだろうけど…。
私はその傍に腰を下ろす。すると、希さんが私をぎゅっと抱きしめた。
「ふふっ真子ちゃん温かくて柔らかいね。抱き枕みたい。」
「太ってるってことですか。」
「違うって。そう悲観的に捉えないで。前向きに捉えないと。」
抱きしめられているせいで耳元で囁かれる希さんの声がくすぐったい。私は希さんの鎖骨あたりに手を置いてぐいっと押し離した。
「もうっ、寝るんじゃないんですか!子守歌、歌わないですよ。」
「えーそれは困る。」
希さんは布団をかぶった。
「さあ、どうぞ。」
「………えっと、何の曲を歌いましょう?」
「そうだなーじゃあ、今日歌ってくれたやつで。」
「あれで良いんですか?」
「うん、あれがいい。」
一番好きな曲。私は息を吸って、囁くように、優しく、ゆっくりと口ずさみ始めた。
希さんは瞳を閉じてそれを聞いてくれている。睫毛、長いなあ。顔もとても綺麗…だけど、普段から寝不足なのか貧血なのか若干青白い顔をしているよう気がする。今日の旅行も無理させちゃったんだろうか。
歌いながら、希さんの前髪を撫でてみる。サラサラの髪。希さんはくすったそうに睫毛を僅かに揺らした。
しばらくすると、希さんの寝息が聞こえる。あ、もしかして寝たのかな。
私は歌を止めて、確認するよううに希さんに顔を近づけた。綺麗な顔に、規則正しい寝息。普段はかっこよくて整った顔をしているのに、寝顔はなんだか少し幼く見える。
「良かった。」
思わず安堵の言葉が零れた。私が立ち上がろうとした時だった。希さんの手が私の手首を掴んだ。
「わっ。」
そのまま引き寄せられる。ベッドに沈み込む私の身体。希さんはそのまま私を抱き枕のように抱きしめた。
「のっ希さん。」
「んー?」
「起きてたんですか!」
「さっきの一瞬は本当に寝てたよ。」
「もうっ。私の歌意味ないじゃないですか。」
「意味はあるよ。本当に一瞬意識飛んでたから。真子ちゃんの歌が心地よくてねー。さすが。今も真子ちゃんが離れそうだなーって気配感じて起きちゃっただけ。あのまま傍にいてくれたら本気で寝てたと思うよ。」
「またそんなこと言って。」
「本当だよ。」
希さんは私を抱きしめている腕を離さない。
「というわけで、今日はこのまま寝てくれる?私の安眠のために。」
「……そんなこといって何かする気じゃないですか?」
「何かしてほしいんだったらするけど。」
「結構です。」
「じゃあ、このまま傍にいて。本当に熟睡できそうな気がするから。試させて。」
お願い、と私の目をじっと見つめる希さん。そんな目で見られたら断るわけにいかないじゃないか。
「しょっしょうがないですね。旅行の計画も立ててくださいましたし、今回は希さんのお願い聞きます。」
「ありがと。」
「今回だけですよ!あと、何もしないでくださいね?」
「分かってるよ。」
そう言って希さんは、私たち二人の上に布団をかぶせた。柔らかい一人用の布団に二人で入る。布団からはみ出ないようにぎゅっと密着をして。
希さんから香るいい匂いに、思わずドキドキしてしまう。密着しすぎてこの心臓の鼓動が希さんに伝わってしまわないか心配だ。
静まれ、静まれと念じながら私は目を閉じた。
「おやすみ。」
唇に触れる柔らかい感触。それがキスだと気づくまでに少し時間がかかってしまった。
「なっ。」
何もしないって言ったのに、と反論しようと目を開くと、希さんは私を抱きしめたまま、瞳を閉じて小さく寝息を立てていた。
「もうっ。」
私は反論するのをあきらめて、瞳を閉じた。
希さんは本当に何もしないで、ただただ傍で寝ていた。
そして朝が来た。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえる。
「んん…。」
山の中だから少し冷える。ゆっくりと目を覚ませば、そこには寝息を立てている希さんの綺麗な顔があった。どうやら本当に寝ているようだ。
「寝てる…よね?」
また寝たふりをされてたりしないだろうか。私はゆっくりと手を伸ばして、希さんの目の前でヒラヒラと動かしてみる。……反応がない、ということは寝ているようだ。
朝まで寝られたのかな。だとしたら良かった。思わず笑みが零れた。
「朝ごはんの支度でもしようかな。」
起き上がってベッドから出ようとすると、背中の服を掴まれた。
「わっ。」
「おはよう。真子ちゃん。先に起きてたんだ。」
「希さんは今起きたんですか。」
「うん。珍しく熟睡しちゃった。真子ちゃん効果だね。」
「私、何もしてないですけど。」
「そんなことないよ。いやーでもこれだけしっかり寝られたのは久しぶりだよ。ありがとう。」
希さんも起き上がってぐいっと伸びをした。
「お礼を言われるようなことはしてません。」
「まあまあ。照れないで。さて朝ごはんの支度でもしようかな。真子ちゃんはそこで待ってて。」
「あっ、それは私が。」
「じゃあ一緒にしようか。」
「希さんはまだ寝てていいですよ。」
「だーめ。折角の旅行だから最後までエスコートさせて?」
希さんと一緒にキッチンへ向かう。何だろう、一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に朝食なんて…別荘なことも相まってまるで新婚夫婦のようじゃないか。
ほんのりと顔が赤くなる私。もうっ、何考えているんだか。キッチンへ足早へ向かおうと歩みを進めると、リビングのテーブルに置きっぱなしだったあれが視界に入る。
「あ。この下着。」
「昨日着てもらうの忘れてたね。残念。今着てくれてもいいよ。」
「こんな朝っぱらからこんなセクシー下着は着ません!」
「うん、そう言うと思った。だから、これは次の機会ね?」
希さんはくすくすと笑いながら下着を手に取ると、私に渡してきた。
「もしかして期待していたならごめんね?」
「期待なんてしていませんから!」
「真子ちゃん意地っ張りだからなー。」
「意地っ張りなんかじゃっ。」
私が言い終わる前に希さんは私の首筋にキスをした。
「ひゃっ…んっ。」
「ん…可愛い。」
「そっそんなことする人の前ではこの下着着ませんからね!!」
「おっと、それは困るね。じゃあ、もっと刺激的な下着を代わりに用意しておくね。」
「どうしてそうなるんですか!」
いつもの調子で余裕たっぷりに話す希さん、もしかして朝っぱらから抱くつもりじゃないだろうな。思わずじりじりと後退りをして希さんと距離を取る。
「警戒しないで。そもそも友人の別荘で、大好きな子を抱くつもりはないから安心してね。」
思考が読まれていたようで恥ずかしい。私は顔を赤くした。
「真子ちゃんを抱くときは、場所ももっとちゃんと考えるし……あ、もし私の家が良ければそれでもいいけど。せっかくだから一緒に住んじゃう?私も真子ちゃんいると安眠出来るみたいだし。」
「どうしてそうなるんですか!」
「ふふ、その言葉さっきも聞いた。」
希さんは楽しそうに鼻歌を歌いながら朝食を作り始める。
冗談なのか本心なのか分からないけど…なんだか振り回されてるなあ。
「もうっ。」
「あははっ。まあ、今度のデートが楽しみだね。真子ちゃん、その下着付けて来てね。」
「絶対着ませんから!」
今回の旅行は本当にリラックスというか休息が目的だったようで、彼女の目的通り本当にリフレッシュできてしまった。それからまたのんびりと車に揺られて初めてのお泊り旅行は幕を閉じたのだった。
「あ、もしもし。つばさ今大丈夫?」
「大丈夫だよ。どう?初お泊りデートは上手くいった?」
「まあね。」
「抱いちゃったりとか?」
「それはしてない。」
「嘘!?あの希が?新調した家具とか装飾にトラブルがあったとか?」
「それは全くないよ。」
「珍しいこともあるんだね。」
「そう?まあ、今回は別荘貸してくれてありがとう。」
「いいえーどういたしまして。またいつでも必要なことあったら声かけて。」
「うん。」
「あー!そうだ、良かったら今度彼女紹介してよ。」
「嫌。」
「どうして?」
「つばさは節操なしだから。」
「うーわ、希に言われたくない。ま、詳しい話はまた飲みに行ったときにでも聞かせて。あ、良かったら雨季も誘おうか。……おっと、呼ばれちゃったからまたね。」
「うん、ありがとね。」
「………そんなに珍しいかな。」
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